【お礼・挨拶】父への思いと感謝 尾嵜 令

本日は、お忙しい中、父のためにこのようにお集まり頂きましてありがとうございます。こうして、本城先生の司式のもとに告別式を無事に終えることが出来ました。

また、式の中では、心温まる弔辞をいただき、本当にありがとうございました。

父は、4日の朝に熱海の病院にて、天に召されました。89歳でした。病院では、父にとって、とても辛い状態の時もありましたが、最期は父らしくとても穏やかに神様の元に召されました。父は最後の最後まで守られ、祝福されて神様の元へ逝かれたように思います。亡くなる10日ほど前には、立川教会の飯島信牧師によって、病床聖餐を受けることが出来ました。本当に感謝です。父のこれまでの歩みは、教会中心の生活でしたので私よりむしろ教会で接している皆さんの方が、父のことを良くご存知かもしれません。牧師を隠退してから今日に至るまでの父、そして私が感じたままの父についてお話しをしたいと思います。

父が久我山教会の牧師を隠退したのは、2008年、79歳の時でした。隠退してからは、三鷹のマンションに5年ほど母と暮らしていました。この間、近くの南三鷹教会に通い、教会から声がかかりますと父は、説教の準備をし、お話をしていたそうです。また、同時に共助会のことにも関わっていました。原稿を依頼されることがしばしばあり、時にそれが、徹夜に近い状態の時もあったように聞いています。牧師を隠退してからも父なりに忙しい生活を送っていたようです。このような生活が続いていましたが、4年目か5年目の時、私たちが三鷹のマンションに遊びに行くと、父はなんとなく右足を引きずるようにして歩いていました。そのころから、腎臓の機能が悪くなり始め、人工透析の準備をしていたようです。同時に母の身体の状態もあまり良くなく、二人で三鷹のマンションで生活することが難しくなり、2013年12月に海老名市の自宅に戻ってきました。

海老名の自宅には1年と3か月ほど居ました。海老名教会に通っていましたが、週3回の人工透析の生活が始まります。その透析の最中に、脳内出血を起こし、海老名総合病院にそのまま入院になります。退院をすると、リハビリのために横浜にある泉台病院に移りました。そのころから車椅子の生活になっていましたので、海老名の自宅に戻ることが難しく、カサ・ボニータという医療施設の整った高齢者向けの住宅に移ります。この施設には、3年と6か月ほど居ましたが、父にとっては比較的安定した生活を送ることができたように思います。再び海老名教会に通いますが、車椅子ですので私たちが付き添える時は付き添いましたが、出来ない時は、父は自分で介護タクシーを呼び自力で教会に行っていました。父のこですから車いすでいながらも、背広に着替え、ネクタイを締め、ワイシャツの袖口にはカフスボタンを留め、礼拝に出席していました。これは、牧師をしていた頃の父と何ら変わるところがありません。父の神様への信仰がそのまま現わされているように思います。そんな生活が続いていましたが、後半になりますと脳梗塞に近い状態で何度か病院に搬送されています。ある時は、車椅子からベッドに移る際にそれが上手くできず、床に倒れ気を失ったままの状態で病院に搬送されたことがあります。また、あるときには、母とすれ違いに同じ病院に搬送されたことさえありました。病院に何度か搬送されているうちに、父は寝ている状態が多くなり、退院してからは元の施設に戻って生活することが難しく、海老名市にあるオアシス湘南病院に移ります。ここでは、3か月ほど入院し、最後は、熱海にある医療型の病院に移りました。病室から熱海の海が一望できる病院で、父はとても喜んでいました。最後を迎えた父にとって、この病院はとても良かったのではないかと思います。

このように海老名市の自宅に戻ってからは、通院も多く足の筋力の衰えが著しく、早くから車いすの生活になっていました。晩年父は、牧師を隠退してからは全国の教会を旅して歩きたいと言っていましたのに、それが叶わず残念です。

