「 試練(こころみ)にあわせず、悪より救い出したまえ 」 説教 七條 真明

2020年4月19日(日)説教

イザヤ書42:1-4

マタイによる福音書6:13

2000年に及ぶキリスト教会の歩み、また教会に生きた人々を支え続けたもの。それが何であるか、さまざまな形で言い表すことができるでしょう。

教会の歩みを支え続けたもの。それは、祈りである。一つの正しい答えであると思います。そして、その祈りの中心に、「主の祈り」と呼ばれてきた祈りがある。主イエス・キリストが教えてくださった祈り。私たちの救い主であられる御方が、この地上の世界を生きる私たちに贈り物として手渡してくださった祈りであります。

私たちが生きていく。信仰をもって生きていく。その時に、澄み渡った青空のように明るい光に包まれていると思えるような中をいつも歩んでいける訳ではありません。むしろ、曇り空のような日々を歩んでいくことが多い。時には、分厚い黒雲にすっぽりと世界が覆われてしまっている、そう思えてならないような中を行かねばならない。そのような時がある。2000年のキリスト教会の歩みもまたそうであったことを思います。

そのような中を、信仰をもって、信じて歩み続けるということは、一つの戦いでもあります。その戦いのために、信じて歩み続けていくという戦いのために、主イエスが手渡してくださった祈りがある。主の祈り。教会に生きる者たち、その誰もが口に上らせることができる祈りです。晴れの日も、曇りの日も、また嵐の吹き荒れるような日々にも、祈る。そのことが、2000年の教会の歩みを支え続けてきた。そう思うのです。

主の日の礼拝において、新約聖書のマタイによる福音書第5章から第7章に記される「山上の説教」の御言葉に聴き続けています。主イエス・キリストが、山の上で人々にお語りになった御言葉です。3月に入りましてから、その第6章に記されています、主の祈りの御言葉を、一つひとつ取り上げて聴いてまいりました。今日は、その第6番目の祈りです。

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。私たちが日頃祈っている主の祈りの言葉では、「我らを試練こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りです。

私たちは、普段この祈りを、どのような祈りとして捉え、口にしているのだろうかと、ふと思います。祈りの後半の、「悪より救い出したまえ」というところから、この自分、あるいはもっと広く私たちを傷つけるもの、たとえば災いのようなものから守ってください、と神さまに祈る、そういう祈りとして祈っているようなところがあるかもしれません。

注意深い方は、私たちが普段祈る主の祈りでは「悪より救い出したまえ」、「悪」となっているところが、私たちが用いている新共同訳という日本語の聖書では「悪い者から救ってください」、「悪い者」となっていることに気づかれると思います。

「悪」という事柄か、あるいはそれよりも人格的な存在を表すような「悪い者」か、これはどちらにも訳すことができる言葉が使われているのです。前半の「誘惑」、あるいは「試練」ということとのつながりで考えれば、ただ何か自然に起こってくるような災いというようなことだけではない。むしろ、私たちに働きかける悪しき力、それは聖書にも出てくる悪魔、あるいはサタンという言葉で言い表されているものを考えてもよいでしょう。私たちに攻撃をしかけてくる悪しき者、その存在からの誘惑、誘いから守られること、それを天の父なる神さまに祈り願う祈りが、この第6番目の祈りだということができます。

悪、あるいは悪しき者からの誘惑、誘い。それは、私たちをどのようなところへ誘おうとするものだということができるでしょうか。それは、神の御心に逆らうこと、聖書が罪と呼ぶものへの誘惑ということができるでしょう。しかし、その根源にあるものを捉えるとすれば、私たちが神に背を向けてしまうこと、神を信じ、信頼することをやめてしまうこと、そのようにして神から離れてしまうことへと誘う。誘惑する。それが、悪しき者の働きかけとして捉えられているものだと言えます。

そのように考えていく時に、私たちにとって誘惑となるのは、災いと呼ぶべき出来事が起こる時ばかりとは言えないことに気づかされます。むしろ、そのようなことがなく、すべてがうまく行っているような、順風満帆な時に、神に信頼することから離れてしまうこともある。試練のないことが最大の試練とも言うように、特別な問題もなく過ごせるような時こそが、神から離れてしまうような誘惑の時になることも、またあることを思わされるのです。

しかし、やはり、苦しみが大きく、それが長く続き、抜け出すことができないような大きな困難の中に、私たちが置かれる時には、やはりそれが神への信頼が大きく揺らぐ時、それは試練の時とも言えるでしょうが、私たちが神に信頼することから離れてしまいかねない誘惑の時ともなることを思います。

新型コロナウイルスの感染拡大という、思いもよらない状況の中で、今までとは全く違った生活を送らなければならなくなっている私たちがいます。人が集まってはいけない。密集してはいけない。ソーシャル・ディスタンス、社会的な距離という意味でしょうか、人と人とが2メートル以上離れるべきことが、しばしばテレビなどを通しても語られます。

スーパーのレジの前で並んで待つところでも、待っている人一人ひとりが離れて、互いに距離を置くように、立つべき位置が床に記されていたりします。感染が起こらないようになされている一つの配慮だとも言えることでしょう。しかし、私は、先週、郵便局に行きました時に、自分自身が、他の人たちと離れていよう、距離を置こうと、知らず知らずのうちに動いている自分がいるということに気づかされました。

