随想

京都で 河内良弘

私の幼い時、おもな鉄道駅の改札横の腰板には、縦長の小箱が取り付けてありました。それは孤児院への寄付金お願いの箱で、箱の上蓋にはお金を入れる穴があり、その上に孤児たちの集合写真が貼り付けてありました。この子たちは幸せな人生を送ったのだろうかと、時々思いおこします。私が孤児院について知っていることはこれだけです。私は孤児院に育ったことはありません。しかしそれによく似たような家で育ちました。そのころの私のお話は、以前の『共助』に少し書かせていただきましたので、これはその続きです。

昭和26(1951)年4月、私は京都大学文学部二年への編入学を許可され、成田中学校教諭の職を辞し、お世話になった日本基督教団 成田教会の皆様ともお別れし、京都に行くことになりました。成田教会では、内藤一郎牧師と、たまたまその日が復活節だったので、説教担当のためにお出でくださった福田正俊先生とが、礼拝後、河内君を京都の何処の教会に入会させようかと相談してくださいました。結局、福田先生旧知の奥田成孝先生の北白川教会がよろしかろうと決まりました。内藤一郎先生は「あそこはたいへん厳しいんでしょう?」と私がそれに堪えられるかどうか不安げにおっしゃいました。そして「どんな事があっても辛抱し、北白川教会で信仰生活をまっとうしなさい。神様は何をなさるか分かりませんよ」と私に助言をたまわりました。4月1日、成田教会では私のために壮行会を開いてくださり、出発当日、駅頭には成田中学の大勢の生徒さんのお見送りをいただきました。

北白川教会は「行けばすぐ分かるから」という福田先生のお言葉だったので、京都到着後、メモを頼りにそれらしき周辺を探したところ、修道院風で鐘楼までついた豪華な建物が目につきました。さすが京都・北白川教会ともなれば、かくも豪華な大建築ぞと期待を胸に近づくと「京都大学人文科学研究所」のプレートがはめ込まれていました。

北白川教会は竹林の奥にありました。奥田先生に初対面のご挨拶を申し上げました。最初の礼拝後、奥田先生に呼び止められ、別室で試問をうけました。試問の中心は私の出身と京都大学での専攻科目のことでした。「私の出身は九州・佐賀の白石という田舎村。実父は巡査で私の生後5か月で他界。男の子ばかり5人が残されて実母が途方に暮れていたところ、近所のお節介なおばさんの世話で私は河内家に養子に出されました。実父も実母も見たことはありません。養父はやさしい人でしたが、養母は意に満たぬことをすると目の色を変えて叱責し、泣き叫ぶ私を殴打し、言うことをきかねば孤児院にやると怒鳴る恐ろしい人でした。孤児院という言葉は初めて耳にしました。駅構内の小箱の上の集合写真を思い出しました。あそこに行っていたら、私の人生は変わったものになったでしょう。養母は私が小学校を出るまでは食べさせてやり、卒業すれば何処かに丁稚奉公に出すつもりだそうで、今にして思えば、そこは小さな孤児院みたいな雰囲気の家でした。しかし養父がやさしい親切な人で、小学校を卒業すると近所の中学校に進学させてくれました。

私の京都大学での専攻は、入学したばかりで決めていませんが、多分東洋史学の満洲史です」と答えました。私は何分にも孤児院まがいの家の出身なので、奥田先生にはお気に召さなかったようでした。次週、礼拝後お会いした時に奥田先生は「いい加減な人は来てもらわなくてもよろしい」と私におっしゃいました。来会拒否の言葉でした。私は北白川教会の入会試問に落第したらしいです。後年、川田 殖さんも来会時に、奥田先生は「教会に何をしにきたのか」といわんばかりの態度だったと聞いたけれど、私の場合はもう少し手厳しかったようです。私は成田教会出発にあたり内藤一郎先生に「北白川教会で辛抱しなさい。神様は何をなさるかわかりませんよ」と諭された言葉をかみしめていました。

