今を生きる中で―海老名教会に赴任して―鈴木善姫

今年4月に大阪から、神奈川県海老名市にある海老名教会に赴任しました。コロナ禍の中での移動でした。振り返ってみると、9年前の東北から大阪への転任の時も、東日本大震災・津波に遭い、その後片付けも終わってない状態での転任でした。大震災での疲れが未だ癒されていないのに、またか、という気持ちです。

海老名教会での着任直後は、礼拝担当長老と私たち二人の牧師だけの礼拝で、録音したものを教会のホームページに載せて、教会員が家庭で礼拝を守るようにしました。そしてホームページを見られない方には、長老の方々が分担して週報や説教をプリントして配りました。ただ引越しをしただけで、海老名教会の教会員たちにも会えない、教会の状況もわからない状態で、長老たちの支えは大きなものでした。6月から礼拝を再開しましたが、讃美歌は奏楽のみ、会衆は心の中で歌う、という形をとり、今も礼拝順序を短縮したまま行っています。三密を避けるために、窓は全開、間隔を明けて座り、マスク着用、入る前に体温を計ります。これは海老名教会だけではなく、日本中の教会が、少し形が違っても、大抵同じような状況であるのではないでしょうか。牧師もマスクをして説教をし、教会員と話し合う時も距離を取っている、奇想天外の状態が今を生きる私たちに起こっています。

ルカによる福音書21章を見ると、イエス様が終末のしるしについて言われますが、そこに「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(ルカ21:10― 11)というところがあります。まさに、今の時代を指しているように思わずにはいられません。今までの歴史の中でも、戦争や伝染病による人類の危機があったとしても、今は原発による放射能の問題も加わり、聖書のみ言葉がもっと切実に身近なものとして伝わります。このような今こそ、私たちの希望である救い主イエス・キリストの伝道の働きがより求められ、特に教会の使命であることを考えられます。でから、この状況にただ萎縮して生きることは許されていない、キリスト者として一層伝道の業に励むべきではないかと問われているこの頃です。

海老名教会も平坦な道を歩んできたわけではないですが、御言葉と連合長老会の教会制度によってとても整えられています。また、海老名教会は共助会の委員長として長年働いてくださった尾崎風伍先生、マリ子先生のご自宅で子ども学校を始めたところから生まれた教会です。中渋谷教会の分校のような働きから始まり、その活動に加わった中渋谷教会の信徒たちが、今は海老名教会の長老となり、教会の歩みを支えて来ています。尾崎先生は隠退後、海老名教会近くのご自宅に戻り、弱くなったお体で毎週の礼拝に出席をなさったようです。その穏やかで、教会への強い愛を示す姿で多くの教会員が元気付けられたようです。私は共助会で尾崎先生ご夫妻に出会い、東京神学大学で学んでいた時に、久我山教会の牧師館に招かれ、マリ子先生の手作りの夕食を取りながら、豊かなひと時を過ごしたことがありました。心細かった留学生の時代に大きな慰めでした。何かの会で会うと、必ず優しくお声をかけてくださり、特に気さくなマリ子先生の接し方には親しみを感じ、心を許していろいろな話ができました。共助会と尾崎先生ご夫妻との出会いを考えると、私が海老名教会に召されたことに、神様の不思議な御導きを感じます。

教会で誰にも会えない状態が続く中、教会の前に色々な花や実になる植物を置いてみました。レモンとパセリにはアゲハの芋虫が現れ、成長を楽しみました。そして、教会学校の子どもたちがノアの箱舟を作り、大人まで、折り紙でさまざまな動物を作っておきました。神様の恵みと愛を覚えながら、みんなが楽しんでいます。コロナ禍の中ですが、頑張って礼拝を守ってくださる信徒たちに励まされて、海老名の地に馴染みつつあります。

ここに来てから、会えない方々に向けて牧師の声を届けたいという思いから、牧師室から、という短い文を毎週週報とホームページに乗せています。拙文で4月のものですが、コロナ禍の状況があまり変わっていないので、最初に書いた文をここに入れて今を生きる私の気持ちを伝えさせていただきます。

《牧師室から。2020・4・12》

教会の前を出ると、青空が広がり清明な風が気持ちいい。目に入る緑や家々の前を飾っている小さな花たちもそれぞれの香りで競っているよう。4月の日差しには優しさを感じる。しかし、「新型コロナウィルスの感染予防の為、礼拝・集会を休止しております」という看板を前にして心が痛む。9年前に宮城県石巻から大阪に転任する時も、地震、津波で苦しい思いをした。すべてが崩れ落ちたような衝撃だった。しかし、瓦礫や救援物資の傍らで、互いに手を握って祈りながら励まし合った。そして、主日の礼拝には涙を流しながら大きな声で讃美歌を歌った。

今度のコロナの影響は、私たちから共に祈り、共に歌う喜びさえ、奪おうとしている。ハグでもしたくなる出会いにも、離れて、ただ笑うだけである。いや、会うことさえできない。見えないコロナは私たちの絆を脅かしている。

しかし、見えなくても見えるものがある。聞こえなくても聞こえる声がある。はっきり感じられる確かなものがあるのだ。十架の上で私たちのために血を流し、また私たちのために復活なさった主イエス・キリストの愛と恵みである。その愛に捉えられた使徒パウロは言う。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他の

どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによってされた神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ーマ8:38~39)

今こそ、私たちをしっかり握っておられる主のみ手に全てを委ねて耐え忍ぼう。独り子をお与えになった神の愛はすべてに打ち勝つ、私たちの避け所、力であるから。(日本基督教団 海老名教会牧師)