「わたしがあなたがたを世から選び出した。」 説教 飯島 信
■2020年5月10日(日)復活節第5主日
■エゼキエル書36:24-28(旧p1356)/ヨハネによる福音書15:18-27(新p199)
お早うございます。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
緊急事態宣言が5月31日(日)まで延長されることになりました。
そのため、動画の配信による礼拝を、続けてまいります。
一日も早く宣言が解除され、皆で共に礼拝を捧げることの出来る日を、待ち望みたいと思います。
今日与えられた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第15章18節から27節です。
18節から見てまいりましょう。
18:「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
私は、ここでの“憎む”と言う言葉を注視しました。“憎む”とは、どのようなことかを考えました。“憎む”、それは、相手の存在を否定することです。心の裡で、受け止めることも、受け入れることもしないで、否定することです。
そのように考えると、ここは、次のように言い換えることも出来ると思います。
「世があなたがたを否定し、攻撃して来るなら、あなたがたより前に、わたしを否定し、攻撃していたことを覚えなさい」と。
次に“世”について考えます。“世”とは世間一般の意味です。しかし、ここで問題となっている“世”とは、神の支配に対抗するこの世の力とでも言えるでしょうか。つまり、「世があなたがたを憎むなら」とは、「この世の力が、神の支配のもとに生きるあなたがたを否定するなら」と置き換えることが出来ます。そして、あなたがたを否定するとは、あなたがたを受け入れずに、あなたがたを世から葬り去ることを意味しています。
この時、私は思うのです。
この御言葉は、今の新型コロナウイルスの渦中にいる私たちとは無縁ではないのではないかと。
つまり、“世”とは、新型コロナウイルスの感染を恐れて、混乱と混迷の中にいる私たちです。そして、“憎まれている”のは、誰でしょうか。
私は最初それを聞いた時、信じられなかったのですが、事実として、感染を恐れながらも、第一線に立って患者さんを助けようとしている医療従事者とその家族たちが、“世”から攻撃され、差別されていることを知りました。あるいは又、物資の不足によるパニックを社会に起こさせてはならないと、流通の第一線で仕事を続けている人々やその家族も又、攻撃の対象とされていることを知りました。社会で、今、最も助けを必要としている人々に寄り添うため、私たちに代わって感染の危険に身を晒しながら職務に取り組んでいるこれらの人々を、“世”は感謝するどころか、避けて、迫害し、差別までしている現実を私たちは知らされています。
ここで、さらに深く思わされることがあります。
世は、何を憎むのかと言うことです。
世とは何か。ここで明らかになるのは、世とは、自分さえコロナに罹らなければそれで良いとする考え、自己本位と言う悪しき思いと行い、それが世です。そして、世が憎むのは、自分を犠牲にしてまで他者のために尽くす、善なる思いと行いなのです。
この時、マタイによる福音書第25章31節から40節の御言葉が胸に響きます。
その中から37節です。
37:「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38:いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
40:そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
私は、この御言葉の中で、イエス様に「いつ」と尋ねている人と、感染の危険を恐れながらも、様々な現場で、助けを必要としている人々に寄り添い続けている人とが重なるのです。まさに今、私たちが直面しているのは、飢え、渇き、居場所を追われ、経済的に困窮し、病に苦しんでいる人々の現実です。
この時、それでは一体、今自分はどうするのかを思います。
世に安住するのか、それとも、世に憎まれても、困り果てている人に寄り添い続ける人々と共に、その労苦を少しでも分かち合う生き方を選び取るのか、そのことが問われている、そのように思うのです。
19節です。
19:あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
溜息が出ます。
18節の御言葉を受けて、それではどうするのかを考える前に、イエス様は、私たちにすでに、19節の御言葉によって何をすべきかを明らかに示されました。
「あなたがたは、世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言われます。
世から選び出された私たちです。
何のために?
イエス様に従うためにです。そして、イエス様は、私に従う者は、“世”に憎まれる者として歩みなさいと命じておられます。
この御言葉をどのように聴き、受け止めるのか、イエス様は、今日この時、私たちにここでも問うていらっしゃいます。
20節です。
20:『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
もし、イエス様に従うことによって、世から迫害された時、私たちが迫害される前に、世はイエス様を迫害したと言うのです。慰めの言葉です。世に憎まれる者として歩み、そのために迫害されることがあれば、この時、私たちは、イエス様により近づくことが出来る、そのように思えるのです。
21節から23節。
21:しかし、人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
22:わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
23:わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
世の“罪”について語られています。
“罪”とは、神様が、私たちに何を望まれているかを、その独り子であるイエス様が教えられたにもかかわらず、受け入れず、かえってイエス様を憎み、そのことによって神様をも憎むことです。そして、その理由として、24節です。
24:だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
イエス様が、神様の名においてなされた数々の力ある業を人々は見ました。それにもかかわらず、と言うより、その力ある業の故に、イエス様と、その力を与えられた神様を憎みました。彼らのこの世の力の源(みなもと)であった偽善が暴かれ、その地位が脅かされたからです。このように、彼らがイエス様を憎んだ理由は、決して正当な理由ではありませんでした。ですから、25節。
25:しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
人々は、正当な理由なく、ただ己の自己保身のためにイエス様を憎みました。
26節です。
26:わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
私を憎む人々が正しいのか、それとも私が正しいか、それは、神様があなた方に遣わす弁護者、真理の霊があなたがたに明らかにすると言います。
しかし、弁護者、真理の霊が神様から遣わされて来る以前に、27節で、弟子たちのなすべき事が告げられます。
最後の27節です。
27:あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
あなたがたこそ、私が語った言葉、力ある業を、その目で見、その耳で聴いたではないか。
そうであれば、あなたがたも又、私が神様から遣わされた者であることの証し人となるのである。
イエス様はそのように言われました。
以上が、今日、私たちに与えられた御言葉です。
重い言葉です。
新型コロナウイルスの渦中にいるからこそ、心に深く問われて来る言葉です。
私は、先週のメッセージの冒頭、次のように語りました。
「自分に出来ることは何かを考えます。まず、自分が感染源にならないことが一つ、そして、感染の危険を覚えながらも仕事に従事されている方々、さらに仕事を奪われ、生活がひっ迫している方々などを絶えず心に上らせながら、私は私の日々なすべき仕事に取り組もうと思っています」と。
ところが、今日与えられた御言葉は、世に憎まれている人々のことを「絶えず心に上らせながら」、即ち、祈りに覚えながら、それで良いのかとの問いです。私はどこまで“憎まれている”人々に寄り添い、労苦を分かち合っているのかとの問いです。さらに言えば、自分自身が、世に憎まれる存在となり得ているのかとの問いです。
もう少し、もうほんの少しでも、出来ることを探さなければと思います。
すでに、立川教会関係者用にですが、困っている人のためにマスクを沢山作って下さった方がいます。
又、皆様の中でも、支援を必要としている所に、実際に寄り添い始めている方もおられると思います。
私も、ささやかですが、4月から支援の取り組みを始めました。9月まで続けます。
それでも、なお、イエス様に問われているように思うのです。
世から憎まれている人々に、又彼らが支援している人々に、まだ分かち合うことはないのか、まだ出来ることはないのかと。
そして、私自身が世に憎まれる働きをしているのかと。
祈りましょう。
(日本基督教団立川教会)