「薫風天より来り」説教:工藤 浩栄

2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝

ヨハネによる福音書20:15~17・使徒言行録2:1~4

新型コロナで外出自粛要請が出されていた4月のある土曜日の朝、いつもと変わらず八甲田山中にある小さな温泉に出かけました。今年は暖冬だったことから、例年に比べて山の雪は少なく、山の地肌も見えていました。温泉に向かう道沿いには、湧き水を汲める場所があります。温泉からの帰り道、いつも立ち寄って水を飲み、用意したペットボトルに水を詰めて家でも飲んでいました。甘くておいしい水です。湧き水と言っても下から湧いてくるのではなく、山の斜面の塩化ビニールの管から、大量の水が勢いよく噴き出しています。普段の年であれば、湧き水の場所は雪に覆われていて、この時期には水を汲むことができないのですが、今年は雪が少なかったために、一足早く山の恵みに与ることができました。

山の雪解けは例年よりも早く、山の端のあらゆる場所から、透き通った水が噴き出していました。大量の雪解け水が舗装された道路を流れていました。車を運転するのに困ることはないのですが、道路が渓流のようになっており、水しぶきを上げて進んでいきます。山の端から水が流れ出す音が響いています。八甲田山の稜線から手前側に積もった雪は、解けて山肌の小さなくぼみの低いところを下り、または地面に浸み込んで下り、そして駒込川の渓谷を下り、陸奥湾に至ります。

駒込川の深い渓谷を挟んで、頂(いただき)が平らな山並みが見えてきます。駒込川は、何千万年もの時間をかけてこの深い谷を刻みました。川が山を削って谷を刻むということは、昔学校で習いましたが、山を削っているのは目に見える川だけではなく、山の斜面や地下を流れ下る水だと言うことに気づきました。

山を削るのは水だけではありません。もっと寒い場所では氷河がさらに大胆に岩を削っているのだし、乾いた場所では風が岩を砕いているのです。生物の営みによって岩は砕かれ、土を作り出します。人がこの世にいてもいなくても、風と水は山を削っていますし、地下深いところでの対流は、常に新しい陸を造り出しています。

人の意図するところ、人の望むところとは関係なく、時が過ぎ、風が吹き、水が流れています。時の流れも、風や水の流れも、人の思いには従いません。そして、人の思いに決して従わない存在、その方が神です。この世の全てを創造された方です。

 

今日は、教会の始まりとされる日、聖霊降臨日です。復活したイエスが天に昇って見えなくなり、弟子たちは呆然と天を見上げて立っていました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。(使徒1:6)」「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。(同1:7b)」復活のイエスと弟子たちのこのようなやり取りの後で、イエスは天に帰って行きました。そして天使と目される人物が弟子たちに呼びかけます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。(同1:11b)」復活の後、イエスは40日にわたって弟子たちの前に現われ、神の国について話したと、使徒言行録は伝えています。(同1:3)

イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」、と宣言して伝道を始めました。イエスが宣べ伝えた神の国は、この世において捨てられた人々の希望となりました。イエスは、神の律法に基づく決まり事により、触れてはならないとされた人に触れ、その人の病気を治しました。穢れの原因そのものを消滅させてしまいました。(マルコ1章他)それは奇跡と呼ばれるものです。サタンのせいで人とコミュニケーションが取れず、墓場で寝起きしていた人を家族の許へ帰しました。(マルコ5章他)

神の国がこの世に実現する時、神は今苦しんでいる人から解放するであろう。

イエスは、神の国が実現することを確信して、福音を語り、人々を癒しました。ところが、イエスは神の国を見ることなく、権力者たちによって十字架に付けられ、墓に葬られました。弟子たちはイエスを捨てて逃げ去りました。そして3日の後、イエスは復活し、多くの人々の前に現われます。

 

本日の第一の聖書箇所、ヨハネ福音書20章は、復活のイエスと、かつてイエスに癒してもらったマグダラのマリアとの再会の場面です。イエスの亡骸に最後の別れを告げに来たマリアは、空の墓をみて、亡骸(なきがら)さえも誰かに奪われてしまったと思い、呆然とします。復活のイエスはマリアの背後に立っていました。その方がイエスだと気づくまでに、マリアには少し時間がかかりました。イエスはマリアに言います。「わたしにすがりつくのはよしなさい。(ヨハネ20:17b)」

マルコ福音書によれば、マグダラのマリアは、イエスによって7つの悪霊を追い出してもらったとされています。(マルコ16:9b)家族からも見放され、長い間一人でいた可能性があります。そのような境遇のマリアに目を留め、根気強く癒して下さったイエスに、マリアは最後まで付き従おうとしたのでしょう。イエスの亡骸を墓に納めるまで見届けることが、愛するイエスに対する最後の務めであると考えたことは、自然な感情です。

それとは別に、イエスは犯罪者として処刑されたのですから、イエスの亡骸に近づくこと自体が当局から警戒されていた可能性もあります。行動の制限から解放される安息日明けの朝、身に降りかかるかも知れない危険を顧みず、墓に向かったマリアを咎(とが)める人はいないでしょう。それは恩人に対する礼儀であり、マリアの行為を咎めることができる人はどこにもいないのです。

