「出会い」の向こうに透かして見える神の導き 角田秀明
【主題講演】ヨハネによる福音書14章1~14節
私はこの3月に44年間奉職したキリスト教学校の聖学院中学校高等学校を卒業(定年退職)いたしました。1975年に英語科専任教員としてスタートし、学年主任(12年)、高等部長(教頭16年)、副校長(3年)、校長(4年)として仕えさせていただきました。神様のお支えと導きのおかげでこれまで歩んでくることができました。
私は、1950年8月22日に千葉県南房総市の農家の次男として生まれました。高校時代は学校の成績は良い方でしたが、日常の家族の不和に悩み、自己肯定感は低く、生きる意味を見つけられずにいました。家も決して裕福ではなかったので、就職か大学(授業料の安い国立大学)の二者択一の選択をせざるを得ませんでした。結果として国立の埼玉大学の中学校教育学部英語科に合格をいただきました。入学当初の1969~1970は学生運動の激しい時期で、ロックアウトで授業も行われず、「生きる意味」や「なぜ学ぶのか」などの根源的な問いと向き合うことになりました。
キリスト教との出会い
この学生の時代に、神は私のその後の生き方に大きな影響を与える出会いを用意していてくださいました。まず、一人のクリスチャンと大学の寮で同部屋になりました。その方は桑原清四郎さんという方で、後に共助会員になられ、私の共助会入会の推薦人の一人になってくださいました。彼は昼間働き、夜は定時制高校で学び埼玉大学に入学してきた方で同学年ながら私より4歳も年上でした。それまでキリスト教については全くの無知で無関心でしたが、この桑原さんのクリスチャンとしての生き方や考え方に強く惹かれ、彼の主催する埼玉大学「聖書研究会」に参加するようになり、そこで後に共助会員となった神戸信行さんや妻と出会うことになりました。当時、「聖書研究会」が主催して初めての学内伝道集会を行いました。その第一回目の講師を荒川聖泉キリスト教会の山本岩次郎牧師にお願いしました。この伝道集会をきっかけに荒川教会に通うようになり、大学3年の1971年5月23日にバプテスマを受けることになりました。教会員になってから毎日曜日の夕方に伝道集会をもち、頻繁に荒川区の常磐線三河島駅の前でブラスバンドの演奏をして路傍伝道をしました。
「聖書研究会」では、聖書の通読の他に、無教会の内村鑑三、藤井武、矢内原忠雄、ヒルティの幸福論、ペスタロッチなどの本をひたすら読んでいました。
大学を卒業してから、「聖書研究会」の仲間で1975年に「教育を考える会」という有志の勉強会を始めました。教育現場で働く教員を中心とした学びの会でした。私が共助会に入会させていただいたのが1987年ですが、その前から清水二郎先生が桑原さんを通して「教育を考える会」の働きについて深い理解と賛同を示してくださり、「教育を考える会」の顧問の役割を担ってくださいました。毎年夏、浦和で行われた研修会に参加してくださり、「脳科学と人格形成」と題する講演をしてくださったり、参加者からの質問や悩みに対して親身になってアドバイスをしていただきました。先生は1995年1月8日、主のもとに召されましたが、その2年前まで毎年研修会に出席してくださり、教育現場で奮闘している若い教師や教育関係者と共に課題や悩みと向き合ってくださいました。この「教育を考える会」のメンバーには共助会の会員でもある桑原さん、神戸さん、丸山雅子さん、私の妻がいました。
キリスト教学校・聖学院との出会い
私は大学を卒業し、Only One for Others を教育理念とするミッションスクールの聖学院中学校高等学校に導かれました。聖学院中学校高等学校は1906年(明治39年)に創設された男子校です。学校法人聖学院は幼稚園から大学院までございますが、中高の教育理念は英語4語で表すとOnly One for Othersです。「他者のために生きるかけがえのない存在」。「あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』」(イザヤ書43章4節)
この聖書のことばから、「神が愛のうちに一人一人を作り、大切な命を与えてくださり、例外なくすべての人を大切に思っていてくださる」というメッセージを受けることができます。「Only One 教育」という表現を生み出したのが、1980年から2000年まで聖学院中高の第8代校長であられた林田秀彦先生でした。
「人と比べて優れているから価値があるとかないとかという見方ではなく、生徒一人ひとりが神から愛されているかけがえのない存在であり、それぞれが与えられている固有の賜物を磨いて輝かせるサポートをすること、さらにその賜物を用いることによって他者のために貢献することを喜ぶ人間になることを目指しています。」
2016年12月31日に正式に解散した人気アイドルグループSMAPが2003年に「世界で一つだけの花」という歌を発表し、当時記録的といわれた200万枚のCDを売り上げました。聖学院中高のOnly One 教育が語られるようになってから10年後くらいのことでした。次のような歌詞です。
花屋の店先に並んだいろいろな花を見ていた、
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね。
