「コロサイの信徒への手紙」を読む(一)希望と愛 下村 喜八
コロサイの信徒への手紙第1章3―6節
はじめに
編集長の石川光顕氏から雑誌『共助』に「聖書研究」の記事を依頼されたとき、すぐにはお返事できなかった。私のような門外漢に、十分な調査と学問的な議論はできないと思ったからである。しかし学問的な研究ではないことを最初にお断りした上で、聖書を読んで考えてきたことを書かせていただこうと思いなおしてお引き受けすることにした。80歳近くになった今、ようやくキリスト教が分かってきたような感を覚えている。その「分かってきた感」と聖書のテキストとをすり合わせながら、もう一度聖書を読みなおしてみたいと思う。したがって「聖書研究」というよりは、拙い聖書解釈に貧しい信仰告白が加味されたものとしてお読みいただけたら幸いである。
1.「コロサイの信徒への手紙」について
「コロサイの信徒への手紙」(以降、「コロサイ書」と略記)には印象深い言葉、含蓄のある言葉、立ち止まって考え込ませる言葉がたくさん出てくる。たとえば、「愛はすべてを完成させるきずなです」(三14)、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(三23)、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」(四5―6)等の言葉は印象深く心に刻まれている。また「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(三5)という言葉は、聖書全体のなかで、この箇所にしか出てこないが、とても含蓄のある言葉であるように思える。そして考えあぐねる言葉の最たるものは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(一24)であろう。十字架に極まるキリストの苦しみは、救いをもたらすのに十分ではなかったのであろうか。いや、そうではないはずである。
名前の通り、この手紙はコロサイという町の信徒たちに宛てたものである。コロサイは現在のトルコ西部の小さな町である。リュコス川流域にあり、牧畜と染色が盛んなところであった。紀元60年ごろに起きた地震で壊滅的な被害を受け、再興の動きもあったが頓挫し、消滅している。この町に福音を伝えたのはパウロではなく、パウロの弟子の一人であるエパフラスである(一7―8、四13― 14 )。おそらくパウロのエフェソ滞在中のことであったであろう(紀元53―54年頃)と思われる。コロサイの信徒たちはパウロに直接会ったことはなく、パウロは、エパフからコロサイの信徒について報告を聞いて知っていただけのようである(一4―8)。
またこの手紙の執筆者については三つの説がある。パウロ自身が書いたとするもの、パウロの生前に代理人が執筆したとするもの、パウロの死後書かれたとするものである。
近年はパウロの死後に書かれたとの説が一般的である。パウロの死後、教会に新しくさまざまな問題が起こってきた。そこで、パウロの権威を借りて、パウロの弟子たちによってこのような書簡が書かれたと考えられている。もちろんパウロの真正な手紙と共通する点も数多く認められるが、パウロ的でない性格も認められる。その一つとして、コロサイ書にはパウロに特徴的な神学概念が欠けていることが指摘されている。たとえば「義」「信仰によって義とされる」「自由」「信じる」「律法」といった重要な概念である。二つ目は、文章表現の違いである。周知のように、パウロの文章はきわめて論理的である。それに対しコロサイ書は、言葉と言葉がイメージ連想によってつなげられているところや、独特の比喩を用いて表現されているところがかなり多い。また、すでに存在していた複数の文書をつなぎ合わせたのではないかと思われる節(ふし)がある。したがって論が時に飛躍するため謎めいていて、意味が捉えにくい箇所がある。二つの文書を合成したと推測できる箇所を二つあげておく。第一章の15節から20節はキリスト論であるが、14節のあと、この部分を飛び越えて21節につなげると文脈は自然な繋がりを見せる。もう一箇所は、第3章の5節から8節である。5節では、私たちが捨て去るべき地上的なものとして、「みだらな行い、不潔なおこない、情欲、および貪欲」をあげているが、8節では、文脈上は明らかにそれらを受け、同じものとして例示しているものは「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」である。両者は通底するところはあるとはいえ、イコールで結ぶのは少し無理があると言える。おそらく異なる二つの文書をつなぎ合わせたのであろうと推測できる。以上の点を勘案すると、パウロの導きを受け、その信仰を真実に深く受け継いでいる人物が書いたものと思われる。
