『パンセ』との出会いを通して 青山 久美子
この度の闘病生活を経験する中で、一文を、との要請を受けてから一か月半が経ち、ようやく重い腰を上げているところです。
何を書いたらよいのか思い定まらない中で、ヒントとなったのが、今年七月、私の所属する教会で発行された会員の『入信記』でした。私も原稿を寄せるに当たり、高三で受洗し、学生時代に出会ったパスカルの『パンセ』に触れつつ当時の心情などを記しました。
大学を卒業し、キリスト教主義の高校に就職してから『パンセ』を再び手にすることが多くなったのですが、そのきっかけは、生徒や同僚など多くの人との接触を余儀なくされる学校社会において抱える内面の葛藤でした。人と対する時に現れる自我、様々な場面での心の奥に潜む良い評価を得たいという欲求、人を愛せないという思い、等々、自己中心と自己欺瞞に満ち、神さまから遠く離れている自らの姿に私は苦しみました。
その様な中で『パンセ』をもう一度読み直そうと思い立ちました。数学や物理学等の学問を極め尽くした果てに、その空しさを感じ、後年決定的回心を経験したパスカル。その彼が、晩年、耐え難い程の病苦のなかで、夥しい数の紙片に書き遺した心の訴え、告白に触れることによって、人間とは何か、神を信じるとはどういうことかをもう一度学びたいと思ったのでした。
早熟な天才・パスカルは生まれつき体が弱く、科学の研究や発明によって一層健康が悪化していく中で社交界に出入りし、研究の対象を人間に向けていきます。社交界に群れ集う人々を観察・分析すると同時に、人間の本質とは何かという問いを自らに課し、深く考察を巡らすようになっていきます。その観察
や分析が当たっていればいるほど、パスカルは自らの惨めさ、そして「人間の悲惨」を強く意識していきます。「人間学」と題する章においてパスカルは、これでもか、これでもかとばかり、人間の空しさ、悲惨、矛盾、卑小さ……を、目の前にえぐり出してみせてくれます。その筆使いのおもしろさに引き込まれました。共感もし、私はこうしたパスカルの描く人間の弱さ、惨めさは自分だけのものではないのだという妙な安心感を得たりもしました。
幾つも難解な箇所のある『パンセ』ですが、私がパスカルから学んだ最も大切な事は、神の恵みを一旦受けた身であっても、自分がなお暗さに取り囲まれていることを常に意識しつつ、へりくだって恵みを求め祈り続けるということでした。「神を知ることから神を愛することまではなんと遠いことであろう」「呻きつつ求める人をしか是認することができない」などのことばに私は深い慰めを得ました。「イエスの奥義」と題する長い断章で、ゲツセマネで一人祈るイエス・キリストと自分とを一体化させるかのように、人間からも神からも見放されたところで祈るイエスに深い愛を注ぐパスカルの呻きには心を揺さぶられました。そして、人は自己を憎み、イエス・キリストの苦悩の生涯を慕うようになって初めて、聖書を理解しうる備えができるということを示されたのでした。
しかし、あの当時から40数年を経て、今回、思いがけず大病に見舞われ示されたことは、いまだに頑なに自己の思いを通してきていることへの神さまからの警告だったと思います。健康を過信し、医者嫌いで余程のことが無い限り病院に行かない。昨年の春頃から食べるときに胸につかえ感が有りながら、病院に行くことを渋り、秋になって症状が明確に悪化してようやく検査を受けた結果、食道癌と診断されました。そして今年2月の食道全摘手術を挟み、一時退院の期間も含め、前後3か月半病院にお世話になりました。
入院中、改めて「ヨブ記」、「詩編」そして「ヨハネによる福音書」を集中的に読みました。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(詩編46篇11節)。この御言葉に接したとき、私は思わず、懺悔と感謝の涙に溢れました。また、今回、パスカルが詩編119篇を特に愛していたことを知って驚いたのですが、毎週参加していた教会の祈祷会で、入院の直前まで学んでいたのがこの詩編119篇でした。この長編詩を読み返中で次の聖句を示され、私は自らの思い上がりに打ちのめされました。「苦しみにあったことはわたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(71節・口語訳)。「主よ、わたしはあなたのさばきの正しく、また、あなたが真実をもってわたしを苦しめられたことを知っています」(75節)。愛と裁きの神。今、まさに私に与えられた主の掟の前に頭を垂れる他はありませんでした。そして改めて生きることを許して下さった主に深く感謝しています。(日本基督教団 熱田教会員)