人間は、一人ひとり違うのにその中で一番になりたがる。
一人ひとり違う種をもつ その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい。
No.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly One
中学、高校時代は、励まされるより否定されることの多かった家庭環境で育ち、自己肯定感が低く、他者から認めてもらうには、他と比較して「できる」「優れている」ものをもっていなくてはならない、と心の底では思っていました。頑張って、何かを達成することによって、周りから、他者から認められることを求めていました。
子育てのヒントになる「子どもが育つ魔法の言葉」というのがあります。
1.恐れのある家庭に育った子供は、びくびくするようになります。
2.励まされて育った子供は、自信を持つようになります。
3.心から受け入れられて育った子供は愛するようになります。
4.認められて育った子供は、自分を好きになります。
5.安心できる家庭で育った子は、自らを信じ、人をも信じられるようになります。
私の場合を考えてみると、この5つの言葉と真逆の家庭環境に育ったと言えます。しかし、今は、イエス様が私の代わりに十字架上において死んでくださるほどに私を愛してくださり、更に、3日目に復活して死に打ち勝ってくださったことを信ずる者とさせていただいています。自分の過去に死んで、新たに生きられるように変えられていることを感謝せずにはいられません。
聖学院中高では、ただ知識の量を増やすことだけを目指すのではなく、共に生きることを学ぶプログラムを用意しており、それらを体験することによって大きな自己変革を成し遂げる生徒がたくさん起こされていることは本当に嬉しいことです。そのプログラムの中の1つを紹介します。
高2沖縄平和学習
高校2年で行われる沖縄平和学習は、1991年から始まり、30年間続いています。
沖縄県平和祈念資料館に行くと次のようなメッセージが書かれています。
「沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものは これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです このなまなましい体験の前では いかなる人でも 戦争を肯定し美化することは できないはずです 戦争を起こすのは たしかに 人間です しかし それ以上に 戦争を許さない努力のできるのも 私たち 人間 ではないでしょうか 戦後このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み 平和な島を建設せねば と思い続けてきました これが あまりにも大きすぎた代償を払って得た ゆずることのできない 私たちの信条なのです」
沖縄平和学習プログラムで必ずお聴きしていたのが、「ひめゆり学徒隊」の生き証人であられる宮良ルリさんの証言です。「ひめゆり学徒隊」は、沖縄女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で編成された女子学徒隊です。沖縄陸軍病院に看護要員として動員され、240名のうち、136名が死亡しています。ちなみに、「ひめゆり」は花の名前ではなく、それぞれの学校広報誌の名前が「乙姫」、「白百合」であったことから「ひめゆり」となったのだそうです。20年前は70代半ばであった宮良さんは、毎年の私たちの訪沖を心待ちにしておられました。戦後長い間、戦争の生き残りとして周囲の冷たい目に身をさらしながら固く口を閉ざしていた宮良さんは、遂に口を開き、自らの戦争体験を語るようになりました。毎年百数十回の講演を引き受け、声が出る限り「命どぅ宝」(命こそ宝)というメッセージを伝え続けていました。軍国主義教育に人生をもてあそばれ、「もっと違う時代に生きたかった」と最期の言葉を残して死んでいった多くの友を彼女は忘れることはできないのです。教育が独立性を奪われ、時の権力に利用され、その結果どれほどの尊い血と涙が流されたか、二度と戦争はしてはならないと10年以上にわたって毎年高2の生徒に語ってくださいました。これからの日本を担う高校生に、心の底から、あたかも懇願するかのように問いかけていました。「この命のバトンをお渡しします。受け取ってくれますか?」
人の歩みは古さと新しさの繰り返しであり、時を重ねるに従って、初心や苦い教訓もだんだんと色褪せたり変質してきます。戦後、日本は二度と戦争をしないと堅く誓い、日本国憲法9条にはっきりとその決意を表明したはずです。
イエス・キリストの使徒たちは時の権力者らの尋問と脅しに対して、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4章20節)と黙することを拒否しました。偽装や粉飾で汚染されている現代社会において、時がよくとも悪くとも、真実を語り継ぐ証人とさせていただきたいと願っています。
「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
