「からだも希望のうちに生きる」説教:佐伯 勲
■2020年5月24日(日)復活節第7主日
■詩編16編
16編1節:「ミクタム。ダビデの詩。神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを。」
ミクタムは何を意味するのか分かりません。
一般的に、これはダビデの詩編と言われますが・・・。
“避けどころ”ヘブライ語は「ハーサー;逃げ込む」です。原文は「私を守り給え 神よ なぜなら 私は逃げ込む あなたの中に」です。10節に「わたしの魂を陰府に渡すことなく・・・墓穴を見させず」と言われているので、この詩人は、肉体の、命の危険が迫るような病か、絶望、危機的な状況(緊急事態)に陥っていたのでしょう。しかし、そういう中にあっても「私をお護り下さい、神よ。あなたのもとに私は逃れますから。」(岩波訳)と言っていますから、神の中にこそ自分の安全が、命が保証されている、主なる神への全的な信頼と喜びを歌った詩編なのです。ですから、詩人は危機的な状況の中にあっても2節:「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」と歌うのです。
詩人の(わたしたちの)それまでの人生において“幸い”と思われることはいくつかあったことでしょう。その中で、わたしと“あなた”(ヘブル語でアータ!)と呼ぶことのできるお方こそ“幸い”の中心であると告白するのです。しかも、神を幸いとする者は、独りこの詩人のみならず、地にある聖徒はみなそうであり、彼の喜びでありました。
3節:「この地の聖なる人々 わたしの愛する尊い人々に申し上げます。」
4節では、これに反して、主なる神以外の他の神々を選ぶ者はいかに不幸であるかを語ります。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず 彼らの神の名を唇に上らせません。」
さて、詩人は「主なる神のほかに自分の幸いはない」とはっきり言っていますが、その“幸い”について、様々な言葉で次に言いかえています。
5節、6節:
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。」
輝かしい“嗣業”については、新共同訳聖書の用語解説を参照。本来は、神から与えられる人それぞれの分、相続地。それが、意味が拡げられていき、イスラエルの民が「神の嗣業」として神のものとなり、一方、神ご自身がその民の嗣業と考えられるようになっていきました。とにかく重要な神からの「賜物、祝福」であります。
“わたしの杯”それは食卓において最も重要なものです。わたしたちの聖餐式における杯がそうでありしょう。これも、嗣業と同じく、神様からの「賜物、祝福」です。
そして、「神の国そのものを受け継ぐ」ことこそが神の最大の祝福なのだと主イエスは言われました。(マタイ福音書25章34節)
なお、「測り縄は麗しい地を示し」「わたしに与えられた分」(別訳;わたしの分け前の分)、「わたしの運命を支える方」(別訳;わたしのくじを決める方)については、説明が難しいのですが、「嗣業」と同じ意味でしょう。このような様々な象徴的な言葉を繰り返して、“わたしの幸い”を強調しています。
それでは、このように歌う詩人の生活はどのようなものなのでしょう。まず
7節:「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」
このように詩人は、昼は主をほめたたえ、夜は主に教えられる。これが詩人の生活であります。さらに、そういう生活をさらに具体的に語ってきます。これを読みますと、詩人は重い病から回復、危機的状況から脱して、死から逃れることができたことを歌ったのでしょう。困難の中にあっても、主なる神を見失うことなく、神の絶えざる守りを確信しえた者が、その信仰のゆえに「からだは安心して憩います」(詩編16編9節)、肉の体も望みに生きる、死からの解放すらも確信するのです。
それが次の詩編16編の後半、8節から11節ですが、以下に七十人訳で記します。
実は、使徒言行録2章25節から28節がそれなのです。
25節:「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」
26節:「だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。」
27節:「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」
28節:「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」
この使徒言行録のところは、聖霊降臨直後のペトロの説教です。ここでペトロは、主イエスの復活を語っています。使徒2章24節「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」と言って、主イエスの十字架と復活の事実を宣べているわけですが、それを、ユダヤ人なら誰でも知っている、詩編16編の言葉(8~11節)を引用して、「ダビデは、イエスについてこう言っています。」と言って証言するのです。
前回のパウロにしましても(ローマ書3章10節からのところに詩編14編を引用)、ペトロにしましても、よくまあ聖書を、詩編を読み込んでいるなぁと感心します。
そして次、使徒2章29節以下を読みますと、ペトロは、この詩編の作者はダビデであると考えているわけですが、そのダビデ自身が、キリストの復活の証人であることを示して、使徒2章31節「(預言者だったダビデは)キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」このようにして、このダビデの詩編16編とキリストの十字架・復活との関係を明らかに示して、使徒2章32、33節:「神はこのイエスを復活させられたのです。・・・それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて(それをわたしたちに)注いでくださいました。」
使徒2章17節:「『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。』」
つまり、ペトロは、ここに至って聖霊降臨の事実を解き明かすわけです。
すなわち、聖霊降臨は、キリストの十字架の死と復活(と昇天)をほかにしては理解することができないということなのです。そのことを、聖霊降臨の直後、ペトロも聖霊を注がれて、詩編16編を引用しながら語ったのでしょう。
わたしたちも、聖霊降臨日、聖霊が注がれて、詩人ダビデやペトロのように、困難な中(危機、緊急事態、その後の回復、解除)にあってもなくても、日々、「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」と告白しながら歩みたいものです。
(前 北白川教会牧師)