「世界に開かれたナショナリズム」説教 内坂 晃
2020年4月29日
フィリピの信徒への手紙3章4節―9節
コロナ禍の嵐が吹き荒れています。インフラの整備が不十分な発展途上国(手を洗えといっても、そもそもきれいな水を手に入れることが困難な人々が多くいる国々や、輸出入が大幅に止まり、飢えの危険にさらされる人々がいる国々等)への感染の克服がなされない限り、グローバル化の時代、世界はコロナ禍の恐怖から解放されることはありません。いったんは収まっても、スペイン風邪の時のように、第二波、第三波の嵐が襲ってくる可能性もあります。しかし、それでも先進国においては、ワクチンや特効薬の開発によって、しだいに収束に向かうでしょう。
ではこの嵐が収束に向かった後の世界は、どうなっているでしょうか。デジタルやIT技術の活用が一層広まる社会になることは間違いないでしょう。問題は、それらの技術を活用して、人々はどのような社会や世界を築くのかであります。小山堅氏(日本エネルギー経済研究所常務理事)は、日本経済新聞の四月二十四日付の記事で、次のように記しています。
・・・コロナ禍の経験から、国家の役割がより重視され、大きな政府の時代になるかもしれない。そこでは自国の国民・経済最優先で何よりも安全とセキュリティーが重視され、エネルギー面では自給率向上などのエネルギー安全保障が新たな視点から強化される可能性がある。他方、各国が勝手に自らの安全保障確保に邁進(まいしん)すれば、地球規模の問題対処に必要な国際協調・連携の機能が弱体化するかもしれない。国益を懸けた衝突が生じ、地政学的緊張関係の高い世界が生まれる可能性もある。
また東大の藤原帰一氏も、朝日新聞の四月十五日付の夕刊で、次のように述べている。
パンデミックを前にした国際機構は非力だった。感染症拡大の防止は世界保健機構(WHO)の主要な目的のひとつであるが、中国において新型コロナウイルス感染が確認された後もWHOの警告は極度に遅れた。EUについても、感染がヨーロッパに広がり、イタリヤやスペインで毎日何百もの死者が生まれるという危機を前にしながら、EUが果たした貢献は、みじめなほど小さかった。
ここにはグローバル経済が後退し、経済危機が広がるなかで、国家の役割が拡大する過程を見ることができる。国際協力や国際機構への期待がこれまでよりもさらに弱まる一方、国家の働きへの期待は高まり、これまでにない権力が国家に委ねられる。緊急事態が収束した後も、経済危機が続き、休業補償や失業手当など社会給付の必要がある限り、国家の役割は保たれるだろう。
グローバリズムが国家よりも市場を重視する政策と結びついていただけに、グローバリズムの後退は社会経済における国家の復権を伴うことは避けられない。経済的逼迫(ひっぱく)に対して社会給付を行うのは当然の施策であるが、グローバリズムには国境を超えた世界秩序の構築も含まれることを忘れてはならない。もし国家の復権が、世界秩序から国民国家体系への転換、すなわち大国が国益のみを追求して競合する世界への転換を伴うものであるとすれば、国際的緊張の拡大は避けることができない。
しかし温暖化や人口爆発、それに伴う水不足等々、世界が一致協力して、全力をあげてたちむかわねばならない課題は、目の前に山積みしています。そのことを考えるなら、このような時代に、ポピュリズムの高まりを背景にした自国第一主義のナショナリズムの方向に各国が向かえば、それこそ人類は破滅に向かうことになります。自分達の利益と伝統的信条を背景にした国家主義か、世界の危機意識と人道主義を基盤にした国際主義か、この両者の戦いが、様々な所で多様な形で今後戦われることになるでしょう。どちらが優勢になるか、その勝敗如何で、人類の運命は決せられることになるのではないかと思います。世界的危機を前に、国際的連帯を示し立ち上がっている動きがあります。温暖化の危機に立ち向かうグレタ・トゥンベリさんの呼びかけに応えて行動する若者たちの姿があります。発電の三十二%以上を石炭に依存する日本の現状を変えるために立ち上がった若者達のことを、四月二十日付けの朝日の夕刊が報じています。二○一七年には核兵器禁止条約も百二十二か国・地域の賛成多数で国連で採択されました。私達はこうした動きに勇気づけられ、微力でも応援したく思います。しかし、こうした理想をあざ笑うかのように、この世の富と権力を求め、繁栄と勢力の拡大を追求する人々がいます。大衆は理想よりも利益につくという冷厳な現実があります。理想の追求に身を投じる者は、少数者であることを覚悟する必要があります。しかし、そのような少数者が各地にいて、各々努力しているからこそ、この世界が全面崩壊するのが辛うじて食い止められているのだと思います。
国家主義対国際主義という問題を考える時、私は、個人主義、人道主義、世界主義を唱えた大正教養主義が、いとも無惨にファシズムの波にのみこまれていった苦い歴史を想起せざるをえません。