勤めて4年経過したとき、2年間(1979年~81年)休職し、米国首都ワシントンにあるジョージタウン大学に留学しました。当時、通っていた荒川聖泉キリスト教会の教会員にジョージタウンの博士課程に留学している方がいて、その方から刺激を受けたこともあり、これからも英語を教えていくなら若いうちに一度は英語が使われている環境で生活しておいた方が良いと考え、妻も賛成してくれて留学をする決心をしました。最初の一年間は単身でしたが、二年目は家族と共に過ごし、二年間で言語学の修士課程を取得して帰ってきました。
私の関わった主な具体的な取り組み
(1)中高一貫教育
帰国した当時、聖学院中学は一クラスしかない状態が1965年~1981年まで続いていましたが、6ヶ年一貫教育を名実ともに実施するため、中学のクラス数を二つに増やす選択をいたしました。そして、もう一人の同僚と私が中学2クラス体制の最初の担任を担い、私が学年主任も兼ねることになりました。真の一貫性を実現するため、担任の持ち上がりによる「生活指導の一貫性」および教科担当者の持ち上がりによる「教科指導の一貫性」を追求していきました。中学1年2クラスから始まり、4年毎に中学のクラス数を増やしながら、中学高校6学年の実質5クラス一貫制度が2006年に完成するまで24年が経過しました。その体制が今でも継続されています。
(2)校舎・講堂改築
本館・講堂棟の建設に3名からなる建設委員として関わらせていただきました。創立90周年記念事業として、老朽化が目立っていた旧校舎(1937年竣工)を改築し、21世紀の教育に対応できる教育施設を備えた校舎・講堂の建設を目指すこととなりました。そのために学内の建設委員会が1990年に組織されました。建設計画を進めるに当たり、学内の要望意見を集約し、資料収集のための学校見学、さらに建築事務所の一粒社ヴォーリズとの1000時間を超える設計プランの検討などと、時間とエネルギーを注いできました。計画から10年の歳月をかけて、遂に祈りと熱い支援の結晶として、「光と水と風のシンフォニー」をコンセプトとする新校舎・講堂棟が1999年11月完成し、2000年1月に竣工感謝式を行うことができました。総工費35億円の建設事業が完成しました。この新校舎・講堂棟は、完成から20年以上経過していますが、学校見学に来られる受験生や保護者の方々から綺麗な校舎ですねと良い評価をいただいています。
(3)「選抜クラス」設置
1994(平成6) 年度から新教育課程がスタートするのに合わせて、高校一年に特進クラスを一クラス設置することを決定しました。そして、そのクラスの初代担任に私が任命されまし
た。聖学院の将来がかかっているといっても過言ではない、この新しい「アドバンスト・クラス」は、関係者の大きな期待を受けてスタートし、生徒は学院の自由な雰囲気の中で、互いに切磋琢磨することによって刺激しあい成長していきました。そして、1997年3月の大学合格実績は、40名の生徒全員がパイオニアとしての働きを十分にやり遂げてくれたことを証明しました。生徒が合格したのは、国立大学では、東京大学をはじめ、東京学芸大、名古屋大学、千葉大学、私立大学では、慶応、早稲田、上智、国際基督教、GMARCH 等、24大学29学部という結果でした。彼らを卒業させたときには3年間の重い重圧から解放された喜びが沸き上がってきたものです。このシステムは現在も継続しています。
(4)高等部長(教頭)兼教務主任、学校長時代(1998 ~ 2020)
「選抜クラス」を卒業させて二年後の1998年度から高等部長(教頭)に選出され、その後16年間その任に当たってきました。21世紀に入り、少子化が急激に進み、生徒・受験生の減少期を迎えました。本校では本校の教育内容見直し、聖学院教育の再構築を目指して「学校づくり委員会」を設置し、以下の本校の教育三本柱を推進していくことを確認しました。1.「学習指導(受験指導を含む)」2.「キリスト教に基づく人間教育」3.「生活指導」。そして、「クラブ活動」「体験学習」を3本の柱をつなぐ梁の役割として位置づけました。
私は3本柱の中でも「キリスト教に基づく人間教育」を大切にしてきました。キリスト教学校のメリットは、自由に聖書の言葉を伝えることができるという点にあると思います。15分の短い礼拝ですが、毎朝、聖書を通して大いなる存在の神を仰ぎ見、人間の生きる意味を思いめぐらせ、ある時は励まされ、ある時は悔い改める貴重なひと時が与えられます。チャプレン、校長、副校長、クリスチャン教員、外部教会牧師が代わるがわる一年間休むことなくメッセージを語り続けます。生徒には住んでいる場所から通える最寄りの教会を紹介し、礼拝に出席して週報をもらってきて、礼拝の感想をレポートするなどの課題が与えられます。このレポートを切っ掛けに教会に通うようになり、バプテスマ(洗礼)にまで導かれる生徒やその保護者も毎年起こされています。ちなみに、私の所属教会である日本バプテスト浦和キリスト教会の教会学校に来ていた聖学院高校の生徒がバプテスマを受けることになったとき、息子の通っている教会を観察するために礼拝に来ていた母親が、イエス様を受け入れ、息子と一緒にバプテスマを受けるように導かれたこともありました。
幸せな生き方
先ほど読んでいただいた聖書の中に、次の言葉がありました。
