「キリストを愛する」 説教 土肥研一
■2020年4月19日(日)復活節第二主日 説教
[新約] ヨハネによる福音書21章15~19節(211頁)
今日は、目白町教会の歴史に残る日曜日だと思います。礼拝を非公開にする。これは教会の90年以上の歴史において初めてのことでしょう。
文字通り苦渋の決断、苦しく、にがい決断です。先週のイースター礼拝の後、役員の皆さんと話し合い、この決断をしました。しかしそれからも、くよくよ考えてきました。
そんな中、つい先日、ある本を読んでいて、こういう言葉に出会ったんです。ガーンとショックを受けました。まずその言葉をご紹介することから始めようと思います。
1、アッシジのフランチェスコという、13世紀のイタリアで働いた修道士がいます。彼が「最大の喜び」とは何かを、レオーネという弟子に伝えている場面です。
たいへん寒い日でした。フランチェスコも弟子も、修道士ですから貧しい身なりです。外での仕事を終えて、震えながら自分たちの暮らす修道院への道を急いでいました。
その道すがらフランチェスコが、弟子レオーネに語り始めます。
「もし私たち修道士が、キリストのように奇跡を起こし、目の見えない人に視力を与え、亡くなった人をよみがえらせても、その中に完全な喜びはありません」
「おお兄弟レオーネよ、もし私たち修道士が、あらゆる国々の言葉を語り、あらゆる学問を修得しても、覚えてください、その中に完全な喜びはありません」
「おお兄弟レオーネよ、たとえ私たち修道士がすべての不信心な者たちをキリストの信仰へと回心させる説教を心得ていようとも、それでも覚えてください、そこには完全な喜びはありません」
寒さにふるえ、とぼとぼと歩きながらそういう言葉を聞かされたレオーネは、フランチェスコに尋ねます。「どうか神さまのために、完全な喜びがどこにあるかを聞かせてください」。みなさんはどういう言葉を予想するでしょうか。私たちの完全な喜びはどこにあるのか。フランチェスコはどう答えるのか。
フランチェスコは答えます。「私たちは雨にずぶぬれになり、寒さに凍えて、泥まみれになり、空腹でへとへとになって、やっと修道院に着く。その時、修道院の門番が出てきて、言う。『誰だ、お前らは! きっと強盗に違いない。とっとと去れ』。そう言って、足蹴にされて、目の前で門が閉ざされ、私たちは途方に暮れる。ああ、兄弟レオーネ、覚えていてください。その時にこそ、完全な喜びがあるのです」。
どういうことでしょうか。完全な喜び。フランチェスコは何を言おうとしているのか。この不思議な言葉が心の深くに届きました。ここには非常に大切なことが言われているのだと思いました。礼拝を切実に求めてくださっている方々があるのに、その方の前で、教会の扉を閉じようとしている。この決断についてくよくよ思い悩んでいた私に、今、神さまが語ってくださっているのだ、と感じました。
私が願うこと、私が計画していること、私にとってうれしいこと。イエスさまはいつも私と一緒にいて、それを後押ししてくださる方であると思います。私の喜びを共に喜んでくださる方であると信じます。
しかしそれだけではない。私たちの神さまは、私たちの願いや思いを超えていく方です。
私の願いが閉ざされること、そこには身を切るような痛みがあります。私もこの一週間、苦しみました。今も苦しいです。
目白町教会は求道者の方々も増えてきて、「これから、いよいよこれから」という時であった気がします。でもその道が閉ざされたような気がして、私は力を落とし、シュンとなっていた。でもフランチェスコは言うんですね。そこに完全な喜びがあらわされるのだ。今がその時だ。完全な喜びの時。
2、このフランチェスコの言葉を思いめぐらすうちに、復活のイエスさまがペトロを訪ねてくださったことを思い出しました。
いつも申しますが、ペトロというのはイエスさまの一番弟子だった人です。しかし十字架の直前に、イエスさまを裏切ってしまう。お前もあのイエスの仲間だろう、と周りの人に問われると、恐ろしくなって、「あんなやつは知らない」と呪いの言葉さえ吐きながら、三度もイエスさまを否定します。
その絶望と自己嫌悪の中にあったペトロを、復活したイエスさまが訪ねてくださいます。そしてペトロに問うんですね。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。シモンというのはペトロのことです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。
この言葉はまさに今日、私たちに向けられたもののように感じます。イエスさまが失意の中にあるこの私を、危機の中にある私たちを訪ねてくださって、問うてくださる。
「目白町教会に集う者よ、あなたは、わたしを愛しているか」。あんなに毎週毎週、教会で顔を合わせていたのに、集えなくなってしまった私たちを、主が探し出して、そして問うてくださっている。「わたしを愛しているか」。
