説教

傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく  飯島 信

 【一日研修会 開会礼拝】

傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく  飯島 信

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。

わたしが選び、喜び迎える者を。

彼の上にわたしの霊は置かれ

彼は国々の裁きを導き出す。

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷ちまたに響かせない。

傷ついた葦を折ることなく

暗くなってゆく灯心を消すことなく

裁きを導き出して、確かなものとする。

暗くなることも、傷つき果てることもない

この地に裁きを置くときまでは。

島々は彼の教えを待ち望む。」

(「イザヤ書42:1―4、1955年改訳)

お早うございます。

2025年を迎えました。

共助会創立106年を迎えるにあたっての私の想いは、1月発行の『共助』第1号の巻頭言に記しました。今日の開会礼拝では、巻頭言では分に語り得なかったことについて短く触れたいと思います。それは、この小さき群れである基督教共助会が神様から託された使命についてです。

巻頭言で語りたかったことは、共助会が拠って立つ綱領とも言うべき「キリストに在る友情」についてでした。そのことに関わり、私は次のように記しました。

「共助会の使命とは何か。それは、友が負っている人生の課題を知り、分かち合うことを通して、キリストに在る交わりをより確かなものにすることである。一例を挙げれば、ミャンマーで起きている試練の重荷を背負い続けている友がいる。雪深い地で、福音の種を蒔き続けている友がいる。困難な環境に生きる者を訪ね、希望を届けている友がいる。」

私は、最初編集部に送った原稿を差し替えてでも記したい言葉がありました。それは、前の二つに続けて、「困難な環境に生きる者を訪ね、希望を届けている友がいる」との言葉でした。なぜ記したかったのかですが、それは、ある方から次のようなメールを受け取ったからです。その方は、私が深く尊敬している方で、全盲の方です。Aさんと言います。私はAさんから彼女の友人であるBさんを紹介されました。紹介されたと言ってもBさんにお会いしたことはなく、お名前を聞いていただけのことです。ただ私がBさんに深い関心を持ったのは、Bさんは、全盲だけでなく、耳も聞こえず、さらに言葉も発声出来ない三重の障がいをお持ちの方であり、Aさんから祈りに覚えて欲しいと言われていたからです。そのAさんから、Bさんと面会が出来たことの報告がメールで届きました。それは、次のような内容でした。

「本日、盲ろう(聾)のBさんのところに面会に行って来ました。

(Bさんが心の病を患って)病院に居たころ、声も言葉も失い、これからどうなるのかと思ってしまいましたが、声を失くしたことで、すぐに特別養護老人ホームに移ることができ、また自宅に近くなり、『C盲ろう者友の会』の人たちとも近くなり、彼女が今まで活動を共にしていた人たちが舞ってくれたり、外に連れ出してくれたり、老人ホームの手厚い介護もあり、表情も和らぎ、笑顔を見せてのほぼ45分ほどの面会ができました。

盲ろうの彼女にとっては、彼女の人差し指を持ってわたしが書く一ひととき時が外界との唯一の窓。わたしが彼女の指を持っ書く一文字一文字の積み重ねが単語となり、文節となり、文章となってコミュニケーションが交わされて行きます。

『ひと もじ ひと もじ を ゆっくり ていねい によみとれて いる ことを たしかめて から かいて』と、次々に文字を書こうとする私に言ってくれました。

昔の彼女は推察力も高く、ドンドン書いても読み取れていましたが、今は一文字一文字を読み取った音を声に出し、その声をわたしは聞いて、わたしの書いた字が読みとれていることを確認してから文字を続けて書いていきました。

その有様は、文字一字がいかに大切か、必死で読み取ろうとする彼女の姿勢がわたしを篤くしました。

このコミュニケーションをしながら、今回、彼女にとっての窓、彼女のこころとわたしを繋ぐのはこの一文字一文字の積み重ね。極端に言えば、一文字に尽きることを示され、彼女の住む世界を今まで以上に知らされた思いでした。