『岩波キリスト教辞典』によれば、近年の研究を踏まえてほぼ次のように書かれている。新約聖書の13の書簡にパウロの名前が冠せられているが、歴史的・批判的研究によれば、パウロの直筆と見なされているのは、そのうちの7書簡、すなわち、「ローマの信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙Ⅰ・Ⅱ」「ガラテヤの信徒への手紙」「フィリピの信徒への手紙」「テサロニケの信徒への手紙Ⅰ」「フィレモンへの手紙」のみである。最後のフィレモン宛てのものを除き、残りの6つはすべてパウロ自らが設立した教会宛ての書簡であり、それぞれ具体的な状況を背景にもちつつ実際に書かれた手紙である。エフェソ、コロサイ、Ⅱテサロニケはパウロの近い弟子たちが書いたものと思われ普通「第2パウロ書簡」と呼ばれる。
また「第2パウロ書簡」のなかで、「エフェソの信徒への手紙」と「コロサイの信徒への手紙」には密接な関係がある。前者は後者を踏まえて、その内容を敷衍する形で書かれている。『新共同訳 新約聖書略解』によれば、1570語からなっているコロサイ書のうち、その34パーセントの語がエフェソ書で使用されているとのことである。丁寧に読み比べれば、両方の手紙は、単に使用されている語句だけではなく、文体も、全体的構成も、主題の配列順序もよく似ていることが確認できる。「エフェソ書の筆者は、たえず意識的に、コロサイ書を参考にしているように見える」(ハンス・コンツェルマン)。
2.信仰、希望、愛
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」(一3―5)。
ここに「信仰」「希望」「愛」の三つが出てくる。この三つはキリスト者の生活の中核と言える。この三つによって私たちは日々生きていて、「キリスト教的実存の三和音」、また「恩恵の三和音」と言われる。三者は別のものであるが、からみあい、重なりあって、一体となっている。
先ず初めに神の愛があった。御子を遣わして、十字架につけ、私たちの罪を償ってくださった。この愛を信じ受け取ること、これが信仰であるが、この信仰がいわば通路となって、私たちにも隣人を愛することが可能になる。神の愛があり、信仰があり、人間の愛が生まれる。
そして信仰は希望を与えられることでもある。私たちは十字架の贖いによって義とされる。それを「コロサイ書」は義という言葉を使わずに、次のように表現する。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました」(一21―22)。そして私たちは「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(聖書協会共同訳、三12)と呼ばれている。しかし、よく言われるように、私たちは「すでに」と「いまだ」の中間にいる。すでに義と見なされているが、いまだ義の実質を備えているわけではない。日々、罪と破れに苦しんでいる。今は、キリストの姿を「鏡に映して見るようにおぼろげに」(Ⅰコリ一三12)、見ることしかできない。しかし時が満ちて、キリストが再び来られるときには、キリストと顔と顔を合わせて見ることができ、「はっきり知られているようにはっきり知ることになり」(Ⅰコリ一三12)、私たちはキリストと同じ姿に変えられる。これは私たちの究極の希望である。「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(三4)。しかし神の愛は個人に限定されたものではなく、世界的、普遍的、宇宙的な広がりをもっている。被造物も共にうめき、共に産みの苦しみを味わい、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる(ロマ8章)。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(一19―20)。私たちは、神の愛が支配する国を待ち望みなら生き
ている。
これが、「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」(一26)である。この秘められた計画のことを、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望である」(一27)と語られている。まったき愛と信頼の一つなる交わりが到来する。
そこにはすべての被造物を包含しての平和があり、喜びがあり、感謝があり、まったき生命がある。罪との闘いも終わる。これが「天に蓄えられている希望」(一5)である。
3.希望に基づく愛
「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」(一5)。
