随想

主にある友情に支えられて 牧野信次

佐伯邦男さんが旭川で召天されたことを伺い、心から哀悼の意を表します。佐伯さんに初めて逢ったのが、1980年頃であったが、私が町田市鶴川で開拓伝道を信仰の友人たちと共に始め、新会堂で礼拝を守り、鶴川北教会として若々しく地域伝道を推進してから10年を経たころであったと思います。日曜礼拝に佐伯さんは一人でおいでになり、後には澄子夫人と共に熱心に礼拝と共に壮年会や婦人会などにも参加されました。当時の町田市は、革新市政で人口が急激に増加し、地域社会の課題、特に教育や福祉の問題が山積し、取り組まなければならないことが次々と起こっていました。私は「戦争責任告白」を大切にし、それを自らの場で生きることを目指して、「信教の自由を守る日」「憲法記念日」そして「終戦(敗戦)記念日」の3つの集会を町田市の諸教会に呼びかけ共同で開催し、信仰の友人たちと共に「靖国問題を考える町田キリスト者の会」を結成し、市民活動を始めていました。佐伯さん夫妻がそのようなささやかな証しとしての活動を理解し、よく応援し参加して下さいました。私は今もそのことを感謝しています。

佐伯さんの生い立ち、入信、実社会でのお働きなどの個人史について私は殆ど何も知らないのですけれども、お逢いする度に個人的にいろいろと知ることができ、今も懐かしく想起することがあります。佐伯さんが九州の大分で生まれ、広島へ移ってほぼ6年住み、やがて1945年春に京都大学工学部へ入学されました。それ故、京都で終戦後に学生時代を過ごしたことなど、教会の壮年会の集いで話されました。

あの1945年8月6日に広島に原爆が落ちた時はどうされましたか、とお伺いしました。佐伯さんは『北白川五十年史』(1986年発行)に澄子さんと一緒に度々寄稿されています。そこに「主にある友情に支えられて」(627頁以下)とのかなり長い証しの文章があり、私が佐伯さんから生前聴いたお話がここに書かれているのだなあ、と改めて思います。

「1945年8月6日、広島に落ちた一発の原子爆弾は、多くの人々の運命を変えた。市内の中心部近くに住んでいた我が家は、原爆投下の5か月前に疎開していたので、直接の被害者ではなかったが、友人やその家族で命を失った者は多い。高校時代からの友人の一人は、8月5日に帰省して次の日の朝、両親兄弟と共に、5名が原爆を浴びた。直後はみんな元気だったが、2、3か月の間に彼一人を残して、両親も兄弟も帰らぬ人となり、悄然として京都に戻ってきた。その彼も、肉体的にも精神的にも参って、荒れた生活が続いていたが、肺結核に侵されて御室の療養所に入院し、翌年の夏には遂に家族の後を追うことになってしまった。」

佐伯さんの悲痛な経験に心を合わせざるをえません。しかし、アルバイトの依頼で澄子さんの案内で初めて北白川教会の奥田先生を訪ね、出会いそして入信する経緯(いきさつ)が実に生き生きと時にユーモラスに記述され、大学卒業前の共助会についても書かれています。私が佐伯さんに出会った頃、東洋ガラス(株)の技術部長から社長になられ、会社再建の労を担われました。佐伯さんの著書『三極発想法』について伺ったこともありました。

やがて町田市を離れて都内の世田谷に住まわれ、社会福祉法人「泉会」理事長の任(1997〜2001)をも実に忍耐強く立派に果たされました。佐伯さんは共助会を通して、大事な務めを神の命令と受け止めて、「ノー」と言えないことを教えられた、と仰っていたことを私は感慨深く思い起こします。

(日本基督教団 隠退牧師)