新しい契約に生きる私たち 石田真一郎

1 神様を畏れ敬う縦軸

私に与えられたテーマは、「新しい契約」に焦点を当てて、片柳先生のご講演に応答することです。朴大信牧師の開会礼拝説教で、「日本社会に縦軸がない」ことが語られました。縦軸がないと、私たちはそのときどきの社会の流れの中で、定見なく浮遊するだけになる恐れがあります。私の考えではこの縦軸は、「真の神様を畏れ敬う信仰」です。キリスト者は、この縦軸をもって生きている者です。この縦軸は、モーセの十戒の第一の戒めです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」文語訳聖書では、「汝、わが面の前に、我のほか何ものをも神とすべからず」です。旧約聖書の箴言1章7節には、次の有名な御言葉があります。「主を畏れることは知恵の初め。」

真の神様を畏れ敬わず、他のもの(偽物の神)を拝むことは、偶像崇拝(偶像礼拝)の罪です。私は神学校に入学して、初めて旧約聖書を通読しました。そして痛感したことは、旧約聖書で偶像崇拝こそ最大の罪だということです。今回のテーマである預言者エレミヤも、イザヤもエゼキエルも、イスラエルの民の偶像崇拝の罪と戦っています。旧約聖書では神様が花婿(夫)、イスラエルの民が花嫁(妻)です。新約聖書では、神の子イエス・キリストが花婿(夫)、キリスト教会が花嫁(妻)です。ところがイスラエルの民が真の神様を捨てて、姦淫(偶像崇拝)に走ったのです。神様がイスラエルの民に、言われます。「わたしは、あなたの若いときの真心/ 花嫁のときの愛/ 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。/ イスラエルは主にささげられたもの/ 収穫の初穂であった」(エレミヤ書2:2~3)。イスラエルの民から大切な真実(ヘブライ語でエームナー)、まこと(エメト)が失われる深刻な状況になっていたことを、私たちは講演で学びました。エームナー、エメトは、私たちが祈りの最後に唱えるヘブライ語アーメン(真実)の派生語です。

エレミヤは、イスラエルの民が神様に背いて罪を犯しているときには、審判を語り、逆にイスラエルの民がバビロン捕囚の苦難(審判)にあえいで希望を失っているときには、「罪を悔い改めて真の神に立ち帰るなら、希望がある」との励ましを語ります。片柳先生の講演に出て来ましたが、イスラエルの民の恐るべき罪を象徴する場面は、ヨヤキム王が、エレミヤを通して語られた神様の御言葉を焼き捨てる場面です。「ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こう(罪を悔い改めるしるし)ともしなかった。」(エレミヤ書36:23~24)。しかし、神の言葉が滅びることはありません。エレミヤの書記バルクは、王が火に投じた巻物に記されていたすべての言葉を、エレミヤの口述に従って、改めて書き記したのです。

2 新しい契約の約束、そしてキリストの福音へ

神様は、イスラエルの民が悔い改めなかった結果、バビロン捕囚という厳しい審判をくだされます。それは約半世紀続きました。しかし神様は、イスラエルの民が憎くて裁くのではなく、民が悔い改めて、罪から立ち直ることを願って、裁かれます。神様の最も深い本心が、次のように記されています。
「エフライム(イスラエルの民)はわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。/ 彼を退けるたびに/ わたしは更に、彼を深く心に留める。/ 彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/ 主は言われる」(エレミヤ書 31:20)。これはまさに、放蕩息子の立ち帰りを待ちわびる父親の心と同じです。
そして、十戒を中心とする古い契約(旧約)では、イスラエルの民と私たち異邦人(イスラエル人以外)を真に救うことができないことを知る神様は、希望の「新しい契約」を与えると約束されます。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。…… すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って、教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ書 31:31~34)

「主を知る」(神を知る)とは、単なる知識ではなく、全身全霊で知ることと思います。川田殖先生は昨夜、「エレミヤはイエス様を指さし、イエス様と同じくらい父なる神様を身近に感じていた」と言われました。苦難の道を歩んだエレミヤと、十字架を背負われたイエス様には、共通点が多いと感じます。この「新しい契約」は、イエス様が私たちの罪をすべて身代わりに背負って死なれ、三日目に復活なさることで樹立された契約、福音です。私たちは、そのイエス様を知っています。エレミヤは、私たちをうらやましがると思います。イエス様がこうおっしゃっているからです。「あなたがたの目は(イエス・キリストを)見ているから幸いだ。あなたがたの耳は(イエス様の言葉を)聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(マタイによる福音書 13:16~17)。
「新しい契約」について、イエス様の使徒パウロが書いています。それは「墨ではなく生ける神の霊によって、(十戒のように)石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。~神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(Ⅱコリント3:3~6)。霊とは新しい契約、福音です。自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける人は、全ての罪を赦され、永遠の命を受けます。そして聖霊に助けられ、父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛し、敵をさえ愛する生き方に進みます。

3 今、「新しい契約」に生きるとは

私たちはこの修養会で、今の状況でどのように生きるかを学ぶためにエレミヤ書を読んでいます。 「新しい契約に生きる」ことは、真の神様を愛し、隣人を愛することと信じます。神様に背き、滅びに向かいそうになるイスラエルの民と私たちに、神様は「新しい契約=福音」を与えてくださいました。 そして神様は、アジア・太平洋戦争に敗れた日本を、平和憲法による新しい生き方へと導いてくださったと私は信じます。憲法九条はこうです。「① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」しかし今や九条を無視して、集団的自衛権容認が閣議決定され、防衛費の倍増、敵基地攻撃(反撃)能力の保有が承認されつつあり、九条は危機に瀕しています。「今は新しい戦前だ」という人もいます。必要なことは「決して新しい戦前にしない」との私たちの強い決意です。私たちは世界、特にアジアの平和のために祈り、努力することが大切と思います。今の平和は、核兵器の抑止力に頼る平和で、真の平和ではありません。「核の抑止力によらない真の平和」を実現するために、何を行えばよいのか? この大課題を克服するために世界中で祈り、知恵を出し合いたいのです。 今年の9月1日で関東大震災からちょうど百年です。そのとき、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマが広がり、朝鮮半島出身の人々や中国人が自警団や警察、軍隊に多く殺されました(朝鮮人6000人、中国人800人殺害の説あり)。日本近代史の大きな汚点です。現場は東京、神奈川、千葉、埼玉にあり、その一つ東京都墨田区の京成電鉄押上線・八広駅から徒歩3分の荒川土手(旧四ッ木橋付近)手前に、2009年に有志により小さな慰霊碑が建立されました。つつじ、きんかん、あじさいが植えられ、緑豊かです。私は一昨年、見学しました。東京スカイツリーも近くです。 慰霊碑には「悼」の文字が彫られています。碑と解説板にこうあります。「犠牲者を追悼し、両民族(朝鮮半島と日本)の和解を願って、この碑を建立する。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う。」横に小さな資料館があり、在日韓国人の女性の管理者がおられました。「百年前のことを、今恨むつもりはない。でも忘れないでほしいし、繰り返さないでほしい」と言われました。当時、朝鮮の人々は、炭鉱や工事現場での労働のため、学業のために来ていました(場合によって、連れて来られた)。1910年から1945年まで、朝鮮半島は日本の植民地でした。二度と繰り返してはいけません。慰霊碑近くでは、毎年9月1日頃に慰霊コンサート等が行われ、ライヴ配信もあります。関東大震災のときの罪を繰り返さず、外国籍の方々を愛する日本社会を造りたい。これが「新しい契約」による私たちの生き方だと信じるのです。 (日本基督教団 東久留米教会牧師)