随想

キリスト教と文化-田中邦夫兄を偲びつつ(前編)   下村喜八

はじめに

 雑誌『共助』の2025年度第4号で田中邦夫兄に関する追悼文を書かせていただいたが、彼が長年精魂をこめて探究していたテーマである「森 明」「キリスト教と文化」「現代における信仰と社会科学」等にはほとんど触れることができなかった。この拙稿によって、その欠けの一端を補わせていただきたいと思う。

 彼が追究していたいくつかのテーマのうち、「キリスト教と文化」について考えたいと思う。ちなみにこのテーマは「福音と文化」あるいは「信仰と文化」と呼ばれることもある。最初、彼の論考を要約して紹介しようと考えたが、その場合、論述が抽象的で読みづらいものとなる恐れがあるため、方針を変え、前半は導入として、筆者が日頃考えていることを述べ、後半で、田中兄の考察の核心部分と思えるものにつなげることができればと考えている。

一 レーヴィットの二階建て論

 ナチスの時代に日本に亡命し、約五年間東北大学で哲学とドイツ語を教えたユダヤ人哲学者カール・レーヴィット(1897]1973)は、日本の知識人について次のように批判している。「彼らは、いわば二階建ての家に住んでいるようなもので、基礎にあたる下の階では日本的に感じたり考えたりし、そして上の階ではプラトンからハイデッガーにいたるヨーロッパの学問がずらりと並べられている。ヨーロッパ人の教師は、その間を行き来する階段はどこにあるのかと疑問に思う」(『ヨーロッパのニヒリズム』あとがき 私訳)。

 この原因はどこにあるのであろうか。彼は、第一に、日本人には、自己の外に歩み出ることによって生まれる習得の能力が欠けていることを指摘している。「何か他のもの、未知のものを習得し自分のものにするためには、次のことが前提条件として必要であろう。すなわち、自己が自己自身から遠ざかり、疎遠なものとなること、かつ、そうすることによって獲得された隔たりを通して他者を未知のものとしてわがものにすることである」。「日本人は、ヨーロッパ的な概念、たとえば『意志』や『自由』や『精神』を、自分たち自身の生活、思想、言葉において、それらとそれぞれに対応するもの、あるいは相違するものとを区別することも比較することもしないからである。そして、ヨーロッパの哲学者の諸概念を、自分自身がもつ諸概念に対して、本来的に異なる出自をもつものとして見ることをせず、未知なるもの自体を、さながら自明のものであるかのように学ぶのである」(『ヨーロッパのニヒリズム』あとがき、私訳)。

 このレーヴィットの批判は的を射ているうえに、現代の私たちに――単に知識人だけでなく日本人一般に――当てはまる鋭い洞察であるように思われる。

 明治以降の文明開化によって西洋の文化や制度が取り入れられた。その過程で、さまざまな生活領域において、言葉や概念としては知っているが、その内実は知らないということが起こった。これは未知の文化や制度を取り入れる際には必ず起こることであろう。「自由」「社会」「個人」「自然」「民主主義」等、おびただしい翻訳語が生まれた。学生のとき宗教学の講義で、キリスト教のGODは、「神」と訳すか「仏」と訳すか「ゴッド」と訳すか、少なくとも三通りの可能性があったと知ったときの驚きは今も忘れられない。最終的には「神」と訳されたわけであるが、神は日本人にとっては八百万(やおよろず)の神を表し、キリスト教の神とはまったく別のものである。したがってキリスト教の信仰にとって、「神」という容器にどのような神の像を入れてゆくのかは死活の問題となる。

 大学の聖書研究会の後輩に沖縄出身の平良健次君という純朴な学生がいた。ある年の三月に京都市内に夕方から牡丹雪が降りつづいた。大粒の雪が街灯に照らされる情景は、得も言えず、ため息がもれるほど美しいものであった。彼は感動のあまり、眠るのが惜しく一晩中歩きまわっていたとのことである。彼は言った。自分は純粋という言葉は知っていたが、これこそ純粋だと言えるものを初めて見たと。このように私たちは具体的な経験を通して言葉に、その内実を満たしてゆくことになる。

二 日本のキリスト教界の実情

 日本のキリスト教界では、1960年代の終わりから1970年代の初めにかけて対立・紛争が起こり、その残滓(ざんし)がいまだ色濃く残っているように思われる。これは日本のキリスト教にとって大変不幸なことである。

 一方は、関心と活動の中心を社会問題の解決に置く。信仰は極めて人道主義的であり、自分たちの信奉する社会的イデオロギーを実現するためにキリスト教を利用している感すら受ける。

 他方、教会をできるだけ社会から切り離し、教会形成を自己目的にする教会がある。教会主義と呼ばれるものである。教理を重んじ、純粋で正しい信仰を守ろうとする。説教では、聖書から読み取ったいわゆる「神の言葉」を、時代状況や政治や社会問題とはまったく、あるいはほとんど関わりのないものとして語られる。キリスト教と文化の関係、両者の交渉・対話の問題にはほとんど無関心に見える。