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14章6節)
私たちは幸せに至る道を求めますが、イエス様は私が道であると言われる。イエス様ご自身が道であるならば、その道に立てばよい。イエス様に留まればよいことになります。イエス様に繋がっていればよい。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実をむすぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15章5節)
幸せになるためには人から認められなければならないと無意識的に私たちは考えています。「あなたは何ができますか?」という問いに対してできるものが多ければ多いほど、優れた人間としての評価がついていきます。ある意味で分かりやすい考え方ですが、人間の価値を「できるか・できないか」だけで区別し、差別化してしまうことになります。
この考え方に対して、聖学院中高の教育理念Only One forOthers は、その人の存在そのものを認める価値観に基づいています。この価値観に関しては、私の尊敬するミッション・エイド・クリスチャン・フェローシップ(MACF)牧師であり介護家族のためのファミリーケアカウンセラーをされている関根一夫牧師の体験談をお伝えしたいと思います。この方は、45年以上前にオーストラリアの神学校に日本人として初めて留学し、入学の時には学長はじめ学生代表が名前を呼んで歓迎してくれたそうです。しかし、オリエンテーションにおけるIQテストでは、英語の問題の意味が分からず、結局その学校で始めてIQゼロという学生になってしまったのです。彼は自分を責め、日本の英語教育を責め、留学してきたことを後悔しました。間もなく、学長室に呼び出されました。軽蔑、侮辱、どなり声、退学処分、強制国外退去などを連想していたそうです。しかし、学長はおだやかな、ニコニコした顔をして椅子に座るよう指示し、次のように語ってくれたのです。「あなたがテストの結果で悩んでいるという話を聞いた。しかし、テストは誰かと比較するためにあるのではなく、自分がどの程度のところにいるのかを確認できればそれで良いのだ。もし、点数が悪かったら、それはあなたの準備が不十分だったということだ。その分野について自分のペースでしっかり準備をしていけばよい。きっとできるようになる日は来るのだ。私たちは、あなたが遠い日本からここにやってきて、一緒に勉強できることを本当に素晴らしいことだと思っている。あなたが一緒にいてくれるということで満足しているのだ。心配しないで、自分のできることをやりなさい。心配はいりません。」
できる人には愛される資格があり、できない人間には愛される資格がないというのが彼のそれまでの体験的な人間論だったのです。しかし、こんなに大きく駄目な部分がある自分を、大好きだと言ってくれる人がいるという発見は彼に心の踊るような解放をもたらしてくれたのです。彼は気づかされたのです。神は無条件に私たちを愛してくださっており、その神の愛は十字架にはっきりと表されていることを。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15章16~17節)
自分のこれまでの人生は、振り返ってみるとき、聖書のみ言葉と共に生きた人生であり、自分がこの道を選んだのではなく、神が私を選んでくださり、キリストの恵みにより幸せの道に立たせていただいたのだと思っています。
さだまさしさんの曲に「いのちの理由」という曲があります。一部を紹介します。そっと心に問いかけてみてください。
私が生まれてきた訳は 父と母に出会うため
私が生まれてきた訳は 兄弟たちに出会うため
私が生まれてきた訳は 友達みんなに出会うため
……
私が生まれてきた訳は 何処かの誰かに救われて
私が生まれてきた訳は 何処かの誰かを救うため
しあわせになるために 誰もが生きているんだよ
悲しみの海の向こうから 喜びが満ちてくるように
自分がこの場所にいる意味や、自分がどんな風にあるべきかを、こんなにわかりやすく、こんなに素直に納得させてくれて、心が落ち着くような、勇気をもらうような、知らず知らず涙が出てくるような、そんな歌です。
震災があったり、新型コロナパンデミックなど、様々な事が起きたりしますが、私たちが生きていることには、それなりの理由や使命がある。誰一人として不必要な人はいない。家族や友人たちに出会いながら、生きていることの意味も考えながら一度しかない人生を生きていこうという、心に染みる曲です。この歌詞を読むと、私たち一人一人が神から愛された貴い存在として生まれてきていること、そして、実は、その神から預かって委ねられている自分の命と人生を誰かのために使うために生かされていることを知らされます。改めてOnly One for Othersの理念が思い出されます。実に、神は私たちを愛の内に創造してくださり、様々な「出会い」を通して導いてくださり、変わらぬ神の愛を信じて生きる者に変えてくださったことに気づき、深く感謝しています。[JASRAC 許諾番号2107618-101](前聖学院中高校長、日本バステスト連盟 浦和バプテスト教会員)