「心の目を開いて」 説教 木村 葉子

■2020年4月19日(日)

聖書 ルカ24:36~48 ペテⅡ3:8~9

先週はイースターでした。今年は、世界的な新型コロナ感染という困難の中で教会に集まれず礼拝をWEB配信でする状況です。通常生活を奪われ不安に動揺させられる日々ですが、主イエスが復活によって悪に勝利されたことを覚えて、力と光と希望に生き、主の道を行き真理と命を頂きましょう。

受難週は大きな美しい満月がでました。月を見ながら、最後の晩餐で主イエスが弟子たちの足を洗い十字架の死の直前まで、「この上なく弟子たちを愛しぬかれた」ことを思い出しました。

主イエスは復活の後、何度も弟子たちに現れて、復活を信じる力を得るように働きかけて下さいました。それほど住イエスの復活は弟子たちにも信じがたいことでした。

「まず女性の弟子たちが空の墓で天使に会い、マグダラのマリアに現れたこと11人と他の弟子たちに知らせましたが、「たわごとのように思われたので信じなかった」。まして、当時ユダヤ人は女性の証言を軽んじました。しかし、神はまず、十字架のもとに悲しみに暮れてたたずんでいた女性たちを証言者に選ばれたのです。

その後、エマオの町に行く2人の弟子にイエスは歩みを同じにされ、聖書預言を説明しました。弟子の心は燃え、喜びにあふれて引き返しエルサレムの弟子たちに報告しました。

そして再び、弟子たちの集りの真ん中にイエスは以前のように「シャローム」と祝福して来られました。しかし、弟子たちは、「恐れおののき、亡霊だ」と信じられなかったのです。弟子たちはイエスの復活を全く信じていませんでした。(ルカ24:36~)

そこで、イエスは十字架で傷ついた手足を見せ、弟子が喜びながらまだ信じられないのを見て、さらに魚まで食べて見せたというのです。何という、神の子の愛に発する、謙遜なお姿でしょうか。

8日後、その時いなかったトマスのためにはイエスは再びきて、「手をわき腹に入れてみなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」といわれました。(ヨハ20:27~)

彼は手を伸ばしたでしょうか。わたしはしなかったと思います。なぜなら、イエスの愛の心が突如、彼に伝わったからです。トマスは一瞬にして悟り、「わたしの主よ、わたしの神よ」と崇めずにはいられなかったのです。

イエスの愛は聖霊の働き、復活信仰は、一人一人、主の愛に取り扱われる聖霊によるものです。「心の目を開いて」下さるのは主です。主に求めましょう。その信仰は人を福音の真理を悟らせ、聖化に導いて下さいます。

世界のコロナ感染の惨禍は甚大です。テレビでイタリアやアメリカで多くの人の棺のならぶのを見せられ、また日本でも大切な人を亡くして悲しみに暮れる家族の姿を見ると心が沈みます。 今までも、最近のテレビのニュースは見るに忍びない、幼い子が殺されたり、差別やヘイトが激しく、やまゆり園の事件はなんと考えてよいか分かりません。そのうえコロナのゆえに、世界は貧しい人々、地域、国がより困窮するといわれています。

主の御心を尋ね求めても分からず、わたしたちは動揺し信仰を揺さぶられるのではないでしょうか。

一方で飛行機や車、工場の廃棄ガスがなくなり、中国の都市やアメリカロサンジェルスの空はクリーンな青空が広がり、この間だけでも大気汚染値が半減しているということです。海の生物もプラスチックに苦しむという現在、地球規模のコロナ被害は、人間が自然の中で生かされている土の器であることに気づかせ、押し戻し、傲慢と罪をはらむ文明文化に、警告を与えるものなのでしょうか。コロナの意味はわたしには分かりません。

しかし、今は春、新緑の葉は光り、花々は美しく咲いて楽しませます。「野の花がどのようにして育つか、注意してみなさい」といわれたイエスは、人を愛し友と呼び、土の器に神の救いの福音という栄光の宝を納めようとして、その罪を負って十字架についてくださいました。そして復活、この信じがたい福音に「心の目を開き」注意深く見ながら、今、私たちは、互いに遠く離れていても礼拝を守り祈りつつ呼応して信仰を励ましあっていきましょう。

「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペテ3:9)
(ウエスレアンホーリネスひばりが丘北教会牧師)