サタンの跳梁 (2006年9月号) 佐伯邦男
現代は、サタンが思う存分活動しているとしか言いようがない。平和を叫ぶ声はしきりだが、人間のやっていることは全てと言って良いほど逆行している。 日本は敗戦後六十一年間戦争はしていないが、戦争への協力は惜しみなくやっている。憲法は敗戦国に押しつけられたから、独自の憲法に変え、集団的自衛権 を持ち、さらに強力な軍事力を持とうとしている。国民の輿論は上手に誘導され、過半数は、こうした日本の動きに肯定的ですらある。強制はしないとしてい た君が代、日の丸は学校の現場には、当然のごとく監視の目が光る。靖国問題は、ボタンのかけ違いをすりかえようとしている。すりかえは、至る所で起きており、問題をつきつめることなく適当に解釈したり、周囲に自分の意見を押しつける。
中近東での戦争は絶えることもなく、イスラエル・パレスチナの和平は遠い。ヨーロッパ各地のテロ事件は、エスカレートの一途をたどり、空港の手荷物検査は考えられないほどの厳しさである。地球の温暖化、異常気象、大型地震・津波の発生による被害の増大、究極の核兵器の開発競争、貧困・難民の増加など、イエスが福音書の中で語られている終末の徴が現実味を帯びてくる。
ミルトンの、長期にわたって構想を練ったという叙事詩「失楽園」は、エデンの園のアダムとイーブが悪魔の化身、蛇に誘惑される場面を詳細に描いている。視力を失ったミルトンの口述は、サタンの跳梁の世界を私たちの目に焼きつくように見せてくれる。私の友人は、人生の経験を語って、「集団の悪魔性」という表現を使った。神は禁断の木の実を取ったことより、神が人間に与えようとした自由が神への裏切りとなったことを嘆かれ、失望した。神の最後の望みは、独り子を地上に送られ、復活の希望を与えることであった。神は在るごとくして、神不在の日本と世界、古代人の神認識と現代人のそれとのギャップは埋めようもない。神よ、知恵と勇気を与えたまえ。