爾来、私は毎週休まず北白川教会に出席しました。ある日、教会のとある委員会に誰かに誘われて出席したら、私を見かけた奥田先生が「君も出席したのか」と叱責されました。きつい目でした。私は抗弁せず下を向いていました。どこか貴族的な雰囲気の北白川教会に、孤児風の私がなじむには、まだ時間がかかりそうでした。

奥田先生が丸太町教会で按手礼をお受けになったのはその頃であったように記憶していますがどうでしょうか。私も友人に誘われて按手礼に出席しました。教会の広い板敷きに奥田先生が跪かれての儀式でした。その頃、竹川末吉さん、徐 積鑑さん、清水武彦さん等が私の友達になってくださいました。

翌年3月、奥田先生は私に日曜学校3・4学年級の授業担当をお命じになりました。おや、先生は私のことを少しは信用してくださっているのかなあ、と不思議に思いました。

私の日曜学校のクラスの生徒さんは、初年度は10人ほどでした。将来この人びとが大人になり、礼拝説教を聞いたり、聖書や解説書を読むときの参考になるようにと思って、イエス様が伝道なさったガリラヤ地方の地名と人名とをできるだけ覚えてもらうように心がけたカリキュラムを作りました。敷居の向こうの部屋では新任の女先生が武藤純子ちゃん(後の北白川教会オルガン奏者)等にお遊戯を教えていました。私の授業はこんな具合でした。

「はい、みんなこちらを向いてね。お遊戯は見ないの」とガリラヤ湖周辺の白地図を出し、「はい、ここがベッサイダね。ベッサイダは漁師の港町ね。この前の授業で、この漁師町からイエス様のお弟子さんが出たお話をしましたね。それは誰とだれだったでしょうか。覚えている人がいるかな」「はい、先生」「はい、島 聡司さん」「はい、ペテロとアンデレです」「あら、よく覚えていましたね。えらいわね。でも、もう一人いるんよ。それはピリポです。覚えておいてね。ピリポを覚えるついでに、ガリラヤ湖の北にフーレ湖という小さな湖があってね。そのまた北にピリポ・カイザリアという町があるんよ。ここからヘルモン山がよく見えるらしいんだけれど、ヘルモン山の高さは2730メートルね。このピリポ・カイザリアでイエス様はたいへん大事なお話をなさいました。その話はまたこの次ね。はい、聖句のカードね」。

私の所属した京都大学文学部東洋史学科は志望者の少ない学科でした。志望者が少ないので学業も楽だろうと思って志望したのに、実情は目の回るほど忙しい学科でした。主な語学は漢文でした。私の志望したのは明代の満洲史とモンゴル史で、この時代の役所関係の奏そうしょう摺文書がわたしを悩ませました。これは殊に難解な文書で、高校などで教わった四書五経や史記・漢書などの古典漢文の読解力では全く歯が立ちませんでした。そのうえ満洲史・モンゴル史が専攻となると、満洲語かモンゴル語が必修でした。その習得に時間をさかされました。

もう一つ私をひどい目にあわせた材料がありました。世話してくださる方があり、私は京都大学学生YMCA地塩寮に住まわせていただきました。入寮するとすぐに先輩に事業部の仕事を押しつけられました。何も知らぬ私は事業部の仕事の内容を覚えたり、他大学の学生YMCAとの連絡に多くの時間をさかされ、その分勉強の時間がなくなりました。「他の人は勉強しているのに」と私は何時も不平たらたらでした。ただ年に一回、静岡県御殿場での「全国学生YMCA夏期学校」への参加が許されたことは有り難いことでした。ここでは小塩 力、福田正俊、宮本 武之助、宮本 信之助先生等、当代一流の先生等のお話が聞けて、望外の喜びでした。

ある年、この夏期学校で小塩 力先生の三日連続の朝の聖書研究会があり、司会の役を私がおおせつかりました。そこで毎朝、定刻に小塩先生のお部屋をおとずれ、当日の聖書と賛美歌の個所をお伺いし、時間になるとすぐさま指定の順序に随い、私の祈りで会を始めました。三日目の朝、会が無事終わった時、小塩先生は私を呼び止め、私の所属教会をお尋ねになりました。「京都・北白川教会です」とお答えすると、多分そうだと思っていたと言いたげに相好をくずされ、「奥田さんによろしく」とおっしゃいました。

