私たちの現在地 ― 歴史・世界・平和 高橋哲哉
目次
- Ⅰ 戦後日本
- Ⅱ 私は何を問題にしてきたか
- Ⅲ 「責任」について
- Ⅳ 戦後ドイツ
- Ⅴ 植民地責任
- Ⅵ 未来に向けて
- おわりに《3つの文章》
2004年に一度、共助会にお招きいただき、話を聞いていただいたことがありました。あれから20年近く経っていまして、まさか再度お招きにあずかるとは思っていませんでした。私の拙い話に耳を傾けていただけることに、心から感謝いたします。
飯島さんからは、途轍もなくたくさんの問題 ― まさに先ほど片柳さんが仰っていた現代の「暗がり」にあたるような問題が私たちの前にある、それに対してどう向き合うのかという問いを提起されました。限られた時間でとても全てにあたることはできませんので、まず、(Ⅰ)《戦後日本の歩み》を振り返るなかで、(Ⅱ)《私が何を問題にしてきたか》について自己紹介も兼ねてお話しし、次に、(Ⅲ)私の基本的な考え方として《「責任」について》の議論に触れていこうと思います。その後、(Ⅳ、Ⅴ)《戦争と植民地支配に関して現在世界がどのような段階に来ているか》について少し情報を共有し、最後、(Ⅵ)《未来に向けて》ということで、私たちに突きつけられている問題をどう考えていけばいいのか、私の考えをお話しして、明日の午後からの懇談に進んでいければと思った次第です。
Ⅰ 戦後日本
1945年の敗戦が日本の歴史においてどれほど大きな経験であったか、これは言うまでもありません。敗戦によって大日本帝国と自称していた国は崩壊、翌年11月に新しい憲法が公布され、47年の5月3日に施行される。この間の占領下にGHQとのやり取りで何があったのかは、現在相当程度の解明が進んでいて、新憲法の複雑な成立過程も分かってきています。
憲法は施行されたのですが、まだ占領下にあるなかで朝鮮戦争(1950―53)という大きな出来事が起きます。日本を占領していた米軍が朝鮮半島に行くなか、日本国内の治安を守るという理屈でいわゆる警察予備隊が発足し、それが保安隊、自衛隊になって現在に至る。実は、戦後日本で日本人が戦争に関わった一つの例がこの朝鮮戦争でして、機雷の除去など掃海活動に参加、死者も出ていたことが最近になって共有されるようになりました。そして何といっても、米軍の兵站(へいたん)を担った日本が特需という形で、旧植民地である朝鮮の犠牲の上に戦後の経済成長のきっかけを掴んだ。そういう騒然たる状況のなかで、いわゆる片面講和、アメリカを中心とした自由主義圏のなかでサンフランシスコ講和条約が結ばれ(1952)、この条約の第三条で沖縄の施政権が米国に移り、72年の「返還」まで沖縄は米軍の直接支配下に置かれた。また講和条約と同時に、(旧)日米安保条約と日米行政協定が成立します。この(旧)安保条約を読みますと、〈日本は丸裸になってしまったが、しかし世界には「無責任な軍国主義」がなお跋扈(ばっこ)しているので、日本はアメリカに頭を下げて米軍に駐留してもらう〉と、そういうニュアンスの条文になっています。「無責任な軍国主義」というのはかつて連合国が日本について言った言葉ですが、この時点では既に社会主義圏を指す言葉になっていたんですね。これが日米安保体制の出発点です。
1956年には、「もはや戦後ではない」という言葉が有名になりました。この年に、日中戦争前の規模まで経済が復興したという意味でこの文言が出たと言われているのですが、実はこの言葉は中野好夫という当時の英文学者がこれに少し先立って使っていた。敗戦後、日本は占領軍によって民主化されたが、これからはもう日本自身が様々な難問に取り組んでいかなければならない、そういう厳しい時代になるという意味で「もはや戦後ではない」と中野好夫は言ったのですが、全く同じ文言が別の意味で使われ、まさにこの辺りから高度経済成長に入っていきます。ちなみに私が生まれたのはこの年でして、「もはや戦後ではない」と言われた年に生まれながら、後になって「戦後責任論」を論じることになったんですね(笑)。
1960年、いわゆる60年安保闘争というものがありまして、旧安保条約を改訂して延長するかどうか問われたのですが、安保反対勢力が敗北し、安倍元首相の祖父である岸首相(当時)のもとで現在の安保条約と地位協定が成立しました。
この後、高度経済成長が続きます。1965年には、日韓基本条約と日韓請求権協定が結ばれ、韓国との国交が正常化されます。現在、韓国との「徴用工」問題について、日本政府はこの65年の請求権協定で最終的に解決したと言って取り合わないわけですが、当時そもそも、この条約と協定を結ぶ交渉のなかで日本は植民地支配の責任を全く認めなかった。この条約協定のどこを読んでも植民地支配という言葉はありませんし、まして謝罪や補償という言葉はないわけです。それが今まで問題として残っています。
そして1972年に「沖縄返還」。特にこの20年、いわゆる辺野古の新基地建設をめぐって沖縄では構造的差別だという認識が強まっていますが、この72年については、もはや沖縄「返還」でも日本「復帰」でもない、「琉球再併合」だという見方も出てきています。この沖縄をめぐる問題も非常に大きな問題で、「台湾有事」等々が言われている今、沖縄では不安が募っている状況だと思います。
