私は「見失った羊」 渡辺 春太朗
私は高校生の時、二年生の後半までなかなかクラスに馴染めず、いつも一人でいました。結果的に友達ができたけれど、高校生活の大半は他の人に比べとても言葉にできない孤独で虚しいもののように感じていました。
自分に居場所がないといつも感じていました。そんな時芸術作品などを通してキリスト教に興味を持つようになり、特別祈ったり聖書を読んでいたわけではないですが、キリストが一人ゲツセマネの丘で祈っていた時、荒れ野にいた時、何か当時の自分と重なるものを感じ、寂しくてもキリストがそばにおられるように感じました。私が修学旅行で初めて人と話せた時も、いつもそばにおられる方が背中を押してくれたようにも感じられました。大学浪人の期間中は3年間という長きにわたり、また人との関りが無くなりました。この時から母親に教会に行ってみたいと言うようになり、この当時の自分の心境として「どこかに居場所が欲しい」というものがあったのだと思われます。そして母親の以前の恩師である木村葉子先生が牧師になったという便りが届き、それがきっかけで実際に教会に足を運ぶ事が出来ました。今思い返しても、神様が私を見つけて導いてくれたようにも感じられます。ルカによる福音書15章1節からの、「見失った羊のたとえ」の箇所は、たとえ自分が一人ぼっちでこの世をさ迷っていたとしても神様が見つけ出してくれる、というとても大きな愛を感じ、強く勇気づけられました。
そのような思いから、2019年6月のペンテコステ礼拝の時に受洗するに至りました。初めて体験する洗礼はとても神聖なもので、多くの人に見守られながら自らの生まれ変わりを実感できてとても良い時でした。家族並びに教会関係者の皆様に深く感謝します。
その経験から、私の作品制作において羊をモチーフとする事が多くなりました。自分自身を羊に例えているという思いから、私の通う芸術大学での学内展示でも何度か羊の登場する風景を創作しました。しかし頭の中ではずっと「見失った羊のたとえ」を直接的に表すような絵が描きたい、もしくはそのイメージが浮かんでいました。そして2020年春に、ひばりが丘北教会で教会関係者の方々からのご協力のもと、個展を開催することが叶い、そのチラシとして見失った羊を抱くキリストの絵を描きました。その絵では特にキリストの優しさを表現することに重点を置き、羊を包み込む手や表情などで時間を費やしました。今回は新型コロナウイルス感染拡大という非常時の中でしたが、地域の方々の訪問や沢山の好意的な意見を頂き、とても感謝でした。それも開催期間中、毎朝小寺 徹牧師先生とお祈りした事、そして神様からのお支え、霊的な恵みがもたらされたおかげであると確信しています。(ウェスレアン・ホーリネス教団 ひばりが丘北教会員 東京芸大油絵科2年生)