なんのためでしょう。私たちの言葉を導き出すためですよね。私たちが自分の心の中をみつめて、そしてもう一度、新しく、きちんと信仰を告白できるように。そのために復活のイエスさまが、この私にも尋ねてくださる。「あなたは、わたしを愛しているか」。私の口から出る言葉を、じっと待っていてくださる。
ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。三度答えるんです。三度、知らないと言ってしまった、あれを上塗りするように、三度、イエスさまへの愛を自らの口で告白するんです。
これが今日、私たちの新しい言葉になりますように、と切に祈ります。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
3、愛する、という言葉にはいろんなニュアンスが込められているでしょうね。「大切にする。信じる。信頼する。頼りにする。大好きだ。あなたなしには生きていけない」。神の子であるお方に、そういう最も親しい思いを、お伝えできる。今、私たちはそういう、絶好のチャンスを与えられているんだと思います。
順調な時、願いの通りに物事が進んでいる時、神様に感謝し、神様への愛を告白するのは、簡単です。でも本当に大切なのは、そうでない時です。逆境の時です。その時なお、キリストを愛し、信頼し、ゆだねて、進んでいけるか。
まさに今ですね。苦しい時こそ、信仰を告白する時、神さまへの愛を告白する時です。この時、なおキリストの愛を告白できる。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」、この愛に生きることができる。そこには完全な喜びがある。フランチェスコは、そう言おうとしている。
そしてイエスさまは、この喜びへと私たちを導こうとしている。だから今、この危機の時にこそ、主は問うてくださる。「あなたは、わたしを愛しているか」。
完全な喜び。「完全な」というのは、身の回りの出来事に左右されないということですね。順調な時も、逆境の時も、変わらない喜び。この喜びは、キリストへの変わらない愛に支えられている。
どんなときにも、変わらずにキリストを愛し、信頼しているならば、そこに、どっしりした喜びが育っていく。今はそのチャンスです。思いもかけない苦難が襲うとき、それはチャンスなんだ。本当の喜びに生き始めるチャンス。そうフランチェスコは弟子レオーネに、そして私に、私たちに、伝えようとしている。
4、復活のイエスさまに導かれて、ペトロは三度、自分の愛を伝えました。それを聞いたイエスさまが、続けてペトロに言います。18節「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。
これからペトロは、「行きたくないところへ連れて行かれる」というんです。これまでは自分の生きたいように生きてきた。でもここからは自分の思いに反した場所に、行きたくない場所に、連れて行かれることになる。
苦しいことです。でも苦しいだけじゃない。でもそこでペトロは、予想もしなかった出会いと経験を与えられるでしょうね。
今日は、この新しい道を歩み始める、始まりの日です。そしてこの道はペトロが一人ぼっちで進んでいくのではありません。今日のみ言葉の最後にイエスさまがおっしゃっています。「わたしに従いなさい」。
ああ、そうです。復活のイエスさまが一緒なんです。行きたくないところへ向かう新しい道。でもその道をイエスさまが一緒に歩んでくださる。
一か月前には思いもしなかったようなことが、次々に起こっています。「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。まさにそういう気分です。私たちの眼の前にも予想もしなかった道が始まっている。でも私たちは、どんなときもイエスさまを愛し、信頼し、イエスさまと一緒にこの道を進むことができる。なんという幸いでしょうか。
今日の説教の初めに申しました。「今日は目白町教会の歴史に残る日曜日だと思います」。あとあと、振り返って、このように言えたらと願います。
あの時、4月19日、礼拝を非公開にするという苦渋の決断をしたあの日。しかしあの日から、目白町教会の信仰はいよいよ強められ、教会につながる者たちのキリストへの愛はいよいよ深められた、と。あのときの苦しみがあるから、今の自分たちがあるのだ、と。そうやって振り返ることができる、最初の一歩を、私たちは今日踏み出したいと思います。
復活の主が、悲しみのうちにある私たちのもとに来てくださり、やさしく、慈しみ深く、問うてくださいます。「あなたは、わたしを愛しているか」。私たちの答えを待っていてくださっている。このお方に真実に答えるものでありたいです。
祈りましょう。
(日本基督教団目白町教会牧師)