子供が語ってくれた青森の8年 金美淑

【誌上 一日研修会 証し】

誌上一日研修会に招かれている幸いな者です。顔と顔を合わせる喜びも大きいですが、顔と顔を思い浮かべる静かな喜びも大きいです。飯島委員長をはじめ、共助誌、共助会に連なる方々、韓国におられる兄弟姉妹、インドネシアの姉妹たちに静かな喜びを覚え、わたしの神に感謝するものです。

私は現在、青森県国際交流協会が県の委託事業として行っている青森県外国人相談窓口で二年間働いております。青森県に住んでいる外国人は、6314人(去年6月末時点、県人口の0・5%)で、そのうち半分がベトナムと中国から来た技能実習生です。韓国・朝鮮の人は、合わせて820人(韓国751人・朝鮮69人)がおり、7割近くの人(563人)が在日(特別永住者)の方です。相談業務にかかわった二年間、相談に来た韓国人は一人もいませんでした(韓国人幸せ!)。さらに今年度からはインドネシア語の通訳員に代わることになり、少し寂しくなりました。私と私たち家族の青森での歩みは、僭越ながら何回も共助誌に載せていただき、今まで皆さんにあたたかく見守られてきました。今回(確か10回目)は、二年間働いたところの『あおもり国際交流つうしん』誌(連載3回)に載せられた子供たちの青森奮闘記の内容に代わって私の話をさせていただきたいと思います。

一つの屋根、二つの国

今年で青森の移住、8年目を迎えました。青森に来た年は2013年。小学校5年生と6年生だった息子と娘が今は高校三年生と大学一年生になっています。8年間、子供に傘になってくれた友たちや横断歩道になって下さった先生方へこの紙面をお借りして深く感謝を申し上げます。8年といえば、赤ちゃんが小学生になり、桜の苗は花が咲き、柿の実は鈴なりになるほどの長い年月です。子供にどんな8年であったのか分かりませんが、いつか「一つの屋根の下、二つの国でがんばっていたね!」と笑いながら言ってくれればありがたいものです。

移住の実感がして来たのは、韓国の荷物を日本に送る時でした(移住3か月前に船便で箱55個を主人の実家に送った)。環境が急に変わるのは子供によくないと思って、できれば子供が使っていたものをほとんど箱詰めにし、それを日本の子供部屋に再現しました。ありがたかったのは韓国で孫と一緒に暮らしていた私の母が最初の3週間を子供と一緒にいてくれたことです。母に給食のランチマットを作ってもらったり、ユンノリ(윷놀이)を楽しんでもらったりして子供にも青森での楽しい思い出になっています。母が韓国に帰る前のある日のことです。母がカクトゥギ(깍두기)を作りたいと言ったので、息子に大根を二本買ってくるようにおつかいをさせました(その時は買い物の際に子供が一人で行ってはいけないということを知らなかった。韓国では子供一人でも普通に買い物をするので)。帰ってきた息子が「ママ、あるおじいさんに食堂の子か? と聞かれたよ!」と言うのでみんな大笑いしました。一般の家庭で大きい大根を二本も! しかも子供が買うことはまずないでしょう。その日、母に作ってもらったカクトゥギの味が今もなつかしく思われます。そして、いよいよ学校が始まりました。

子供は青森に来る前に日本語の読みと書きは勉強して来ました。しかし、いざ授業となって来ると母語が確立していない中、学習言語という日本語を学ばなければなりません。二重のハードルが待っていたのです。学校でも校長先生を始め担任の先生や友達にいろいろ工夫してもらったり、協力してもらったりして何とか授業について行くことができました。私が最も驚いたのは、二人の教材費に最初かかったお金がなんと64000円(裁縫セット、書道セット、ジャージ、鍵盤ハーモニカなど!)、給食費を入れたら77、000円を超えていました。しかも娘は六年生だったので、そういった教材を一年だけ使って終わってしまいました。子供たちは韓流ブーム以降に来たわけですから、学校ではまるで韓流スターが来たかのように迎えられました。家にもしょっちゅう友達が遊びに来て、ある時は13人も来た日が! 私はその時どう対応していたのか覚えていません。息子は部活でサッカー部に入りました。しかもポジションがなんとゴールキーパー! 大失敗でした。韓国の部活は趣味活動です。すなわち遊びの時間です。息子は韓国にいた時、放課後は友達とよくサッカーをしたものですから、その程度だと思ったのでしょう。身を投げてボールを守るゴールキーパーの姿にあこれていたのでしょう。しかし、現実はそうでなかったです。部活を始めてから一ヶ月も経っていない日に担任の先生から電話がありました。先生によると、息子が部活を一時間だけやって家に帰るそうです。家で何かあるのかと聞かれました。後で息子に聞いてみたら、ある友達が家に用事があって帰るのを見て、自分も自由に帰ってもいいのだと思ったらしいです。その後は部活を二時間終えてから帰るようになりました。くたくたになって! 韓国で小学校を五年間通った娘は、日本の小学校をたった一年間通っただけですが、日本の小学校の卒業証書をもらいました。(つづく)