当然のことと言えばそうかもしれません。しかし、この感染症による状況が長く続いていく中で、そのことが、深く自分の中に染み付いて、他の人と、隣人と距離を置く者になっていかないだろうか、そのことを思いました。物理的な距離というだけではありません。他の人々に対する信頼というところでも、それを失っていくことはないか。愛を失っていくことにならないか。それが、もし私自身のことだけではないとすれば、私たち、この世界に生きる者たちが、互いに対する愛と信頼を失い、距離を置き、互いに離れることが普通になって、国と国同士もまた互いに距離を置き、離れ、対立し合って生きる世界へとますますなっていくようなことがないか、改めてそのことを思わされたのです。

そして、また思います。神さまに対しても、私たちが同じようになっていくことがないか、ということです。今まで、私たちが経験したことがないような日々の中で、神さまに対しても距離を置き、信じること、神さまに信頼するところから離れていってしまうことがないか。この苦難の時が、大きな誘惑の時にもなりかねないのではないか。そういうことを思わされるのです。

しかし、そのような中で、かつて聞いたことがある一つのエピソードを思い起こしました。ヨーロッパ、確かスイスにおけるエピソードであったと思います。あるキリスト者の女性が、不慮の事故で夫を失ったのです。その女性は、深い悲しみの中に置かれることとなりました。プロテスタント教会の牧師が訪ねてきた時、その女性は言ったのだそうです。私は悲しくて辛くて、もう祈ることなどできません。牧師は、お気持ち、よく分かりますと言って帰って行った。次に、カトリック教会の司祭が訪ねてきた。女性は、同じように言います。私は苦しくて、もはや祈ることなんてできません。すると、司祭は、こう言ったというのです。「あなた、主の祈りを忘れてしまいましたか」。すると、女性は答えます。「いえ、忘れていません」。司祭は「じゃあ、祈れるでしょう。一緒に祈りましょう」。そうやって、女性は司祭と一緒に主の祈りを祈って、立ち直って行ったというのです。

何でもないエピソードのように思われるかもしれません。しかし、その司祭がしたことは、もう祈ることなんてできない、と神に背を向け、信じること、信じ続けることを拒もうとする女性に、主の祈りをもってその誘惑に抵抗するように、自分を不信仰へと誘う誘惑に、祈りをもって戦うように、と司祭は促した。そうではなかったでしょうか。

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。「我らを試練にあわせず、悪より救い出したまえ」。

主の祈りは、主イエス・キリスト御自身の息がかかっている祈りです。主イエスは、ただ祈りを教えてくださったというばかりではない。主御自身が、祈りの人として、地上のご生涯を歩まれました。罪なき御方が、私たち罪人である者たちの中に深く入ってこられるようにして、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、すぐに赴かれた荒れ野で、主イエス御自身が、悪魔からの誘惑をお受けになりました。やがて十字架へと向かって行かれた主イエスのご生涯全体が、絶えざる誘惑との戦いの中にあったご生涯であったことを思います。私たちが生きるその中で、受ける誘惑のすべてを主イエスも知っていてくださる。そして、私たちの先頭に立つようにして、すべての誘惑を退けて、神の御心に従い抜く歩みを全うしてくださいました。御自身の十字架の死をもって、死からの復活をもって、罪と死の力から私たちを救い出す御業を成し遂げてくださいました。

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。主イエス御自身が、きっと地上のご生涯の中でいつも祈り、天の父なる神さまを見上げて口になさっていた祈りの言葉がここにあるのだと思わされます。主イエス御自身が、神を信頼することから離れさせよう、信じ続けることをやめさせようとする誘惑と、祈りをもって戦われたのでありました。

主イエスが十字架にかかられる前に、弟子であったペトロが主を否定し、逃げ去ってしまうことをご存じであった主がペトロにおっしゃったことをまた思います。ルカによる福音書第22章31節です。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

主イエスは、ペトロの弱さをご存じでした。同じように、私たちの弱さを、私たち以上によく知っておられます。しかし、だからこそ、主が、わたしたちのために、信仰がなくならないように祈っていてくださるというのです。私たちが主の祈りの言葉を口に上らせて、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈る時、私たちに先立って祈っていてくださる御方、私たちのただ中に立つようにして祈っていてくださる御方の祈りの中に、私たちは立つのです。

「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直る」。悪に負けないように、いやたとえ負けることがあったとしても、あなたは立ち直る、主イエスが御自身の勝利のうちにそのことを約束していてくださいます。

 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。ある人が、このようなことを言っています。主の祈りを祈る時、私たちは既に悪しき者に対する主の勝利が確定していることをしっかりと見なければならない。私たちのための勝利。だから、主の祈りは勝利の望みに満ちた祈りである。

いつ晴れるともしれない分厚い黒雲が覆っているような世界の中でも、主イエスは、私たちが主から手渡していただいている主の祈りを祈るように、祈りをもって神を信じ、信頼し続ける戦いを戦い抜くように、と私たちを促してくださいます。黒雲の上に澄んだ青空が広がっていることを私たちは知っています。今この時を、天の父を共に見上げて、祈り続けて歩んでまいりましょう。

祈ります。

 天の父なる神さま、どうか私たちがあなたから離れず、あなたに信頼して歩み続けることができますように。どうか、私たちを、あなたから離れさせる誘惑の力、悪しき者からお守りください。私たちのために、御子キリストが、悪しき力に打ち勝っていてくださることを信じて、主が教えてくださった祈りをもって、あなたに祈り続けて行くことができますように。十字架の主のもとにこそ、私たちが守られる、確かな逃れ場があることをいつも信じることができますように、助けていてください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。

(日本基督教団高井戸教会牧師)