【発題】基督の他、自由独立と主に在る友情―韓国共助会の新たな出発を願って―基督教共助会委員長 飯島 信
初めに、聖書を一か所、お読みします。
ルカによる福音書第13章18節、19節です。「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる。」
1992年3月、ソウルのイエス教長老会の女伝道会館を会
場にして行われた第1回韓日基督教共助会修練会の席上、韓国側参加者から韓国共助会設立が宣言されました。その事について、在日大韓基督教川崎教会牧師であった李 仁夏は、修練会を記録した『歴史に生きるキリスト者』の序文で、「一粒のからし種」と題し、要約次のように記しています。
「第二次大戦の最中の頃であった。(朝鮮から日本に来日し)京都の中学校に在学していた朝鮮半島出身の生徒十四、五名が、英語教師であった和田正先生に導かれて、毎土曜日、和田先生宅で、時には夜を徹して、聖書を学んでいた。私はその場でキリスト・イエスの恵みに触れ、信仰に生きる芽ばえにより受洗に導かれた。
やがて、その聖書研究会に、当時京都大学医学部に在学していた李英環兄と洪彰義兄が参加してきた。お二人は和田先生と共に北白川教会を拠点とする共助会の信仰のお交わりに入っていたからであった。
あの戦争が激しくなるにつれ、聖書研究の群れからも、卒業して帰国する者もいた。……私共の間から、自然発生的に、この聖書研究の群れを一つのまとまりのあるものにしたい願いが生れ、……『芥からし種会』を発足させ、冒頭のみ言を祈りのうちに覚えた。
京都でまかれた一粒のからし種は、その後、土にうずもれるように、視覚では見えないものになったようであった。
あれから半世紀(1992年)……ソウルで開かれた『歴史に生きるキリスト者』を主題とする韓日共助会修練会で、韓国サイドの共助会員から、韓国基督教共助会の発足を知らされた時、私は表現できない感動におそわれた。一粒のからし種は、激動の時代を貫いて、知られないままに、芽ばえ、静かに育っていたのだ。」
その時から27年が経ち、韓日修練会は主に5年に一度開催し、今回で7回目を迎えました。しかし、この27年の歳月は、韓国側の多くの共助会員が神様の御許に召される時ともなりました。韓国共助会発足当初のメンバーで、今でもなおお会い出来るのは、ソウルの洪彰義先生(京都の北白川教会で奥田成孝牧師から受洗。香隣教会長老。中学生当時、平壌の朱基徹牧師の山サンジョンヒョン亭峴教会に出席)と大邱の尹 鍾倬先生のお二人だけです。
御許に召されたのは、韓国共助会では、李 英環(医師。香隣教会・イエーダム教会長老)、裵 興稷(東京神学大学留学、澤 正彦と出会う。安東・慶安高等学校校長)、金 允植(東京神学大学留学。澤 正彦と出会う。鐘岩教会牧師。韓国NCC会長)、郭 商洙(延世大学教授・教会音楽担当)、李 台現(韓国農林水産省長官)、朴 錫圭(東京神学大学留学、澤 正彦と出会う。ソウル貞陵教会牧師)、また設立以後に入会した朴 炯圭(ソウル第一教会牧師)、洪 根洙(香隣教会牧師)、日本側では、和田 正(松本日本基督教会牧師)、李仁夏(在日大韓基督教会川崎教会牧師)、澤 正彦(小岩教会牧師)らです。
このままでは、韓日共助会の交わりが失われてしまうのではないか。その事実を目の前にして、私たちは何としてでも交わりを回復したい、出来ればこれまでの交わりよりさらに強い交わりを創り出したいとの思いの中で、今回の集まりを企画しました。
なぜなら、韓日共助会の交わりが失われて行くことは、アジア太平洋戦争の戦時下から始まり、戦後半世紀にわたって先達たちが築き上げて来た韓日共助会としての交わりが失われて行くにとどまらず、韓日両国の明日にとって、さらには東アジア全体の平和と和解実現への歩みにとって、二度と取り戻す事の出来ない宝を失うことになると思うからです。
その理由をお話しします。
韓日共助会の交わりの根底にある一つの言葉と、ある出来事、そして、日本の共助会員が示して来た実際の行動を述べることによって、この交わりを途絶えさせてはならない理由に代えたいと思います。そして、これらを踏まえて、私たちの明日からの歩みをどのように築き始めるかをも考えたいと思っています。
まず一つの言葉です。
初代の韓国共助会委員長であり、解放後、香隣教会創立に関わり、長い間永登浦にて貧しい民衆への医療に従事して来た李英環先生の言葉です。彼は韓国共助会設立の主旨として次のように記しています。
「この韓国基督教共助会の設立は、過去の日本の韓国への罪過に対する本当の懺悔、良心の声と、日本の共助会の言葉では言い尽くし得ない友情の結実だと思います。」(「韓国基督教共助会の設立と第1回修練会に際して」『共助』1992年10・11月合併号56頁)
