森 明が見据えていたもの 片柳 榮一
今回は田中邦夫さんを迎えての京阪神共助会修養会です。田中さんは『共助』誌に、ここ何回かにわたって、森明に関する、非常に感銘深い論考を載せてくださり、深く考えさせられていました。佐伯先生から、秋の修養会に誰を呼んだらいいかを考えて下さいと言われて、1度田中さんの話が聞きたいとお答えして、下村さんが積極的に仲介してくださり、実現に至った次第です。私が大学院生の頃よく、田中さんから波多野精1の話をおうかがいし、人格性の意義を説得的に話して下さっていたのが、印象深く記憶に残っています。1度京都共助会で、日本の思想を取りあげたことがあり、私は踊り念仏、時宗の始祖、1遍を選び発表しました。「唱うれば、仏も我もなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」に典型的な、1種汎神論的な無の思想を秘めた1遍を語ったのですが、田中さんは、片柳君らしいな、と感想を述べられました。その含意は、「人格性」が、ここでは問題になっていないという批判でもあると受け止めました。そのように「人格性」を重んじられた田中さんが、先の論考の中で、現代という時代が、人格性を強調する事では解決しない当時の多くの知識人、思想家に共通するのかもしれませんが、先にも言いましたように「人格性」というものが森明の思想の核心にあります。「吾人は、宇宙を決して機械観をもって見るべきものにあらず」(184頁)
人間存在の根本をなすのも、人格であり、その人格の核心をなすのは、自発的な、自由の決断、行為をなしうる主体です。「歴史」についても森明は深い洞察を示していますが、時間をかけて進展するもどかしい「歴史」の歩みを認容せざるを得ないのも、人間が自由なる選択による決断によって自らの歩みを固めていかざるをえないからです。人格的自由と歴史の強調は事柄の表裏の関係にあることが思わされます。
森明が進化論を受け入れ、しかもベルグソンを深く尊敬し、その『創造的進化』の考えに影響を受けているのも、彼の人格の理解の進展と言えます。宇宙の根源としての神も、単なる物質的力ではなく、人格的な愛の神であると言います。森明は、しかも自らの深い確信をさらに、哲学的に基礎づけようとしています。或る宇宙論的な思想をもっており、それを哲学的に解明しようとの熱い思いを秘めていたことが感じられます。性急なまでに現今の科学、哲学による基礎づけを求めています。それは機械的な物質がこの世界宇宙の動力ではなく、その奥底に愛に源流する自由な働きを理解し、基礎づけたいという願いがあるからです。今から見れば、この基礎づけの作業はあまりにも性急であり、どう見ても無理な急ぎようであります。しかし見方を変えれば、彼の内に迸る確信は、自他に対して納得、説得せねばやみがたいものであり、性急であればあるだけ、彼の確信の深さ、彼の直感の底に鮮やかに見ていた形姿の確かさを思わされます。「生命」という言葉の重要さ、それは生物学的意味の生命でなく、生き生きと自由に動き働く、という意味で「愛」に究極する「生命」です。
キリスト教の神観は「人格的な聖き愛の創造的生命」(137頁)であり、「キリスト教は実にHeart to heart の宗教で、冷ややかな学問の結論でなく、また倫理の講義でもない。実に魂と魂の摩擦からほとばしる人格の接触であることは疑いない事実である」(90頁)という。そして人格の根源にあるのは「愛の自己制限」であるという。「愛はみずからを主張すると同時にその目的に近づき、自己を与える、その愛する者の立場に自己を置くものである。ここに人格と人格との生ける交渉が行わるるのである。これを人生の事実にその1、2を見るに人生は教育である。教育とは大いなる者が小さきものの前に小さくなり、完全なるものが不完全なるものと同位置をとるのである」(190頁)。
田中さんは2016年第8号の論考(4)において「かれ(森)が直面していた20世紀初めの4半世紀は、従来の人間経験の総体をはるかに越える固有で独自な危機の世界であり」(18頁)と述べていますが、改めて考えてみると、この深い危機を経た故に、人はもはや簡単には「人格性」を自明の事柄としては受け取りえなくなったといえるのではないかと思います。何かこの概念に疎遠な感覚を、私たちが持たざるを得ないのも、歴史がこの危機を深く経験した故ではないかと思います。この危機によって破壊され、擂り潰され、焼け野原になった荒野とでもいうべき所に、私たちは立っているという気がしてなりません。
小笠原亮1先生がかつて或る修養会において、「私たちは先達たちに比べて、人格の衰弱を患っている」と、呻きともいえる言葉を発しておられたことが思い出されます。
「人格」の問題を深く捉え直し、人格を「決して手段とならず、目的であるもの」と考えたのは、カントであり、その考えを19世紀の後半に再生させたのが、新カント学派ですが、この人格主義とも言える思想は、この危機の時代の中で潰えてゆきます。森明も読んだことが窺える西田幾多郎は、大正3年に書いた『思索と体験』の3度目の改訂版を出した昭和12年の序で次のように述べています。「当時(私は)甚だしく新カント派の人々から動かされた。その頃はこれ等の学派がドイツ哲学界の主潮であり、従って又我が国の主潮でもあった。私は今此書を読み返すにつれて、深く歴史の動きというものを思わざるをえない」と、自らが生きてきた時代の思想そのものの変化に驚いています。