「それは」は前の文章の「愛」を指している。したがって、筆者はここで「愛は……天に蓄えられている希望に基づく」ものであると言う。これはどういう意味であろうか。
私たちは愛の貧しさ、その不可能を日々感じざるをえない。そして、私は愛が足りないのは、その源である信仰が足りないからであると思ってきた。しかし、もしかして愛が足りないのは「希望」が足りないから、あるいは不確かであるからではないかと、この個所は示唆している。
キリストにお会いすること、そしてキリストと同じ姿に変えられることを心底願うならば、今、ここで、キリストの姿に少しでも近づこうと願わないであろうか。原始教会の使徒たちが、さまざまな困難と苦難のなかで、あのような働きができたのは、確かな希望があったからである。もうすぐキリストに会える、神の国が到来するという希望である。「すべての人間は将来によって、将来から生きている」(ルドルフ・ブルトマン)という言葉のとおり、現在の生は、将来に規定され、私たちは将来によって動かされているというのは真実である。
4.心の準備
私の行っている御所教会で、一昨年の夏、鈴木善姫牧師が招かれて説教をされた。先生は数年前、生命の危険をともなう病を患われたそうである。それは思いもよらないことであった。手術を受ける前、次のようにお祈りになられたという。「いつお召しになっても結構ですという気持はありますが、イエス様にお会いする心の準備ができていませんので、御心ならもう少し待ってください」と。この話は非常に印象深く心に残った。同じことがこの身に起これば、私も同じ祈りをするしかないと思う。しかしまた、いつになったら準備が整うのであろうかと自問した。いつまでたっても「もういいです」と言えないのではないかと思う。まず何より、このような者が天国に迎え入れていただけるかどうかが先行する難問であるが、それが許されたとしても、イエス・キリストにお会いする時、私は顔をあげることができないであろう。
そうであれば、今からお会いする準備を始めないといけない。準備は完了しないであろうけれども、今、始めないといけない。そう思う。そして「天に蓄えられている希望に基づく愛」はイエスにお会いする心の準備をすることと深く関わっているのではないかと思われる。それがもしかして、神の愛に生かされて生きることにつながってゆくのであろうか。「すべての点で主に喜ばれるように主にしたがって歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るようになる」(一10)。イエスに会う心の準備をするとは、ここでは、主に喜ばれるように主にしたがって歩むことと言い換えることができる。そうなると、生き方が変わるのではないかと思う。出会う一人ひとりに真実をもって出会いたいと思う。人と接するときに、この人のためにイエス・キリストは十字架につかれたことを忘れずに接したいと思う。この人もキリストの姿を宿していることを忘れてはならない。
5.稔りの喜び
私は田舎に住んでいることもあって、果樹や野菜を作っている。果樹では栗、柿、柑橘類を家庭用に育てている。最初は、土地があるから植えておこうという感じで、あまり熱心ではなかったが、それでも不思議なことに、ちゃんと実をつけてくれた。しかもスーパーで買ったものより美味しいものが。「大地って偉大だな!」と感動を覚えた。それ以降、次第に熱心になっていった。作業は結構大変である。しかし稔りが楽しみで、知らず知らずのうちに手をかけることになる。収穫の楽しみは力となる。育てることによって育てられる感である。その点、育児や教育や看護に似ているのではないかと思う。命のキャッチボールである。食べきれない程たくさんできるので、親しい人に食してもらう。私の住むところでは「食べ助け」と呼びならわされている。食べるのを助けてくださいという意味である。差しあげた人に、美味しかったと喜んでいただけると、稔りの喜びは倍になる。「天にたくわえられている希望」というのもそのような稔りに似たところがあるように思われる。将来のことであるが、今、生きて働く力ではないかと。そこから思いやりや、忍耐や、愛が知らず知らずのうちに、自分ではそれと分からず生み出されてくる。そして愛の交わりのなかで「喜びは倍になり、苦しみは半分になる」(ドイツのことわざ)。
現代の社会では、希望は小さく、小さくなっている。それに比べて、不安は大きく広がっている。現代人は得体の知れない不安をかかえて生きている。そのような状況のなかで、私たちキリスト者には希望が与えられていることをまず深く感謝したいと思う。そして主にある希望を固く信じて生きたいと願う。そうなれば希望が愛を生み出し、愛がキリストを証しする稔りにつながってゆくに違いない。(「北白川通信第45号」に記載の拙文「『コロサイの信徒への手紙』に聴く」と重複する部分がある)。
(日本基督教団 御所教会会員)