「神などない」説教:佐伯 勲
■2020年5月10日(日)聖霊降臨節第5主日【母の日】
■詩編14編 ローマ書3章9~12節、21~26節
この14編の詩人は、いきなり「神を知らぬ者は心に言う『神などない』」と言っています。この後に、「腐敗、忌むべき行い(憎むべき行い)、汚れ、悪を行う、民を食らい」という言葉があるので、国が、社会が危機的状況の中で、人々の心は荒み腐りきり、悪事が横行していたのでしょう。それとも、7節にバビロニア捕囚からの解放のことが言われていますので、神殿が破壊され、国が滅亡、敵に捕らわれの身となってしまった中で、いったい神はいないのではないか、背信、不信、疑心が人々を支配していたのではないでしょうか。
今日、私たちは、緊急事態宣言が出され、更に一か月延長され、何か、新型コロナウィルスに世界も、社会も、日常の生活、自分自身も捕らわれの身になっているかのごとき中で、新型コロナウィルスの恐ろしさよりも、人間の罪深さがあらわになり(「目に見えないウィルスより、目に見える人間の方が怖い」といった悲鳴!)、人と人とが誹謗中傷、傷つけ合い、人心が荒廃し、非難・差別・排外といった危機的状況が生まれつつあります。
そう言えば、すでに学びました詩編11編でも言われていました。
1~3節「主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか『鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ 闇の中からこころのまっすぐな人を射ようとしている、世の秩序が覆っているのに 主に従う人(ツァディク;義人)に何ができようか』と。」
この“秩序”は、「基礎、根元、基」という訳があり、直訳は「柱が崩される」です。世の秩序、国家、社会の支柱が倒壊した状態に在って、「主に従う人に何ができようか」何もできないではないか、「鳥のように山へ逃れよ」ひたすら難を避けるべきではないかと、人々は言うのです。しかし、この詩人は言います。「主を、わたしは避けどころとしている。」
原文は、「主の中にわたしは逃げ込む」です。この詩編の結論は・・・。
7節「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人にむけてくださる。」これは、神礼拝の場所、神殿、聖所であったことと思われます。
4節「主は聖なる宮にいます。・・・御目は人の子らを見渡し・・・」
主なる神の御目は詩人を見守り、詩人の眼は一点の曇りなく、ただ主のみを見つめる。それゆえに彼は力強く言いました。彼の逃れ場は、小鳥のごとく山にあらず、主なる神、ご自身のもとにある、と。
主こそがまことの山でありました。詩人の眼は、この複雑怪奇なる地上の異様な山々(試練・患難)の中にあって、高くそびえ立っている見えざる神のみを見上げています。
詩編14編にもどります。
1節「神を知らぬ者は心に(心の中で)言う。『神などない』と。」
これは、もしかすると、この詩人の自問自答であったかもしれません。
この“神を知らぬ者”について、「愚かなる者、不敬虔な者」と訳されますが、ヘブライ語は「ナヴァル」この言葉は、「草が萎む」とか「枯れる」という動詞から来た形容詞です。
イザヤ書40章6~8節「・・・肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ(ナヴァル)。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
ペトロは、このイザヤの言葉を引用した後、次のように語っています。
ペトロの手紙Ⅰ1章25節「これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
「愚か」というのは、一時、生き生きと茂り花咲き栄えても、やがてはしぼみ枯れることを言います。それは、彼らは、心の中で「神などない」と言っているからだ、と詩人は言うのです。愚かなる者は口では敬虔な言葉を語りますが、時には信仰を口にしながら、心の中では「神などない」と、神の存在を否定しているからです。これがまことにこの世界の、人間の姿なのだ、と言うのです。だから・・・
2、3節「主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」詩人は自分も含め、嘆きつつ、そう断定しています。
ところが詩人は、そのような中でも、自らの罪も告白しながら、
5、6節「…神は従う人々(ツァディク;義人)の群れにいます。・・・主は必ず、避けどころとなってくださる。」
詩編11編の詩人も告白していました。「主を、わたしは避けどころとしている。」
そして、なんと、神殿で一心に神を見上げてイスラエルの救いを祈るのです。
7節「どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。主がご自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び踊り イスラエルは喜び祝うであろう。」
(7節の口語訳は「主がその民の繁栄を回復されるとき」)
しかし、実際、バビロン捕囚からの解放、帰還、イスラエル、シオンの回復は、まだまだ先のこと・・・“いつまで、主よ”・・・数十年を耐え忍び、祈り待たなければなりませんでした。
イザヤ書52章7~10節「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせ(福音)を伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ、 あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。 その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る 主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、・・・地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。」
しかし、「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」までには、キリストの救い、まことの福音が告げ知らされるまでは、さらにさらに数百年を祈り待たなければなりませんでした。
ところで、この詩編14編は、ある意味、150編ある内、どこにでもあるようなものでしょう。怒られるかもしれませんが!しかし、パウロがこれを引用するとどうなるのでしょう。
ローマ書3章10~12節「次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟るものもなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』」
パウロはローマ書1章のはじめから「人類の罪」について具体的に語り、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。」と言った後に、『正しい者は一人もいない』と、詩編14編を引用して断罪するのです。
しかし、もっと驚くべきことは、それに続いて・・・。
3章21、22節「ところが今や・・・神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」
ここ(21節~31節)は、ローマ書の中心であると言われます。それなら、新約聖書、ひいては聖書の中心と言っても過言ではないでしょう。
詩編14編7節の希望、神殿での祈りが真にここに成就したのです。
罪や(新型コロナウィルスなど)様々な捕らわれからの解放、(楽園喪失からの)回復、真の救いを求める祈りが、聖なる宮(まことの神殿、この家での礼拝も!)において捧げられ、そして、神の御子であるキリストの十字架を仰がなければなりません。
「・・・人のこえのみしげきときに、うちなる宮にのがれゆきて、われはきくなり主のみこえを」
(前日本基督教団北白川教会)
*追記 牧野信次氏推薦の『ペスト』(ダニエル・デフォー著 中公文庫)
2020年4月20日改版3刷発行!がようやく書店に並び、読み始める。是非どうぞ!