奥田成孝先生はやさしい先生でした。ある夜、教会での何かの集会が終わったあと、先生に誘われて二階にお邪魔し、お茶と蜜柑とをご馳走になり、奥田先生ご夫妻と義孝さんと私の四人でトランプ遊びをしました。勝ったり負けたりしている内に、蜜柑の汁がトランプにつきそうになりました。先生はそっと私に小声で「これは義孝のものだから、汁がつかないように注意して」とおっしゃいました。またある夜、二階のお部屋にお誘いを受け、お茶をいただき、ふと目を上げると、一葉の男性の写真が棚に飾ってありました。「誰に似ている?」と先生がお尋ねになりました。「義孝さんにそっくりですねえ」と私は答えました。先生は「人間は動物だからねえ」とおっしゃいました。先生の弟さんのお写真でした。その日がご命日だったそうで、奥田先生は人にもご家族にもやさしい方でした。

京大大学院修士課程を終え、博士課程に進んだとき、私は天理大学の某研究所に招かれて就職しました。この研究所には満洲史・蒙古史を研究する部門があり、私は指導教官今西春秋教授のもとで『五體清文鑑』(清朝時代に編纂された五カ国語辞典)の漢字語彙および満洲語語彙索引作成の仕事に当たりました。この仕事が50年後、『満洲語辞典』編纂の基礎になりました。またこの就職を機に、奥田先生の司式により、北白川教会会員 島 伊都子と結婚しました。妻はとても優しい人で、孤児院出身みたいな私には、まるで天使のようなもったいない人で、私と家族の面倒をよく見てくれました。天理大学に就職後も毎月一回、私は北白川教会の礼拝に通いました。

あれから今日まで60年という長い時間が過ぎました。この間私は1967年、米国シアトルのワシントン大学に一年間単身留学し、金史の編纂に当たり、かたわらモンゴル語を学んで帰国しました。シアトルへの出発の朝、私の家族、島家の両親、それと奥田先生ご夫妻が京都駅頭に見送ってくださいました。帰朝後、奥田先生に報告に行き、主としてシアトルでの教会生活についてお話申しあげました。またその後しばらくして恩師佐伯 富先生を訪問し、シアトルでの研究状況について報告しました。先生は今後の私の研究は、モンゴル学は教養程度に留め、満洲学だけに集中するようにと言われました。私は佐伯先生の教示にしたがい、これ以後、満洲学のみを生涯の研究課題とすることにし、まず満洲語の習得に努めました。

1978年9月、天理大学から米国インディアナ大学へ一年間交換教授として派遣されました。妻と次女も同行し、アメリカ生活を満喫させてもらいました。インディアナ大学では、満洲語を担当しました。三人の白人男子学生さんは熱心に学んでくれましたが、アメリカにも欧洲にもこれと言った良い満洲語辞典、満洲語文法書、満洲語読本がないことにすぐに気がつきました。それは人ごとではありませんでした。日本にも使用に耐える『満洲語辞典』も文法書も読本もありませんでした。私は帰国後、幾つかの大学で満洲語を教えるかたわら、文法書、読本、満洲語辞典編纂の準備を始めました。

1985年、私は京都大学の谷川教授から京都大学文学部東洋史学第二講座担当教授への就任を要請されました。急なお話で返答に迷った末、奥田成孝先生をお宅にお伺いし、要請を受けるべきか受けざるべきかを相談しました。奥田先生はしばらくご考慮の後、「京都大学の招請をうけなさい。天理大学からの退職金が激減するなどは問題ではない。河内さんには金はいらん。先の事は何とかなる」とおっしゃいました。さすが奥田先生、これほど明快な判断を下す人は奥田先生をおいてはこの世にいないと感心し、即刻、谷川教授に要請受諾を電話で伝えました。私の人生の後半は、奥田先生のこのお言葉できまりました。

