日本の土壌とキリストの愛(2004年7月号)
1933年生まれの者は、ある意味で微妙な立場にいる。子供が社会の雰囲気を肌で感じて世の中の仕組みや人間関係などを一応理解できるようになるのを12歳位とすれば、私もその一人である33年生まれは、さしずめ「最も若い戦中派」と言えないこともないが、そういう私にもよくわからないのが、天皇に対する国民感情である。
私の父は戦時中むしろ不本意な生き方を強いられた人だったが、焼けだされ間借り住まいの重態の床で八・一五の「重大放送」の知らせを聞いたとき、枕を母屋のラジオの方に向けてくれと母に頼み、天皇の声を聴きながら滂沱と涙を流したのである。
私自身は軍国少年気取りで悲憤慷慨調の文句を日記帳に書き付けたことは覚えているけれど、天皇に関してはその音声が私なりにイメージしていたのと余りに違うのに驚いただけで、父の涙の真意は理解できなかった。私より上の、戦前教育を十代後半にしっかり受けた世代には、強い皇国思想をまるで生まれつきのように身につけた人が多くいた。当時の日本人のごく当たり前の考え方になっていたということであり、社会の仕組みもその考えに基づいてがっちりとできあがっていたのである。
戦時中のキリスト者の文章にも、あの戦争を「聖戦」とし、日本軍の勝利を即「神の勝利」とするような捉え方が少なくなく、今読むと不思議な思いがする程である。戦後三十年、私自身キリスト者となりそれら先達と接することが許された時、ご人格に打たれ心から尊敬して信仰の姿勢に学ばせて頂いただけに、一層その念は深まるのだが、同じ土壌に生まれほんの少し若いだけの私がそれを他人事のように言うことはできない。戦争中の空気を多少とも知っている者として、我々の心の中の石地や茨のしたたかさに思い当たるのである。
私たちの「愛」はともすれば内向きであり、そうである限り、その「愛」を守るために妨げとなる者を排除することも起こりうる。神を、いつか自分たちの愛する者にのみ雨を降らせる神としてしまう。しかしそういう土壌にも確かに福音の種子は蒔かれ、現に私たちもその実りに与っていることに思い至ると、打ち砕かれる思いがする。
この最も小さい者、敵ですらある者に目線を向け立ち止まって下さった主イエスの愛に本当に立ち返る者とされたならば、そのまま内向きの「愛」にとどまることはできないはずである。主は待っておられる。