開会礼拝 「和解」潘信煥(バン シンファン)
コリントの信徒への手紙二 5:18-21
韓南大学キャンパスを訪問された共助会の皆様を歓迎いたします。とりわけ、今は神様の復活を胸に抱き、自分の至らなさと歪曲を探る四旬節の期間です。
私の家の前の木蓮は花が咲き始めました。そして私たちのキャンパスにも、もうすぐ桜も咲くでしょう。今週末には東京でも桜が咲き始めるという予報をグーグルで見つけました。四旬節は神の苦痛と死を黙想します。しかし復活祭はいつも春分以降の日曜日で日が決まるので、昼が夜より長くなるにつれて、より明るくなり、だんだん暖かくなります。暗さから光に向かい、より活発になる動きです。
今日の本文で、使徒パウロはキリストの仕えを和解で語ります。18節で、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」と説明し、19節で、「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」と説明します。キリストを通じて私たちを救う神様の仕えは、和解なのです。
これに似た説明を、ローマ書5章9―10節でもしています。「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」。ここで、義を重んじる、神学的用語にすると、正義(justification)が和解につながっています。つまり、キリストの救援の仕えを和解で説明し、正義でも説明します。この一節と今日の本文を比較すると、コリント教会は律法に対する悩みがないと使徒パウロは判断したようです。
誰が和解をするのでしょうか。誰が和解を始めますか。
18節で「神」と明示されています。神様が和解の主体です。同時に神様の和解に反応する存在として、18節で「和解の職分を」担う人、20節ではキリストの使節を語っています。ここでは使徒パウロを指すのですが、神の和解に応えながら、和解を追求するキリスト教徒に拡大することもできるでしょう。神様が和解の主体ですが、私たちも和解の主体です。神様が私たちと和解したからです。
誰と和解するのでしょうか。和解の対象は誰でしょうか。
19節を見ると、「人々の罪」と書かれていますが、「罪を犯した人々」と言え、ローマ書5章9節には、「神の怒り」にいる人々、10節には、「神の敵」となっています。神様に罪を犯した人々、神様と仇になっている人々だと聖書は説明しますが、私たちの人生に適用すれば、私に不当に損害を与えた人、私を不当に憎む人だと言えます。私に悪いことをしたので、私が怒るのは当然の人で、私が近づきたくない対象です。もちろん、私が誤って私と離れた人、または自然に私を憎む人も含まれます。
どうやって和解するのでしょうか。韓国と日本で共通に現れる
現象があります。相手に迷惑をかけることにとても不安を感じて、妄想まで起こしたりします。アメリカ精神医学協会が2022年に刊行した最新精神障害の便覧によれば、社会不安障害に対する韓国と日本の文化的現象を説明しながら、taijinkyofusho(対人恐怖症)という用語を提示しました。対人関係に葛藤が生じ、相手が怒ったり不快に感じたりすると、相手に迷惑をかけているという不安に襲われる症状です。この時、無条件に関係を回復すること、つまり、和解への衝動に駆られます。
ところが、今日の本文で和解は和解それ自体のためのものではありません。
21節で、神との和解は、他人にとって神の義になることです。この義という用語は、正義という意味も持っています。和解は、義で正義のある関係の回復であるということです。これの具体例として、私はマタイ福音書18章15― 17節を考えます。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」。ここで、忠告で成り立つ関係および証人と教会の前で説明できる関係の回復を追求します。関係自体だけが回復するのではなく、正しい関係、あるいは公平な関係を新たに構成することが和解だということを示しています。
より具体的に、和解の過程に何が含まれているのでしょうか。社会心理学における和解の先行事件として、葛藤は主要テーマの一つです。私たちの生活で葛藤は避けられません。それで私の仇あるいは神様の怒りを受けなければならないと知覚する相手とは、単に葛藤ではなく、「葛藤の悪化(escalation)」を経験することです。そして和解は、葛藤の解消です。葛藤の悪化と解消で、相手に対する知覚または認識が相当な影響を与えます。葛藤が悪化すると、相手に対する誤解と偏見が極端に現れます。敵、仇、横道な者、能力の低い者、サタン、悪魔の子、などで、善意を失った存在、未来の潜在力を失った存在として認識されます。ところが、和解の過程で、仇のようだった存在、鬼のようだった存在が、哀れむべき存在で、善意を持っているが失敗する存在として感じられる知覚および認識の転換が現れます。そして、次第に弱点や矛盾もありますが、将来の可能性のある存在に感じられます。結局、私たちのような存在として感じるようになります。今日の本文の用語でみれば、キリストの中で神様と和解した存在、私たちと正義で公平な関係を形成する存在、キリストと連合した存在として感じ認識するようになります。
そして、葛藤を解消する過程で、行動も大きな影響を与えます。お互いに会って、協力して成功的な結果を出すことです。一緒に会ってお話をし、一緒に食べて、遊んで、笑う活動をしていると、相手も私のような存在だということを無意識に知るようになります。
10年前にわが大学のキャンパスで居住しながら活動していたアメリカ長老派宣教師夫婦がいました。この方たちは、2―3名のアメリカ人青年たちが大学卒業後、このキャンパスで一年間滞在するプログラムを運営しました。ある夏、この方たちはアメリカ人青年たちと韓南大学の在学生たちを率いて、日本の大学を訪問して研修をしました。あるイベントで、日本の大学生、韓南大学の在学生、アメリカ人青年たちが一緒に、広島平和記念資料館を訪れ、会話をしました。日本の大学生たちは、原爆の惨状と後遺症を、アメリカ人青年たちは戦争の終息を、韓南大学の在学生たちは植民支配の終息を語りました。驚いたのは、相手の視点から話す話を初めて聞いたという告白が多かったことです。お互いに異なりますが、お互いに十分共感できたし、お互いに人間だということを感じたと言っていました。そして、自分たちの視点が広がり、成長することを感じたと言っていました。
私たちは、和解の主体も知っているし、対象も知っています。
和解の方法も知っており、その過程も知っています。最も重要なのは主体です。対象や状況に応じた和解の方法と過程について、専門家の助けを借りることができます。ところが、和解しようとする動機、意志、あるいは目標は、外部の助けではうまくいきません。私たちは、神様が私たちと和解したことを告白します。そして、その神様の和解によって、私たちが和解の仕え、和解の使節という動機を持っています。どんな場合でも、逆境にも屈しない意志かもしれません。あるいは、私たちの人生の方向になって私たちの人生を調節する目標でもあります。この仕えに関心を持って参加するすべての方々を歓迎し祝福いたします。
祈り和解の神様、私たちと和解したことを感謝します。
神様の和解に反応して、どんな状況でも、和解の仕えに関心を持ち、参加できるようお祈りします。
イエス様のお名前で祈ります。