海老名の自宅に戻った後は、施設や病院等を転々としましたが、多くの方々に父のもとを訪れていただいています。人のつながりをとても大切にしていた父にとっては、皆さんの訪問は何よりの喜びだったのではないかと思います。父は訪れた方の顔を見ると、嬉しさのあまり涙をうかべることもしばしばありました。本当にうれしかったのだと思います。父は、皆さんからたくさんの元気をもらっていたのではないでしょうか、本当にありがとうございました。

振り返ってみますと、誰に対してもその人の立場に立って考える、そのような父でした。そして責任感はとても強く、そのことは皆さんもご存じのことと思います。そんな父に優しさの中にも厳しさを持って私たちは、育てられました。

これは、私たちのことになりますが。
ベトナムに居る私たちを養子にする際、私たちを日本に連れてきた時に、父と母自身に万が一何かがあった場合、再び私たちが孤独になることを心配していたそうです。そして信頼おける共助会の方に相談したところ、その方が「その時は私たちが二人を引き受けます」と仰って下さったそうです。その言葉を信じ、わたしたちを養子にすることを決めたと、聞いています。心優しい共助会の方と、父と母の深い愛情によって私たちが今現在この場にいると思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。

私たちと父と母がベトナムで初めて会ったのは、1969年です。私たちが6歳の時でした。当時父と母は、カメラマンでありルポライターでもある石川文洋さんの戦争孤児の新聞記事を読み、渡航したと聞いています。当時のベトナムでは、北ベトと南ベトの戦争が続いていましたが、1965年にアメリカ

軍の介入が本格的に始まります。海辺ではダナンの海岸線にアメリカ軍の海兵隊が、次から次へと上陸を始めます。山間では、アメリカ軍による空爆が繰り返されていました。そして1968年には、ホーチミン率いるベトナム軍が反撃を始めます。ベトナムの旧正月の日にアメリカ軍が制圧したであろう町や村を一斉に襲撃を始めます。いわゆるテト攻勢の年になりますが、その時襲われたロクニンという村がありますが、そのロクニンの村に私は居たと後から聞かされました。

そののち、私は、サイゴン市内の病院に搬送されたそうです。このように、アメリカ軍の介入によりベトナム戦争は、次第に激しさを増していきました。その最中、1969年に父と母はベトナムにいました。当時、父と母はある程度の覚悟を決めていたのではないでしょうか。いくら戦争孤児のためとは言え、人のため、他人のためにこれほどまでのことが出来るものなのでしょうか。父と母はそれをなされた。私たちのような子どもたちのために危険を感じながらもベトナムに渡られた。そのことによって、わたしたち二人は、悲惨なベトナム戦争から逃れることが出来ました。こうして命救われ、平和な日本でなんの不自由もなく父と母に育てられました。妹の亜紀と私はどれだけ恵まれていたか、そして父と母から今までに、どれほどの優しさと、どれほどの愛情を頂いたかわかりません。

本当に言葉では言い尽くせないほどの感謝の気持ちでいっぱいになります。父と母の優しさが今となって伝わってきます。本当に感謝です。

父が今までに成されたことをふり返って見ますと、その全ての根底にあるのは、やはり神様への信仰なのでしょうか。

日常生活であっても、その中心は神様であり、教会のことでした。何をするにしても常に祈り求める、そんな父の姿がありました。

私が今、手にしている本があります。父の部屋から持ち出したものです。浅野順一牧師の説教集の一巻です。その中の一節をお読みしたいと思います。

我々の信仰を、迷信でなくする方法は何であるか。それは、必ずしも宗教哲学を勉強することでもなく、神学を探究することでもない。信仰を生活と結びつけていくことである。それが一番確かな迷信打破、偶像破壊の方法であろう。信仰と生活をできうる限り一線上におくように努めることである。この真剣な地道な努力なしには、信仰はいつのまにか迷信と化し、偶像礼拝にまで堕落するであろう。