かって大正期に漱石門下生を中心として、それに白樺派の人々が加わって、後に大正教養主義と呼ばれる文化的活動が展開されていきました。そこでは、何よりもまず、自我の拡大、自己の内面の充実が追及され、それはしばしば、国家や民族の意識を通り抜けて、個人が直接、世界や人類の意識へと結びつく傾向を示しました。知識と教養を身につけることによって、自己充実をはかろうとする姿勢は、その到達した高い知性にもかかわらず、次のファシズムへの流れに対するなんらの防波堤にもなりえませんでした。個人主義、人道主義、世界主義を唱えた大正教養主義が、どうしてファシズムへの抵抗の原理となりえなかったのか。そしてまたご存知のように、神の愛や隣人愛を説いてきたキリスト教会もまた、ファシズムの波にのみ込まれていきました。なぜそうなったのか。両者に共通していること、それは自らの思想や信仰に基づく確固とした国家観を持っていなかったからではないか、私はそう思うのです。
この意味で矢内原忠雄が東大を追われるきっかけになったのが、彼の「国家の理想」という論文であったことは、故あることであります。キリスト信仰に基づく彼の国家観が、時のファシズムとぶつかったのであります。河合栄治郎や社会主義者が、ファシズムの波にのみこまれてしまわずに抵抗しえたのは、河合の場合は彼の理想主義哲学に基づく国家観があったが故であり、社会主義者はいわゆる階級国家観を持っていたが故だと思うのです。
こういうきちんとした国家観を持たぬ人道主義や宗教思想が、いかにファシズムの波にのみこまれ無惨な姿をさらすことになったか、倉田百三などはその典型であります。ましてや政治や社会の問題に対して無関心な私生活優先主義の若者たちは、エネルギー危機や食糧危機が大きな問題となっていったとき、まさにその私生活の利益の防衛と向上のためという触れ込みで、民族の誇りと伝統という装いをまとって、利益共同体としての国家の強調がなされるとき、その危険なナショナリズムの波に、いとも簡単にのみ込まれてしまうのではないか、そういう危惧を私は抱かざるをえないのです。
かって大江健三郎氏が、隅谷三喜男先生との対談の中で、次のように言っておられました。
いまも私はキリスト教の外側にいますが、キリスト教の方がたとえば平和運動で示されるような普遍主義、世界主義というようなことを、安易な俗流のナショナリズムに足をすくわれない独立した思想として、学びたいと思っております。
(岩波ブックレット「私たちはいまどこにいるのか」)
たしかに強烈な民族宗教であるユダヤ教と対決し、それを克服する中から世界宗教としてのキリスト教が成立したとも言えるわけですが、だからと言って、キリスト教を単なる世界主義、普遍主義とのみとらえることは誤りであると言わねばなりません。
ペテロを、そして次にはイエスの弟ヤコブを筆頭とするエルサレム教会は、律法を重視したユダヤ民族主義の枠から出ることはありませんでした。律法からの解放を福音の神髄ととらえたパウロによって、キリスト教は民族主義の枠を破り、世界宗教への道へと踏み出すことが出来たのでした。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、次のように言っています。
4節 肉の頼みなら私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。
5節 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、
6節 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。
7節 しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。
8節 そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、
9節 キリストの内にいる者と認められるためです。私は、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
(フィリピ書2章4節から9節、協会共同訳)
肉の民族主義的誇りの放棄の宣言です。かくて彼は異邦人伝道へと邁進したのでした。ではパウロは、自らの民族のことは、棄てて一切省みなくなったのでしょうか。いいえ、パウロはローマ書の中で、次のように述べています。
「わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」(ローマ書九章三節)
キリスト信仰は、ナショナリズムの質を根本から変革し、それを世界に向かって開かれたものとし、世界に仕えるものと変えて、肉のナショナリズムと対決するものとなすのです。世界に向かって開かれたナショナリズムの理想を日本国憲法前文は、次のような言葉で述べています。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
時に、弱い私達はこの世の闇の勢力の強大さを恐れ、また幾度となく絶望的気持ちにさせられますけれど、この世の権力によって十字架刑に処せられ、絶望的な叫びをあげて死なれたイエスを、神はよみがえらせ給うた。この復活の出来事に思い馳せ、この神への信頼によって、天来の希望を胸に歩んで行く者でありたい。そう願うのです。
一言祈ります。
(聖天聖書集会主宰)