わたしが『A』と名のってから、彼女が口を開いたひとことは『いまの きせつは……?』と小さく訊いてきました。

『ふ ゆ』

続けてまた『なん がつ?』

『11がつ』と書きました。

季節も、今が何年何月かもわからない生活をしていること。

『Aは なんさい?』

『○○ さい。』

『Bも しょうわ ○○ねん 〇がつ ○○にち に うまれた。○○歳。』

自分自身のことを確かめたかったのだと思いました。

今は、クリスマスの飾り付けがホームにきれいに成されていますが、季節を訊いてきたと言うことは触らせてもらってもいないのでしょう。

今年の夏に声を失くした彼女を知っているだけに、老人ホームに変わってからの彼女が自分を取り戻しつつあることを感じ、多くの方々に祈られておりますことを感じ、ここに報告と共に感謝を申し上げます。

1ヵ月に1回、会うことを約束して帰って来ました。

12月は23日午前11時、面会予定です。

続けて祈りに覚えていただければ嬉しく思います。

教会の皆様方にも感謝のほどをお伝え願えれば嬉しく思います。」

メールは、以上です。

心を打たれる内容でした。

Aさんご自身、全盲です。Bさんを訪れるには、Aさんの介助をしてくださる方と予定を調整し、介助者と共に電車を乗り継いで向かいます。大変な時間と労力を費やさなければなりません。面会するのに朝から出かけてほとんど一日がかりと聞いています。しかし、それにもかかわらず、ご自分よりさらに重い障がいを持っている友人に仕えるその姿は、弟子たちの足を洗い、互いに仕え合うことを教えたイエス様の姿を思い起こさせます。

私は、共助会の使命の一つを、Aさんが語られた次の言葉に見出すことが出来るように思います。それは、「盲ろうの彼女にとっては、彼女の人差し指を持ってわたしが書く一ひととき時が外界との唯一の窓。わたしが彼女の指を持って書く一文字一文字の積み重ねが単語となり、文節となり、文章となってコミュニケーションが交わされて行きます。……このコミュニケーションをしながら、今回、彼女にとっての窓、彼女のこころとわたしを繋ぐのは、この一文字一文字の積み重ね。極端に言えば、一文字に尽きることを示され、彼女の住む世界を今まで以上に知らされた思いでした」との言葉です。

つまり、共助会の使命とは、Bさんにとっての唯一外の世界との扉を開く者となること、「Bさんの人差し指を持ってわたしが書く一ひととき時」の務めを負う者となることです。「このコミュニケーションをしながら、彼女にとっての窓、彼女のこころとわたしを繋ぐ」者となることです。

さらに言えば、隣人、しかも最も困難な所にいて助けを必要としている者の隣り人となることです。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」、善きサマリア人の話しで命ぜられているように、「行ってあなたも同じようにしなさい」との御言葉に立ち、実行に移すことです。それは、この欠け多き、取るに足らぬ小さき器である私たちが、神様の導きのもと、助けを必要とする者の一筋の希望の光として用いられることです。

共助会の綱領とも呼ぶべき他の一つは、「キリストの他、自由独立」です。

それは、友にキリストを紹介することを使命とすることが前提となる言葉です。

さらに、原規約には「本会は何れの教派にも属せず」と明記してあります。

プロテスタント、カトリックを問わず、教派を超え、キリストの十字架による罪の贖いと復活を信じる、その信仰だけが私たちの群れの原点です。

2025年、どのような、時に厳しい道がそれぞれに待ち構えていようとも、互いに祈り合い、覚え合い、支え合い、何よりも私たちに束されている聖霊の導きを求め、歩みを進めて行きたいと思います。

冒頭にお読みしたイザヤ書の御言葉は、私たちがこれから直面する、いやすでに直面している国内外の現実が、神の経綸・裁きの中にあることを教えています。神に定められた道から遠く外れ、暴虐と混迷とが支配する世の最中(さなか)にあって、神から呼びかけられている細い声を聞き分け、定めの道に立ち返ることを、「私の支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人」のように、己の命の許す限り隣人に示し得る者となりたいと祈るのです。

祈りましょう。

(日本基督教団 小高伝道所・浪江伝道所牧師)