もしも、人と人の係りだけで世界が閉じているとしたら、マリアが取った行動は、今自分にできる限りにおいて、最善のことをしたと言う意味において完璧です。

ところが、空の墓を見て狼狽(ろうばい)しているマリアの後ろに立って、復活のイエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、イエスご自身が命じるのです。

先ほど申し上げた通り、神は人の思いに決して従わない方です。さらに、この世の全てを創造された方です。マリアは、イエスによって苦しみを克服し、イエスに最後まで付き従いました。そして今、人として尽くすべき礼儀を含め、イエスの亡骸に対して、全てを捧げ尽くそうとしています。これは、マリアのイエスに対する愛情と感謝の表れであり、マリアはこうせずにはいられなかったのです。

自分を死の淵から救い出してくれたイエスが、神を冒瀆し、国家を転覆させる反逆者だとして、公衆の面前で十字架に付けられ、神に呪われた者のように曝され、虚しく死んで行きました。マリアは深い悲しみの淵で、イエスから受けた恵みに対し、自分が今できる限りの礼儀を尽くそうとしています。ところが、礼儀を尽くすべき対象が、目の前から消えているのです。誰かが亡骸まで奪ってしまったと考えたのは、当然のことです。

しかし、神とは人の思いには決して従わない方です。そして神は、人に葬られることなど望んではいません。イエスは神の御子、父なる神が、私たちのために遣わした、愛する独り子です。父なる神は、死者の中から御子イエスを復活させました。そして復活のイエスは、墓の前で狼狽しているマリアの後ろに現れました。そしてマリアに呼び掛けるのです。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」

 

4つの福音書が描く十字架の場面がほぼ同じであるのに対し、復活の描かれ方は様々です。イエスが現れた場所や、誰の前に現われたのかについての記述は、福音書によってそれぞれ異なっています。どれが本当なのかについて確かめる術はありません。福音書が編集された状況に応じ、様々な伝承を素材として、紡ぎ出されたのでしょう。

イエスの十字架の出来事は、現存するか否かに拘わらず、ユダヤ・ローマ双方の公的な記録が残されていたはずです。裁判および刑の執行という公権力が働く場面において、公文書が存在しないはずがありません。十字架の出来事は、私たち基督者にとって霊的な事実であると同時に、公文書に記録された歴史的事実です。したがって、福音書における十字架の描かれ方は、歴史的事実の枠内に規定されます。

一方、復活は公権力による制限が全く及ばない、純粋に私的な出来事です。多くの人々が復活のイエスに出会ったと証言していますが、十字架の場面を見たという証言と比較すると、確実さの度合いが大きく違います。復活が歴史的事実ではないと否定するつもりはありません。そうではなく、復活の出来事は、物質的な因果関係から全く自由なのだから、時と場所と場合によって、また出会う人の心境や境遇によって、それぞれ違った現れ方になり得るのです。

十字架が歴史的事実に釘づけられ、そこから逃れられないのに対し、復活は歴史的事実から解き放たれているのです。イエスを十字架に付けたのは人間です。一方、イエスを死者の中から復活させたのは、父なる神です。

十字架の裁きは、イエスの肉体を通じて行われた、一度限りの歴史的事実ですが、復活はマグダラのマリアや弟子たちに限らず、時と場所を超えてパウロや福音書の記者たちにも起こりました。そして今を生きる私たちもまた、それぞれの形で復活のイエスに出会う機会が与えられているのです。

復活は、神の恵みそのものです。人の思いやよい行いとは全く関係ありません。マグダラのマリアの思い通りに、主はなさいませんでした。逆に、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、復活のイエスは、マリアを通じて、私たちに命じておられるのです。

 

復活のイエスと40日を経て別れた弟子たちは、復活のイエスが、今神の国を建てて下さると期待しました。神は、人の思いに決して従う方ではありません。復活のイエスは、再び来ると約束して姿を消します。そして、ペンテコステの日、皆が一つになって祈っていたところ、天から聖霊の風が吹きました。それぞれの国の人が、それぞれの国の言葉で神の言葉を聞いたとされています。

この奇跡は、イエスが生前願いながらも、実現しない事柄でした。イエスが願いながらも実現しなかった事柄が、この世において少しずつ現実となっていくのです。イエスは奇跡によって、多くの人々を救い出しました。目の見えない人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を開きました。イエスが行った奇跡には、現在の医療技術によって治療可能になったものと、いまだ実現していないものも含まれています。

しかしながら、イエスが真に望んだこととは、目の見えない人が見えるようになることというより、むしろ目の見えない人も、目が見える人も、同じ神の息吹きを受けた存在として、大事にされることなのでしょう。たとえば、現在の日本において当てはめるならば、あらゆる国の人が、等しく人間として尊重されることをいうのでしょう。

十字架が歴史的事実および物質的因果関係によって釘づけられているように、私たちの過去の人生も罪とともに釘づけれています。一方、復活はそこから解放されています。イエス・キリストの復活を信じるならば、私たちのこれからの歩みには大きな希望があります。

今風が吹いています。青い空から、天の風が薫っています。父なる神の思いのみから、父なる神は、御子イエスをこの世に遣わし、死者の中から復活させ、再臨の約束の日まで、聖霊の風を私たちに送り続けます。そして、霊の風は思いのままに吹いています。主の風に吹かれながら、イエス様と再び会う約束の日を待ち望み、歩んでいくことができますように、願うものです。

 (桂山荘礼拝)