今読んだところに、赤い色鉛筆で線が引かれていました。私は、これを初めて読んだとき、父が今までなされたことの全てが、ここに通じている、そう思わずにはいられませんでした。父の信仰は、こうして形あるものとして、日常の信仰生活のなかで誰にも分かるほどに明確に現されてきました。父の神への信仰は、揺らぐことがありません。最後まで神様に従順であったように思います。 

本当に、全てを喜んで自然に受け入れた父であり、最後に見た穏やかな表情がそのすべてを現しているように思います。地上の歩みは89歳で終えましたが、私たち二人はそんな父を喜んで神様の元に送り出したいと思います。皆さんもそんな父を今日は、素直な気持ちで送り出して頂ければ幸いです。父は皆さんと出会い、このように皆さんとつながれたことをとても喜んでいます。そしてこのつながりをとても大切にしてきた父です。みなさんの信仰生活の中でそんな父を少しでも思い出していただけたら、父も喜ぶと思います。今日は本当にありがとうございました。

最後に母のことになりますが、残念ながらここに来ることが出来ませんでした。今、海老名総合病院に入院しています。8月から食べ物を喉から通すことが出来ず、今は首の静脈からの点滴によって栄養を取っています。もちろん動くことが出来ません。母は、そのような状態が続いています。皆さんの信仰生活の中で、お祈りに母のことを加えていただければ幸いです。今日は本当に長い間ありがとうございました。

(江戸川区役所勤務・家庭集会)

尾崎風伍牧師略歴

1930年2月8日 父賢三郎、母喜巳の長男として長野県松本市で生まれる

1945年3月11日 駿府教会にて受洗

1949年3月 静岡高校卒業

1950年頃 京都大学理学部在学中に共助会入会

1953年3月 京都大学卒業(理学部地球物理学)同大学大学院理学研究科にて気象学を学ぶ。在学中、西田町教会、北白川教会に出席

1956年4月 日本航空株式会社入社

1957年3月24日 京都西田町教会から、中渋谷教会へ転入会

1958年4月29日 岡本マリ子と結婚その後、海老名教会の開拓伝道に夫妻で尽力する。

1965年 自宅において子ども会(土曜学校)「こひつじ会」を開始(海老名教会へ繋がる)

1970年9月10日 ベトナムからの養子として長男の令、長女の亜紀を迎える

1977年〜 「学校法人日本聾話学校」の運営協力をする

1977年 海老名・小園伝道所開設

1981年 海老名教会設立(77年伝道所開設)

1986年 日本航空中途退社。同年、海老名教会の伝道師就任

1988年4月~2年間 伝道師(マリ子氏共々)として、井草教会に招聘される。その招聘理由は、お二人の「伝道所開設」達成を援助するため。

1988年12月11日 按手礼を受け正教師となる

1990年11月27日 久我山教会設立。マリ子牧師(12月に按手礼を受ける)共々、久我山教会に仕える

1990年~98年、2008年~11年『共助』編集委員長

2000年 特定非営利活動法人「キリスト教メンタル・ケア・センター(CMCC)」の運営協力をする

2000年~07年 共助会委員長

2001年~09年 社会福祉法人 泉会後援会「いずみ友の会」会長(泉会は身体障害者助産施設)

2006年~16年「教会と国家学会」副会長を務める

2006年10月 戦前版『共助』を読む会(東京)開始、海老名へ引っ越されるまでその世話人を務める2007年6月17日 久我山教会献堂式2008年~ 隠退牧師として南三鷹教会、海老名教会に出席、祈祷会は、調布教会に出席2019年11月4日 午前10時21分に永眠(享年89歳)

*なお「教会と国家学会」は、「神の恩寵の秩序としての教会」と「神の配剤の下にある国家」のあり方を論議研究する場であり、2001年に発足し2016年まで続いて解散した。主な論文として、「沖縄の基地問題―基本的なことから考える」「安倍政権の憲法改定に反対する―『ここから始めよう』という提案」「教育基本法新旧対比の着眼点(旧教育基本法第十条を参考例として)」(3本共2013年会報第14号に収録)