[第一回 あおもり国際交流つうしん⑨ 2020No.138より]

小学校六年生のとき日本に来た私の娘は、日本の小学校に一年間通っただけで卒業式を迎えました。卒業式では、みんながちゃんとした格好のスーツを着るのも初めて分かりました。韓国では卒業式の服装は自由です。それから校長先生に一人一人が名前を呼ばれることも、お花の植木鉢をもらうこともありません。代表の人が証書をもらい家族が花束を準備してあげます。ですから、卒業式の日の学校の前は花売りで賑わいます。卒業式の歌が歌われている間、私はずっと肩を動かしながら泣いていました。一年間お世話になった先生や友達にありがたいという気持ちはもちろん、歌詞そのものが青森で暮らしていた私たち家族の一年間の物語のように思われて、色んな思いがこみ上げて来たからでした。そして娘が今葛藤していること、不安を感じていること、泣いていることなどと別れてほしいという願いを私は肩で歌っていたのです。

懐かしい友の声 ふとよみがえる

意味もないいさかいに 泣いたあの時

心通った嬉しさに 抱き合った日よ

みんな過ぎたけれど 思い出強くだいて

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り

この広い大空に 夢を託して

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて

はずむ 若い力 信じて

この広い この広い 大空に

(♫「旅立ちの日に」二番より)

来たばかりのことを私はある発表文にこう書きました。

「子供たちと一緒に生活し始めた青森の3月は雪と風だけ、何も動くものはありませんでした。朝、カラスの鳴き声はアラームのように私を起こし、凍土の空を群れになって飛んでいる白

鳥の羽ばたきから春は全く感じられませんでした。空から降る雪は上から降らず、下から吹き上げ、視野を遮りながら降り舞う地吹雪で『八甲田山』という映画の白い地獄のことが分かって来ました。防水でないジーンズを履いて外に出た時、雪に降られるとズボンの上に雪が積もって、体温で少しずつ雪が溶けていく。今度はその濡れたズボンから湿った感触が皮膚に染みてくる冷たさは自然に涙が出るほど痛みを感じさせるものでした。晴れる日は少なく、雪が降り続いて積もると昼の間でも雪の冷気が感じられ、むしろ風の吹かない夜の方がもっと暖かいところが青森でした。小島一郎(昭和三〇年代青森出身写真家)さんのレンズは天と地の間に住んでいる青森の人々に焦点を合わせていますが、雪原に小さな点になって生きて行く人々のところ、それでいて五月に訪れる青森の春は青森の人々の心にも白鳥不在の春が寂しくはありません。この時期になると、全ての花が一斉にオーケストラで協演し、もしたくさんの花たちが話をすることができるとしたら、その振動は100デシベルも超える大変な騒音になるでしょう。(中略)

私と子供たちの日本での生活を一言で言うと『衝突と忍耐』です。食べ物、生活習慣、天気、学校生活等、順調には行かな

かったです。学校生活が始まってからはむしろ、私の方がもっと緊張したり、心配したりしました。校長先生と担任の先生に誘われ、毎日授業の参観ができました。子供が授業の内容が聞き取れなくて分からない顔をしていたり、顔を机にうずめたり、困った顔でため息をついたりするのを見ているのは、母親としてつらい思いをさせられました。もし子供が、韓国に帰りたい!学校に行きたくない! といったら私はどう答えたらいいのか毎日が不安の連続でした。私が子供のためにできることは、おいしい食事を作ること、算数のテストで10点をもらってがっかりしている子供に「10点ももらったの?」と喜んで上げること、そして日本と日本人のよさを聞かせてあげることぐらいでした。また友達が遊びに来たらよくしてあげたり、毎日クラスのみんなに「よろしく」を何回も何回も言いながらお願いをすることでした。(中略)

