悲哀の極みに光る希望 朴 大信

【信仰修養会・開会礼拝説教】

エレミヤ書1章4~10節 / ヨハネによる福音書9章1~5節

戦前、時の軍国主義政策を批判して東京大学を辞職せざるを得なくなった矢内原忠雄が、1940年に『余の尊敬する人物』という名の書物を著しました。その「尊敬する人物」の最初に、矢内原は預言者エレミヤを取り上げ、その中で彼はエレミヤを「悲哀の預言者」と呼びました。その文章の一部を紹介します。

真理は彼の食物でありました。喜びでありました。愛でありました。真理なくしては、彼は一日も生くることが出来なかったのです。真理のためには、彼は一生を賭して戦ったのです。真理を愛して、真理の戦に倒れたるエレミヤよ。汝の生涯は敗北の生涯であった。汝は国民に踏み付けられ、婦女たちに嘲笑されつつ悲哀の生涯を閉ぢた。併し汝によって真理は今日に維持せられたのだ。

矢内原はまた、こうも述べました。

エレミヤの希望は悲哀の底に咲き出でた花、暗黒の中に輝いた星である。神を信じて最も深く悲しむ者は、また神に在りて最も高く希望する。……凡て逆境苦難の中に憂ひ悲しむ者に対する無限の慰藉(いしゃ)が此処にある。

ところで、この矢内原の師・内村鑑三もまた、アメリカ滞在中にエレミヤ書に深く傾倒し、これを読んで日本に対する愛国心を取り戻したと言われます。彼はエレミヤを「最大の預言者」と呼び、「エレミヤが解らなければイエスは解らない」とまで言いました。この内村が、その後どのような精神的、思想的鍛錬を積み重ねてこの日本の地に影響を及ぼし、また貢献をしたのか。このことについて、かつて隅谷三喜男は次のように論じました。

縦軸のない日本社会は、……元来浮遊することをもって良しとしてきた……戦後民主主義は縦軸の代用物の役割を果たしてきたが、流れの早さに押し倒されようとしている。……縦軸のないところでは横軸の流れだけが方向を決定する。……そこに今日の日本の真の危機がある。座標軸の構築こそが、内村が日本の思想史に残した遺産であり、その再構築が今問われている。

半世紀近く前に書かれた内村鑑三論ではありますが、この隅谷の指摘は、縦軸が根付き切らずに揺れ動く今日の日本社会にあっては、ますます痛切に響く警鐘ではないでしょうか。背信と暴力、搾取が無惨にも渦巻くこの現実世界にあって、私たちはそれでも生きる希望をどこに見出すことができるでしょうか。

今年の修養会の主題は「預言者エレミヤを導かれる神―苦難の時を経て、新しい契約へ―」。この主旨文の最後で次のように呼びかけられました。「友よ、闇に覆われたかのような国内外のただ中において、預言者エレミヤと神との新しい約束に今一度心を傾けようではないか。そして、共に祈り、語り、学び合いながら、自らの立つ位置を定め、明日を生きる力としようではないか」。この呼びかけに真剣に耳を傾け、応えてゆく三日間でありたいと願っています。

さて、今日はエレミヤ書と併せて、ヨハネによる福音書もご一緒にお読みしました。実はここ最近、牧会上の働きを通して立て続けにこの御言葉に沈潜する日々を送っていたからです。

一つの出会いをご紹介します。先日、見ず知らずの方から一本の電話がありました。受け取ると、単刀直入にこう訊ねて来られました。「そちらの教会は、礼拝堂はいつも開いていますか」。私「はい。開いていますし、時折一人静かに祈るためにみえる方もいらっしゃいます。いつでもどうぞ」。このご案内で要件は済むかと思いました。すると、その方は続けました。「そちらの教会には、懺悔室はありますか」。カトリック教会の告解室をイメージされたのでしょう。私「残念ながら、私たちの教会にはありません。ただもしご希望でしたら、私でよろしければ一度お話を伺って、ご一緒にお祈りもさせて頂きますが…」。私はそうお応えして、相手の反応を待ちました。「そこまでは結構です」と断られるかもしれない…。ところが、その方はさらにこう続けるのです。「私はもう、ゆるされなければ生きていけないです。神さまにゆるして頂かなければ、到底生きる資格もないのです。実は私、最愛の一人娘を自死で失ってしまい…」。

事態は、一気に深刻さを増しました。そして後日、教会でお会いすることになりました。しばらくこの母親のお話に耳を傾けながら、分かったことがあります。最初の電話口での「願い」(ゆるされたい)は、「問い」へと変えられて(深められて)いたのです。否、そしてその問いは、自問自答のようでありました。①どうして娘は逝ってしまったのか? ―分からない。むしろ自分が母親として何もしてやれなかった無力感や激しい罪悪感ばかりが募る。②これから自分に、生きる資格などあるだろうか? ―ない。生きる価値もない。あるとすれば、ゆるしを受けなければならないだろう。でも娘なしの人生は考えられない。

自問自答はこのように続きました。そして最後に、―そしてこれがこの母親にとっての最大の主訴だったのですが―こうぶつけて来られました。③私、どうして死んじゃいけないんですか? ―周りは皆、死んじゃ駄目だという。でも私、後追いして死ぬのはちっとも怖くない。今でも死ねる。むしろ娘に早く会いたい。

この言葉の背後に詰まった、母親の言い尽くし難い気持ちを僅かに想像しただけでも、私は身震いするばかりで立ちすくむ他ありませんでした。何も言葉を返せませんでした。なぜ死んではいけないのか。この問いに対して、「絶対に死んでは駄目。死んでほしくない」との思いは口先まで込み上げて来るものの、しかしいったい、私に何の資格があって、この母親に対する何が分かって、そんな口を利けるというのか。ただただ恐れるばかりでした。逃げられるなら逃げたい。正直にそう思いました。