しかし今度幾つかのものを読み直して、人格性というポジティブな考えではないにしても、森先生が人格性の洞察から見据えた、いわば人間存在の現実の、いわばネガの側面についての言及は、人を強く説得するものがあることを思わされました。絶筆となった「文化の常識より見たるキリスト教の真理性」がやはりもっとも充実した叙述であるのを思わされますので、この書を通して少し見てみたいと思います。
先生は言います。「何にも依らずに独立自存するものは神のみで、森羅万象悉く独立自存ではない。皆何かに依って存在が保たれている。宇宙は相対的の存在である。人間もまたこの類にもれない。日光・空気・食物・土地等すべてに依っている。そればかりではない、人間は社交的動物で『相互扶助』を必要とする。決して孤立して生存はできない。互いに相助け合うから生活が成り立つのである。故に生きることは頼ることである」(113頁)。そしてそのことから先生は人間の内に在る深い求めについて語ります。「心の対象なしには人間はよく生きて行けるであろうか。なるほど心は無形であるから、自由であるように思われるが、併し対象なしに、あて無しにボンヤリとは寸刻も居られないのが心の本性であろう。精神が健全であったら、人間は何か思ったり計画したりしている。心にそれを画いて楽しみ、希望を抱いている。何も思わずには淋しくて、とてもいたたまれないのである。求めたり憧れたりすることは、生命の欲求であり人間の本質的な姿で、何ものかを心に得ていないならば、とても生きていかれるものでない」(114頁)。そしてこの心の対象は、或る果てしないものを要求している。我々は無限の要求を持っている。先生はこの欲求を利己的エロス的なものとして単純に斥けようとしません。「人間はそうした無限の恒久なものを要求する本能性を有していると言う事だけは、今まで述べてきたことで明白であると思う。私たち人間はこの偉大な心の荷物、すなわち『心の望み』を持って、人生の旅路を辿ってゆくのであるが、これはいったい何を意味しているのであろうか。もし私たちが日帰りで行けるほどの近い所へ行くのであったら別段大きい荷物は要しないが、洋行するというように遠い所へ行く時には、日帰りの旅行と支度が違うはずである。……そのように私たちの要求の荷物から見ると、50年や70年の限られた旅では使い果たすことができない多くの荷を心に持っている永遠の旅路を辿るもののように見える。人生、意長くして齢短しである。心の荷物は幼少よりかずかず使用してきたけれども、とうてい短い現世においては荷造りを解くによしもない貴重なトランクを携帯している」(118―9頁)。
「人生をはかなく観じきたり、諸行無常という言葉をしみじみ思わせられるような気持になったり、遂には欲は迷いであるとさえ思われてくるのであるが、しかし私たちは真に生きんとする欲望を呪ってはいけない。欲望は限りなく湧いてくる本性を持っているものであるから、限られたもののみをもって、これに応ぜしめようとするのは無理である。むしろ限りなきものは、限りなきものに向かわしめねばならぬ。キリスト教においては、満足しやすき心を誡めて『心の貧しき者は幸いなり』と言うのである。すなわちいつも満たされない貧しい心があればこそ、一時的なものや、じきに行きづまるものに目がくらまされたり、思わぬ失望をさせられたりせぬようになる」(119―120頁)。
限りなきものは限りなきものに向かわしめねばならぬ、という言葉は、私の研究の専門であるアウグスティヌスの『告白』の冒頭の章の言葉、「あなたは私たちをあなたに向けて創られたので、あなたのうちに憩うまでは静心をえません」という洞察に繋がるように思います。あらためて先生の魂の深さを思わされます。
罪についての洞察も極めて厳しく鋭いものが感じられます。「1体罪というものは、人間の正しい感覚を失わしめるもので、あたかも精神上の脚気病である。堕落すればするほど、自分の堕落が苦痛でなくなり、精神的には生きながら死物になってしまうのである。……キリスト教では、この堕落して罪によって精神的に無理想・無感覚になっている魂は、とうてい人間自身の良心の力では回復しうる望みがないから、これを啓発して、神に立ち帰らしめるために、神みずから運動を開始せられた、と見るのである」(149―150頁)。
さらに罪のもう1つの側面を指摘します。「さらに罪は堕落ということのほかに、最も重要な根本問題を含んでいる。それは、我を愛してくれる者に対する自己の罪を指していうのであるが、自己の過ちによりて自己の損失を招くばかりでなく、実に我を愛する者を苦しめ悩ますことである。罪は自己のみで犯すのではなくして、『対して犯す』という方がより根本的に重要である。……犯した本人はかえって罪のために感覚が鈍って、それほど感じなくっても、正しい愛をもってこれを見た他の一方の方がより深刻に悩みを経験する」(150頁)。
先生の贖罪論への洞察はこうした、人間の現実としての罪が、個人の域を越えたところにあることの認識に由来しています。
今日はこれから田中さんからお教えいただきますが、その言葉に促されて、あらためて森先生の言葉を深く噛みしめ続けたく思います。