京大へ着任後、私はただちに満洲語文語文典の編纂に着手しました。『満洲語文語文典』は愛新覚羅烏拉煕(アイシンカクラギョロウルヒチュン) 春 先生、淸瀨義三郎則府(キヨセギサブロウノリクラ)先生等の協力を得て、1996年、京都大学学術出版会から出版されました。『満洲語辞典』の編纂は、1992年、京都大学を退職し、天理大学歴史文化学科に職をえてから加速度的に進展しはじめました。編纂資金としてはトヨタ財団から提供を受けました。編纂はすべて電子機器でおこなう方針にしましたが、電子機器のことは私は全くわかりません。途方に暮れていたところ、幸いに香川大学教授 本田道夫先生の協力が得られることになり編纂作業が軌道に乗り動きはじめました。

そして2014年、原稿が完成し、『満洲語辞典』の書名で2014年(平成26年)6月、京都の中西印刷株式会社から出版されました。『満洲語辞典』は2016年(平成28年)6月、私の親しき友人京都大学名誉教授 間野英二先生の推薦を受け、日本学士院において、天皇・皇后両陛下のご台臨のもと、日本学士院賞受賞の光栄を受けました。その翌年、2017年11月10日、宮中の豊明殿で、私は恐れ多くも天皇陛下より瑞宝中綬章を賜りました。宮中の豊明殿での、天皇陛下への叙勲御礼奏上の儀式では、私は全受賞者三百数十名が居並ぶ列の前方数歩の所、天皇陛下の御前数歩の所に一人立たされ、天皇陛下を壇上にお迎えし、陛下に御礼の言葉を申し上げました。「千と千尋の神隠し」の千が、異次元の世界に迷いこんだような不思議な感覚の一日でした。

その後も私は『満洲語辞典 改訂増補版』『漢語語彙索引』および『日本語語彙索引』の出版に向けて編纂作業を続けました。出版の費用はもはや尽き果てていましたが、思いも寄らぬ事がまたおきました。

2017年末頃、中国満洲族でテレビ台長として日本で活躍している完顔カンガン祺閣という方が拙宅にインタビュに見えました。

私は「出版費がない」と日頃の愚痴と不満とを、初対面の方への礼儀と慎みを打ち忘れてぶちまけたようです。完顔先生はご帰宅後ただちに中国満洲族の人びとにネットで呼びかけ、『満洲語辞典 改訂増補版』および『漢語語彙索引』『日本語語彙索引』出版のための義援金募集をおこない、送られて来た多額の義援金をそっくり私に持参されました。私は中国満洲族の人びとの誠意のこもった義援金を見て驚き、その熱意に圧倒され、涙を流し、真心のこもった義援金を額に押し頂いて感謝し、拝受しました。この義援金により2018年10月、『満洲語辞典 改訂増補版』が、2021年3月には『漢語語彙索引』ならびに『日本語語彙索引』の出版が可能となりました。『漢語語彙索引』および『日本語語彙索引』の表紙には「中国満洲族同胞捐刊」の文字を明記し、義援金をお送りくださった人びとの姓名と金額を記し、長く感謝の意を表すことにしています。

また平成30年(2018年)3月、内閣総理大臣 安倍晋三様より、4月21日新宿御苑で開催の「平成三十年桜を見る会」への招待状をいただきました。たまたま妻が病気で出席できませんでしたが、日頃尊敬する安倍晋三総理のご招待には、万難を排しても出席すべきであったと、今も思い出すたびに悔やんでいます。

以上の事を振り返ってみると、『満洲語辞典』の編輯は頓挫するたびに、姿も見えず声も聞こえぬ不思議な方、イエス様があらわれ、作業を完成へと導いてくださいました。私が行く先々には何時もイエス様がいて、力を与え、問題を解決し、最善の結果に導いてくださいました。私は私の人生での色々な場面で協力してくださった人びとに衷心より感謝申しあげるのは勿論の事ながら、それらすべての背後にあって私を助けてくださった我らの主なる神様に感謝します。今をさる70年前、成田教会を出発するにあたって、内藤一郎先生が諭された言葉を私は今日もかみしめています。「北白川教会で辛抱しなさい。神様は何をなさるかわかりませんよ」。   (日本基督教団 北白川教会員)