ミッション・スクールの課題(2004年6月号) 久米あつみ

 ミッション・スクールの課題は多くある(ここではキリスト教主義学校という意昧でこの語を使う。ミッション[宣教団]が基金を出し宣教師を多く派遣して運営している学校は、今や日本のプロテスタントでは殆ど存在しないからである)  現実問題として、中高と大学とでは状況がちがう。かつてのミッション・スクールは、入学の難易度もさまざまだったが特色もそれぞれはっきりしていた。とくに中高の女子校は、十代という多感な時期によく感じ、よく考え、よく祈るという経験をする場であったかと患う。今の学校はどうか。

 進学校として高ランク付けされるところが多くなった。ということは大学に進まない生徒はほとんど無視されるか中退という形で排除され、「よい」大学に進学するのが生徒らしい生徒ということになる。いや昔ながらのミッション・スクールらしい雰囲気を保っている学校もあるが、生徒自身が満足していると必ずしも言い切れないのが現実である。

 大学はどうか。カトリックを除き女子大のほとんどは学力・評判ともに低下傾向にある。管理・行政の問題もある。共学・別学を問わずクリスチャン教師の絶対数が足りず、学長にクリスチャン(しかも学術・行政両面に侵れた!)を確保するのが至難のわざであるのみならず、クリスチャン教師、事務員のパーセンテージは恐るべく低い。だがここでミッション・スクールの問題点をあげつらってみても生産的ではない。むしろ私はミッション・スクールのミッション(使命)を挙げたいと思う。

 そのひとつは反動化する世間に対してもの申す場となることである。日の丸・国歌の強制を公然とはねのけられるのは、今やミッション・スクールだけになってしまった感さえある。このことはいくら強調してもし足りない位で、今こそミッション・スクールは思想と信教の自由をまもる砦になるべきだろう。大学はなおのことである。

 その二はずばり宣教の場としての存在理由である。いまや教会は若人を呼び集める手立てを失ってしまった。みことばを伝えたくても青年たちの足は教会に向かわず、多様かつ個人的な関心へと向けられる。全国に何十万いや百何万といるこうした青年たちの群れに、かろうじて聖書のメッセージを伝達できるのは大学・専門学校、中でもミッション・スクールなのだ。その意味でミッション・スクールと教会の連携はもっとなされてよいし、教師たちの自覚と工夫もまた必要となってくるだろう。