私は、李英環先生の言葉にある通り、韓日共助会の交わりの根底を支えるのは、「過去の日本の韓国への罪過に対する本当の懺悔、良心の声」だと思います。日本側の真摯な懺悔と良心の声、これこそが、私たちの交わりに真実の命を与えるものであるからです。そして、その上に立って初めて、「言葉では言い尽くし得ない友情」が神様によって私たちに与えられ、祝福された豊かな交わりへ導かれると思うのです。
続いて韓日基督者の出会いを考える上で、重要な、ある出来事を紹介します。
大邱で、今一度立ち上がるべく懸命にリハビリに励んでいる尹ユン 鍾ジョン倬タク先生の書かれた文書です。彼は、日本の共助会の和田正牧師との出会いを次のように記しています。
「1966年4月……延ヨン世セ 大学連合神学大学院で……和田正牧師と澤 正彦先生(当時は神学生)の来韓及び本学院訪問と対談の時間がもたれるようになった……。『10年過ぎれば山川も変わる』という諺があるが、旧来の対日本悪感情は20年間冬が去り夏がやってきても融けなかったということを私はその時知ったのであった。……一緒にいる研究院生や学生たちもまた日本時代の苦い経験者であったので……緊張がみなぎり古い敵意がよみがえってくるような雰囲気であった。……このようにただならぬ雰囲気の中で20年目に初めて(私は)日本人に会うことになった。」(尹 鍾倬「日本人印象記」『沈黙の静けさの中で』、日本キリスト教団出版局94頁)
尹 鍾倬先生の父親は、教会の熱心な長老でしたが、不屈な民族意識が日本の官憲に睨まれるところとなり、何度も投獄され、解放後は、身体障がい者としての茨の道を歩まなければなりませんでした。また、尹先生自身も、幼い頃、朝鮮語を使うことを禁じられた学校で朝鮮語を使ってしまい、罰としての「犬の札」を首にかけられた経験を持っていました。
ですから、尹先生もまた、日本及び日本人を決して許す事の出来ない気持で和田 正牧師と澤 正彦神学生を迎えたのです。
「予定の時間と場所に二人の方は来られた。最初は和田牧師が壇上に登って話され、次に澤先生が話をされた。恰も二人は全日本民族の罪を自分の身に負ってこられたかのように、重く、沈うつな表情で、一つの儀礼的な挨拶ではなく、真摯な姿で講演というよりは一つの和解のための提案をされた。『過去に日本が犯した罪を何によってどのように赦されることができるでしょうか?
もし可能な道があるならばどんなことでも是非したいと思います』という言葉、そして『キリストの十字架の下に両民族と教会が互いに交わっていけることを望んでやみません』というお話の要旨であったが、一言一言が聞く者に深い感銘を与え、感動を与えた。
実際私は追及してみたい憤怒の矢を多くもっていたが、石
はむしろ私自身の胸に投げつけられる形になった。」(尹 鍾倬「日本人印象記」『沈黙の静けさの中で』、日本キリスト教団
出版局、95頁)
この時のことを、和田 正もまた文章に記していますので紹介
します。「私たちが延ヨン世セ 大学の連合神学大学院で衷心より謝罪した時、一人の牧師が私の所に来て、『私は小さい時、日本の官憲が家へ入って来て父をぶったりひどい事をするのを目撃して以来、日本人を憎む気持を持っていました。実は今日初めて日本人の話を聴きました。そして日本人を憎んでいた自分が間違っていた事を知り、終始涙を呑む思いでした。どうか私の罪を赦してください』と、実に謙遜な態度で願われた。
この言葉を聞いた時の私の驚きと感動は、到底筆舌に尽し難い。全く感極まりない叫びにもならぬ声をあげて泣きつつ堅くその人の手を握りしめた。その人もまた眼の涙を拭って居た。ああどんなに謝罪してもなお足らぬと思う身に、その相手の人から逆に謝罪の言葉を聞こうとは。このただ一つの言葉を聞くことが出来ただけでも韓国へ来た甲斐があったと思った。」(和田 正「ただキリストの十字架によって」『沈黙の静けさの中で』、日本キリスト教団出版局、83頁)
韓国の尹 鍾倬牧師と日本の和田 正牧師との出会いの場面です。和田は、戦時下においては、冒頭に触れたように、自宅で聖書研究会を開いて李 仁夏、李 英環、洪 彰義らとの交わりを重ね、日本の敗戦後は、以上のようにして尹 鍾倬と出会います。
私は、韓日共助会の交わりの原点は、この尹 鍾倬牧師と和田正牧師の出会いの消息に求められると思います。日本側からすれば、かつての日本帝国主義による朝鮮植民地支配、あるいは1950年代の朝鮮戦争、1965年の韓日条約に続く経済侵略など、加害の事実を決して忘れてはならない所にあると思います。
しかし、日本側が加害の事実を負うという事は、事実としての歴史に向き合い、そこにしっかりと足を下ろして生きることを意味しています。そして、そこに立つ事によって真実の交わりが始まるのです。
あと一つ、私たちの交わりが、何故無くてはならない、かけがえの無いものであるかについて、これまでの日本の共助会員が取り組んで来た様々の事柄を通して証ししたいと思います。それは、韓国との交わりを希求するにあたって、どのような日本人であることが求められているのかとも関わります。ここで名前を挙げてるのは、皆共助会員です。