 ここでは文化という言葉を非常に広い意味で用いている。田中兄は文化とは、「文学や芸術や科学などだけではなく、政治や経済や社会問題など、およそこの世の営みのすべてを含む」と定義している(『共助』2016年第1号24頁)。さらに兄は、「この世の生とは、事実上、われわれが文化と呼んでいるものと同一なのである」というカトリックの神学者(カール・ラーナー)の言葉を引用している。

 過日、高橋由典氏は、説教の前置き部分で、京都大学内で主宰されている聖書研究会にふれて、「現代日本に暮らすふつうの人が聖書を読んで抱く疑問を決して(おろそ)かにしない」ことがこの聖書研究会の方針であると、さりげなく語られたが、これは大変大事なことである。これがまさに聖書を広い意味での文化との関わりの中で読むことだと思われる。

 隅谷三喜男は、レーヴィットの二階建て論を、別の視点から日本のキリスト教界にあてはめている。レーヴィットは個人としての日本の知識人を問題にしているのに対し、隅谷氏は、牧師をも含めて神学者が二階に、信徒は一階に住んでいるのではないかと指摘する。そして信徒は普段は一階で生活していて、日曜日だけ二階に上がって説教を聞くが、週日は、仕事や家事等の日常的な生活の中に引き込まれてしまい、信仰あるいは信仰生活は疎かになり、いわば『日曜信者』になっているのではと疑問を投げかけている(『日本の信徒の「神学」』、日本キリスト教団出版局、156頁)。さらにレーヴィットのいう知識人を神学者(牧師)に当てはめて次のようにも言っている。「信徒の方は一階で生活しているのですから、私はこれから声を大にして『神学者だって一階の生活をもっているのですから、一階に下りてきて一緒に考えてみてくださいと言おうと思っているのです』」(同上、53頁)。このようなキリスト教界の現実を思うとき、聖書を広い意味での文化との関わりの中で読むことがきわめて重要であると思われる。

 平良君は雪をみて、純粋という言葉に初めてその内容が満たされたと感じた。私たちも、聖書を読み始めるとよく似た経験をするのではないであろうか。この世という文化は、自分ファーストが支配する世界である。せいぜいギブ・アンド・テイクで動いている。そのようななかで、聖書を読むと、病人、貧しい人、社会から排除されていた人、そういう弱い小さくされた人の苦しみを共に苦しみ、ついに十字架にかかり人間の罪とそこからくる苦しみのすべてを担われるイエス・キリストに出会う。そのとき深く心をうたれ、自分のなかで、今まで未知であった何かが生まれてくるのを経験する。愛という言葉は知っていたが、今、その言葉に初めて真の意味が満たされはじめる。

 また私たちは、神社に行きお祓いを受ければ、罪も汚れもすっかり洗い清められるという文化のなかで生きてきた。しかし私たちは共苦の愛を生きられたキリストに出会うときに、そのキリストという鏡に、それとは真逆の姿をした自分が映し出される。そのときはじめて、キリスト教でいう罪とは何かを知り始める。

三 キリスト教と文化

 田中兄は、現代のキリスト教にとっての最大の問題は、二つあると言う。第一はキリスト教とは何かという真理問題を今一度真剣に考え直し、これを体験し直すこと。第二はキリスト教と一般文化との関係を思想上から、および実生活の上から明らかにし、キリスト教の文化に対する使命を徹底せしめることであるとし、次のように述べている。

 これまで何度か述べてきたように、人は〈つねにすでに文化内存在〉なのではないか。つまり人は、自分がそれによって形成された文化の中から問い始めるのではないか。たとえば日本人は、日本のこれまでの言語文化や、その他あらゆる文化形式を通して聖書の言葉を受け取り、その言語に問いかけ、従来の文化価値を越えてある経験をするのではないか。そこには〈文化を通して+文化を越えて〉という動詞構造がある。これが「文化の常識より見たる」という森明の言葉の意味であろう。(『共助』2020年第2号15頁)