子供たちの学校は青森市内からバスで20分、家から歩いて五分ぐらいの、とても近いところに位置していました。学校でも韓国人の児童が突然、転校して来たことで、言葉の問題による授業の進め方に校長先生以下、担任の先生たちも大変、苦心しているようでした。校長先生は韓国人の児童二人の授業に対して、他の学校の事例を探したり、電子辞書まで購入して授業に役に立つように気を配って下さいました。また担任の先生たちはクラスの子供たちに私の子供が大変な目に遭わないように配慮してあげること、困ることなどが起きると積極的に手伝ってあげることを頼んでいました。校舎は外から見ると、古い建物でしたが、その内にいる先生たちの献身的な姿に私は心を打たれました。(つづく)

[第二回 あおもり国際交流つうしん⑫ 2020No.139より]子供たちが学校に通い始めてから10日目の日に、私は五年生の担任の先生から提案され、五年生全員が集まった教室で、社会科の一環として韓国の文化について授業をすることになりました。私はもしかしたらと思って韓国から持って来た太極旗(テグッキ) 、韓服(ハンボク)、団 扇(プチェ)、金属製の食器などを見せながら韓国の衣食住について説明しました。特に韓国の五年生の教科書をまわした時、子供たちはたいへん興味深く喜んでいました。また、その日、私の心の中に大きな天国が入って来るような思いをしました。それは男と女の子の二人にハンボクを着せてやったその時でした。ハンボクを着ている子供二人の姿はなんと韓国人にそっくりでした。みんなの反応も非常に良くて騒いでいる子供たちを後ろにし、私は感動の涙をぬぐいました。子供のハンボクを通して敵意が和解に、戦争が平和に変わる瞬間でした。その子供たちの姿には支配と被支配、差別と被差別の暗い残酷な過去のことはどこにもありませんでした。凶弾の傷跡や刀と槍の傷跡も見られませんでした。ただ、子供たちは将来に自分たちが今見ているハンボクというものをきれいな韓国の民族衣装として記憶の中から思い出すでしょう。そして、韓国から来たおばさんに見せてもらった韓国のものをめずらしく見物できたという楽しい思い出だけを心に収めるでしょう。また、私が眠れないほど、感動を受けたことは、私の授業を聞いた120人の五年の子供たちからお礼の手紙をもらった時でした。ここで何人かの子供の手紙を紹介させていただきます。(うちの息子の名前はYです。)

・夏休みも冬休みも長いから、韓国に引っ越したくなりました。(O君)

・韓国の服を着せてもらいました。うれしかったです。(S君)

・Yさんと一緒にサッカーができてうれしいです。(K君)

・Yさんと友達になれたのでよかったです。(T君)

・もっと韓国について詳しく調べてみたいなあと思いました。(Iさん)

・Yさんとは友達になりたいです。(F君)

・韓国の文化や生活を知ることができたので、学習に活かしたいです。(M君)

・前から韓国のことは好きだったけど、もっと韓国のことが好きになりました。(Bさん)

子供たちみんなが心を込めて感謝の気持ちを表してくれました。私はこの子供たちにこれからの日本と韓国の「希望」を見ることができました。また、自分がどうして日本に導かれたのかはっきり分かりました。私は子供たちの気持ちに応え、一二〇人分の韓国料理(ほんの少しでしたが)を作って給食の時間に食べてもらいました。まさに平和の祝宴でした。平和こそ真の力であり、希望なのです!

今年、息子は大学一年生になります。息子は子供の時から歴史が好きで日本に来る時も三国志の分厚い本を持ってきてよく読んでいました。大学では東アジアの歴史を勉強して韓国と日本の歴史に迫ってみたいと思っています。娘は大学で比較文化を学んでいて中国語にも興味を持つようになりました。私は子供二人が日本の学校で使っていた学校用品や制服、特に来たばかりのノートをそのまま持っています(学校だよりさえ)。いや捨てられないのです。子供が苦闘していた時間、がんばっていた物を簡単に捨てることができませんでした。大人になっても行き詰まったり、戸惑ったりすることはあるでしょう。その時に子供と一緒にノートを見ながら「一つの屋根の下、二つの国でがんばっていたね!」ともう一度踏ん張ってもらいたいのです。子供を育てるのは親ではありませんでした。子供が自分自身を育てていました。苦しんでいたのは子供でした。その子供をあたたかい眼差しで成長させてくれた青森に私は希望を見ているのです。(以上)[第三回 あおもり国際交流つうしん③ 2021No.140より]

(日本基督教団 青森教会員)