1960年代、北白川教会に飯沼二郎という京都大学教授がいました。彼は自費で月刊誌『朝鮮人』を発行し、在日の朝鮮人や韓国人を管理対象とする日本の出入国管理体制の問題点を明らかにし、日本政府に抗議を続けました。
1970年代になると、日本の日立製作所による民族差別事件が起こります。韓国人であることを理由として一人の青年の就職が取り消された事件です。この裁判闘争を支援する団体の代表の一人に李 仁夏がなり、私も参加し、勝利しました。
さらに公立学校では、在日朝鮮人・韓国人の子どもたちが、日本名ではなく本名を名乗り、彼らが正々堂々と生きて行く運動が始まります。日本社会の厳しい抑圧と差別のため、韓国人であることを隠して日本名で通う子どもたちに、民族としての誇りを取り戻すため、本名で通うことを勧める運動でした。共助会では、李 仁夏と私が担いました。
時をほぼ同じくして、指紋押捺拒否闘争が始まります。外国人登録証に指紋を押すことを強制する日本政府に対し、押捺を拒否する闘争です。李 仁夏は運動の先頭に立ち、勝利します。
一方関西では、北白川教会の教会員を中心に、オモニ学校の取り組みが始まりました。朝鮮半島から日本に来た在日一世の、日本語の読み書きが十分に出来ない高齢者を対象に日本語を教える取り組みです。小笠原 亮一や佐伯勲らが中心となります。
そして、共助会員の取り組みの最後に、韓国民民主化闘争支援運動を紹介します。
1974年、「ニューヨーク・タイムス」に意見広告が出ます。一面全部を使って「1973年韓国基督者宣言」を掲載し、アメリカの人々に韓国民主化闘争への理解と支援を呼びかける広告でした。5名の発起人によって出された広告でしたが、その内3名が共助会員でした。
1975年、飯沼二郎は「東亜日報を支援する会・京都」を立ち上げ、「自由言論実践宣言」を出して弾圧にあった「東亜日報」を支援するため、日本市民に「東亜日報」の広告欄を買って意見広告を出す事を呼びかけます。
1974―1978年、私は「韓国問題キリスト者緊急会議」事務局長として、NCC(日本キリスト教協議会)に置かれた事務所で、月刊「韓国通信」(2000~3000部)を発行し、あるいはデモや集会を組織して、日本国内で韓国民主化闘争支援運動を展開しました。
また1980―1982年にかけては、「金大中氏を殺すな!市民署名運動」事務局長として、1980年5月の光州事件首謀者として死刑判決を受けた金大中氏救命のため、カトリック・プロテスタント・無教会・一般市民が一つとなった市民運動を展開しました。
以上見て来たように、これまで日本で行われた在日韓国人及び韓国本国に関わる様々な市民運動の中で、日本の共助会員は大切な役割を果たして来ました。それは、在日の人々や韓国キリスト者らの闘う姿に励まされ、自由と民主主義、そして何よ
りも人間として生きる基本的人権を獲得する戦いの深い意味を教えられたからです。
私たち基督教共助会は、韓国では三・一独立運動、中国では五・四運動が起きたと同じ年の1919年クリスマス、日本人牧師、森明によって設立されたキリスト者の団体です。カトリック・プロテスタント・無教会などの教派を問わず、「キリストの他自由独立」と「主に在る友情」を掲げる伝道団体です。主な活動としては、次の事を行っています。
①雑誌『共助』を年8回発行しています。各回約650部です。
②会員は全くの個人単位で、北海道から沖縄まで約200名です。
③会員以外に雑誌『共助』の定期購読者が約150名います。
④会費は年間12、000円です。
⑤全国に8か所、青森・新潟・福島・東京・松本・東海・京都・九州に集まりがあります。
⑥年に一度、全国修養会、関西での京阪神修養会、定期総会、クリスマス会、一日研修会を開催しています。
⑦組織は、教会・教派を超え、文字通りエキュメニカルな交わりの中から、委員長1名、副委員長2名、書記と会計各1名、委員15名を選んでいます。
ところで、今日と明日の修練会以降、ここに集った私たちに何が出来るかです。私は3つの提案をしたいと思います。
その第一は、この集会の記録を韓日両国語で発行すること。
第二は、この集会参加者の名簿を作り、いつでもお互いに連絡可能とすること。
そして第三は、韓国側に複数の世話人を選んでいただき、今後の私たちとの交流を考える役割を担っていただく事です。
3年に一度、韓日両国の側で直面している課題を語り合い、理解を深め、祈り、また、聖書を通して学び合う場が実現出来ればと思います。
以上、韓日を結ぶ懸け橋となり、東アジアに和解と平和を造り出す使命に生きるキリスト者が集まり、日本の共助会と対等なパートナーシップを結ぶ新たな韓国の友が与えられることを願って、私の発題を終わります。
ご清聴、有り難うございました。(日本基督教団 立川教会牧師)