 この文章は濃縮されたジュースのような味がする。うまく成功するかどうか分からないが、すこし水で薄めて味わって見たいと思う。まず、人は〈つねにすでに文化内存在〉であるということは、今まで述べて来たことから十分ご理解していただけると思う。私たちは現代の日本において、日本語を習得しながら、日本の生活習慣のなかで、出会う人々の感じ方や考え方や生き方の影響を受けて育ってきた。今もそれらのなかにどっぷりとつかって生きている。そしてたとえば聖書を読む場合、この言葉はどういう意味であろうかとか、これは事実であろうかとか、この考えは時代おくれではないだろうかとか、私たちはさまざまな疑問をいだく。それらの疑問は文化のなかから生じてきたものである。これまで私たちを形作ってきた文化を通して聖書の言葉を受け取り、その言葉に問いかけ、互いにすりあわせを行うなかで、従来の文化価値を越えて何らかの新しい経験をするということが生じる。そうすることによってレーヴィットが指摘した日本人の欠けを克服してゆけるのではないであろうか。たとえば、上記のように今まで知らなかった真の意味での愛(アガペー)や罪を経験する。そこには〈文化を通して+文化を越えて〉という動詞構造があることになる。未知であった世界を自分のものにすることができる。それは、今までの文化の世界を越えでる動的な出来事が起こるということである。一階と二階がつながり、両方を行き来することになる。そのようにして初めてキリスト教とは何かが分かってくる。文化抜きには分かりようがないと田中兄は強調する。さらに彼は次のようにつづけている。「つまり人は、『キリスト教とは何ぞや』という問いを、文化抜きの純粋透明空間で問うているのではなく、つねに彼が生い育った分厚い具体的な文化空間の中から問うのである。つまり『キリスト教とは何ぞや』という問いは、意識するかしないに関わりなく、自分が生い育った文化のなかから尋ねているのであり、そうであって初めて答えが出てくるのである。したがって、第一の問題と第二の問題とを切り離すことはできない。ただ一つの問題があるだけである」(『共助』2020年第2号15頁)。このように「キリスト教と一般文化の関係」という問題は、信仰者にとってキリスト教信仰そのものの問題として極めて切実なのでる。

 日本のキリスト教界に見られる二階建て構造は、信仰と文化の関係が断たれていることと密接につながっているように思われる。二階建ての原因を少し考えて見たい。第一に、外来文化であることがあげられるであろう。明治維新から158年が経過したが、民主主義も自由も人権の尊重もいまだ定着していないのが現状である。キリスト教も日本という土壌に根を下ろしていない切花(きりばな)に近いと言えるかもしれない。第二に、日本人には、現世の()(やく)と幸福を願う強い傾向があり、宗教もほとんどご利益宗教である。そのような風土のなかでキリスト教もご利益宗教に変質している可能性もないとは言えない。たとえば、キリストの十字架の贖いは神道におけるお(はら)いに照応する。日本人には、神社にいってお祓いを受ければ、罪も汚れもすっかり洗い清められるという生活習慣が染みついている。そこから、キリストによる贖罪によって、過去、現在、未来のすべての罪が赦されているとみなす可能性がでてくる。そのようなキリスト者は実際かなり存在しているように思われる。D・ボンへッファーは、キリストは罪人を赦したのであり、単に罪を赦したのではないと言う。前者の赦された罪人は、その赦しに応えて生きようとする。しかし罪の赦しを、お祓いと同じように受け取る人は、赦しに応えるいわれはないのである。この場合は一階だけがあって二階は存在しないと言える。第三に、日本の教育のあり方と深く関わっている可能性がある。日本の従来の教育は、教えられたことを受動的に吸収する教育であり、主体的・能動的に学ぶ教育ではない。そのなかで、知識欲は旺盛であるが疑問をもたない人間が育つ。教会も同じ教育を受けてきた人間によって組織されているため、説教や聖書から得た知識、あるいは教えられた教義をその通りであると信じることが信仰であると考えている人が実に多いのが現状である。第四に、先に述べたこととも関わるが、抽象的な概念を疑う習慣が身についていないことがあげられる。私は勤務先や住居の関係で、いくつもの教会にお世話になった。その間、講壇から、永遠の生命、罪、自由、希望といった抽象的な概念を自明のものであるかのように語られ、それを信徒も自明であるかのように受け取っているように思える場面に何度か遭遇した。この場合、語る側も聞く側も、当の概念に対する各自の異なるイメージを思い描きながら理解し合っているにすぎないように思われる。レーヴィットは85年前に、日本の知識人には、未知の概念を、自分の既知の生活、思想、言葉と対応させ、すり合わせて自分のものとして消化・吸収する能力が欠けていると指摘したが、その欠けを私たちはまだ克服できていないように思われる。

 田中兄はさらに、人間が用いる言語そのものに分離する働きがあることを指摘している。言語は、渾然一体となったものをバラバラにして表現する。彼は紅茶をたとえに次のように説明している。ここに一杯の紅茶があるとして、言葉でそれを記述しようとすると、紅茶葉+砂糖+お湯、となる。しかし現実の美味しい紅茶は、それらが頃合いのバランスで渾然一体となった全体である。渾然一体ぶりは言葉では表現不可能である。しかしこの場合は、紅茶葉だけでは用をなさないことは誰にでも分かる。それに比し信仰と文化の場合には、目に見えないため、それが分かりづらいのである。信仰と文化は相互に規定し合って緊密に一つの全体を構成している。それを二つのものに分離すると、二つの緊密な関係に決定的なダメージを与えることになり、信仰と文化の場合は、「全然別個の二つの世界」と錯覚をして、信仰だけに生きることが可能であると考えてしまう。次の兄の指摘はとても重要である。

〔次号へつづく〕     (日本基督教団 北白川教会員)