その、まさに私にとって唯一の逃れ場となったのが、祈りでした。たじろぎつつ、心中こう祈りました。「主よ、どうか助けてください。私にはあまりに荷が重すぎます。しかしこの方は、私を訪ねて来られたのではなく、本当はあなたを求めて訪ねて来られたのだと信じます。否、あなたご自身がこの方に出会ってくださる御心こそが、今ここで見るべき真実だと信じます。だからどうか、あなたがお語りください……」。

こうして思いがけずそこで示されたのが、今日のヨハネ福音書の言葉です。「『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」(9:2~3)。

ここで「生まれつき目の見えない人」というのは、生身の世界で起こる、ある種不幸な現実の象徴と理解することができるでしょう。その不幸が起きたのは、誰の罪のせいか。「本人ですか。それとも、両親ですか」。しかし主イエスは、当時のいわゆる「因果応報」的な見方はせず、「神の業がこの人に現れるためである」と宣言します。これをもう少し広く解釈すれば、この不幸な現実、この生き地獄のような耐え難き苦しみがあるのは、過去に原因をもつからではなく、むしろ将来に対して目的をもつものだからだ、というメッセージにも響いてくるでしょう。なぜ死んではいけないのか。その答えは、私たちの中や間を見ても分かりません。しかし神との関わりで捉え直す時に、見えて来るものがある。

しかし私は、躊躇なくこれを受け入れることができませんでした。今、深い悲しみと困窮のただ中にある人にとって、この言葉はともすれば、何と無神経で、暴力的かと。もし相手がこの場で何がしかの期待を寄せていたなら、かえって傷を負わせ、より深く落胆させる結果を招きはしないか。主よ、あなたが私の口を通してお語りになる言葉はこれですか。私には、またもや荷が重いです。恐いのです。

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)という御言葉があります。しかし真理は、あるいは正義は、時に人を苦しめることがあります。思うに、真理は真理でも、たとえそれがどれだけ正しさに満ちていても、その真理を、もしも人がただ自己主張や自己満足のために振りかざすだけで終わってしまうなら、それは真理だけが独り歩きして相手に襲いかかり、まるで剣で裁き落とすようなことになりかねない。けれども、もしその真理を武器として相手に振りかざすのではなく、その真理そのものの中に私が留まり、その真理が本当に目指す道を生きることができるなら、人間の思いや期待を越えた現実がそこに出来事として起こるのではないか。そこに実現すべき、神の真の救いの御業が成し遂げられるのではないか。

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。

この時私は、ただ主イエスにすがる思いでなおも祈り続けました。「自分にはこの母親を救うことは何一つできません。しかしあなたであれば、ただあなたこそが、この人の友として真実をもって愛し、生かしてください……」。

この祈りの中で、私は母親に向き直りました。この母親は、それまでの私の姿をずっとご覧になりながら、その後の私の言葉一つ一つにも静かに耳を傾けておられました。そして一言、こう仰いました。「分かりました。何だか少し、光が見えてきたような気がします。今日ここに来て、よかったです」。しかし少しだけホッとしたのも束の間、教会の玄関先で、最後の最後で、実に意味深な言葉を一つ残して行かれたのが今も忘れられません。「神さまの御業が将来、本当に現わされた時、その時が娘の死の意味が分かる時であり、そしてその時こそが、私が本当に死ぬ時ですね」。

これが何を意味し、予言しているのか。複雑な気になります。

しかしだからこそ、私は、この方のための祈りをますます募らさずにはおられません。「神よ、あなたが生きて働き給うお方である限り、この人を愛し、真理の中を歩ませてください。本当の赦しを与え、赦されて生きることの恵みで満たしてください。取り返しのつかない過去の何がしかの罪悪に対する『赦し』など、もはやこれからを生きるのに何ら必要とすらしないとこの母親が思っておられるなら、将に来たり給う将来に向かって、今この時、あなたがこの方を捕え、赦して、愛してくださいますように」。

預言者エレミヤが、初めどんな思いで神からの召命を受けたかを思います。神の民イスラエル(当時のユダ王国)に襲い掛かっていた政治的試練(「北」からの脅威)。歴史的苦難。信仰共同体としての崩壊の危機。あの母親の身に、悲劇としか思えないような出来事が思いがけず起きたのと同じように、かつてのイスラエルの民にも、苦しい試練が待ち受けていました。そしてそれは、一方では大変厳しいことですが、神への背信行為(偶像崇拝など)に対する、神の裁きでした。しかも民たち、そして何より指導者たちは、その深刻さに気づきもせず、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」(6:14)有様だったのです。

この危機的状況を裁くために、しかしそうであればこそ、真実なる裁きをもって神の民としての歩みを建て直すべく、神はエレミヤを召しました。その時の両者における対話の真剣勝負が、大変印象的です。「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す』と主は言われた。主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。』」(1:6~10)

最後の「破壊」と「建て」る、つまり神の徹底的な裁きと救いとの間に立って生きた者こそ、エレミヤでした。しかしそれ故、彼は「涙の預言者」とも呼ばれます。愛する同胞の民、そして友のために、涙を流さずにはおられなかったからです。自分に課された過酷な重圧や試練に対する苦しみの涙だけではなく、神の裁きに秘められた真の赦しを知らずして独りよがりに生きる友たちへの哀しみの涙です。真実を求め、神の真実に生きる決心に立つ者だからこそ、あらゆる苦難を己の負うべき苦難として引き受けんとする愛に満ちた涙です。「わたしの頭が大水の源となり わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう 娘なるわが民の倒れた者のために」(8:23)。

(日本基督教団 松本東教会牧師)