もう一つ、72年が画期的な年だったのは日中共同声明が出されたということですね。当時、中華人民共和国の台頭を受けて、国連は中華人民共和国が中国唯一の合法的な政府であると認め、中華民国(台湾)は国連から追放された。それと並行してアメリカが中国、北京政府と国交を結ぼうとするのに追随する形で、日本も中華人民共和国と国交を結ぶ際に出されたのが、この日中共同声明です。現在、台湾有事をめぐる議論のなかでこの基本的な文書がほとんど顧みられないところに大きな問題があると私は思っていますが、非常に重要な声明がここで出たわけですね。
さて、その後89年から91年、1990年前後が、戦後史のなかでは最大の転換点になりました。89年にゴルバチョフとレーガンの間で東西冷戦終結が宣言され、日本では昭和天皇が亡くなる。天皇裕仁ひろひとという人は、戦前戦中は大元帥であり現人神あらひとがみとも言われた人で、やはりその後の天皇とは違う。元号に縛られるわけではありませんが、その意味では、「昭和」が終わったということには象徴的な意味があったと言えます。それからソ連が崩壊し、社会主義圏そのものが崩壊していく。言うまでもなく、現在のウクライナをめぐる状況もこの辺に淵源しています。湾岸戦争(1991)も大きな出来事でした。イラクがクウェートに侵攻したということで、まさに国際法違反の侵略だったわけですが、このときは、安全保障理事会常任理事国すべてがイラク軍に対する武力攻撃に同意し、拒否権が行使されなかったという例外的な事案でした。
こうして90年前後に、戦後を支配した東西冷戦構造が崩壊し、新しい時代に入ったことは、誰もが認める大転換でした。そういう流れのなかで日本では自民党政権も崩れて、93年に細川非自民党政権が誕生、その後自社さ(自民党・社会党・新党さきがけ)連立政権が成立して(1994)、ちょうど戦後50年を迎える95年に、村山首相談話が出ます。これは、残念ながら中身は決して豊かなものとは言えませんが、日本の戦争と植民地支配に対する政府の認識としては、今のところ最低限の基準になるべきものだと思います。
しかし、この東西冷戦構造崩壊によって起きた新しい流れは、同時に戦後の革新勢力が崩壊していく流れでもあったわけで、自民党がその中で、したたかに政権を維持し、99年には小渕内閣のもとで国旗国歌法、周辺事態法、盗聴法と、様々な法案が通っていわゆる戦後の55年体制が崩れていく流れがはっきりしてくる。2004年には「心の総動員」をテーマとしてこちらで研修会がありましたが、国旗国歌法もまた大きなポイントでした。このときは全国の大学教員の間で反対運動がありましたし、東大でも百人以上の反対署名が集まりました。私自身、「運動」というものに関わり始めた最初のきっかけがこの国旗国歌法反対運動でした。
2001年、米国同時多発テロ事件が起こり、今度はアメリカが対テロ戦争を発動していく。かつてのWWⅠ(第1次世界大戦)、WWⅡ(第2次世界大戦)に見られるような国と国との戦争とは違った対テロ戦争、戦争の形態もこれから変わっていくということが言われた事件でした。
翌2002年には、日朝平壌ピョンヤン宣言が出されます。当時、「日中・知の共同体」という日中の研究者間の交流活動に数年間参加していたのですが、ちょうどその討論をしている最中に突然、小泉訪朝というニュースが入ってきたのを覚えています。これも非常に印象的なことでしたが、残念ながら拉致問題で日朝国交正常化は破綻し、それとともに右傾化という現在につながる流れが強まってしまいました。
2011年には東日本大震災、福島第一原発事故が起こります。第二の敗戦とも言われた大きな出来事で、さすがに私も日本はこれで変わらざるを得ないのではないかと、思ったところが甘かったですね。岸田政権は全く逆の大転換を行いまして、原発の新規増設を認めるような原発推進に戻っていこうとしています。
2012年には民主党の短い政権が終わり、憲政史上最長と言われる第二次安倍政権が始まります。安倍氏が体現しているような国家主義的な政治が着々と行われて、スキャンダルがたくさん暴かれながらもなかなか政権は倒れず、ご承知のような形で今日まで至っています。
2014年、集団的自衛権の一部解禁が閣議決定され、それに基づいて2015年には安全保障関連法制というものが成立します。この時点で、個別的自衛権のみ認める、そのための武力装置として自衛隊が合憲の存在としてあるのだという長年の政府の憲法解釈が崩れたと言っていいと思います。
そして昨年、2022年は本当に大きな一年でした。「戦争」という文字が日本でこれほど大きく迫り出してきた年、私が物心ついて以来なかったのではないかとさえ思います。2月24日のロシアによるウクライナ侵攻が世界に大きな衝撃を与えましたし、日本もそこでどう向き合うかが問われました。そういうなかで、現在の岸田政権は、敵基地攻撃能力を「反撃能力」と称してこれを保有する方向に安全保障政策を大転換する閣議決定を行いました。今日(2023年1月8日)の読売新聞には、岸田首相が今月バイデン大統領と首脳会談をして共同文書を発表すると、日本の新しい安保政策をアメリカは歓迎していて日米同盟をさらに強固にしていくアピールをするのだというニュースが、スクープのように一面に出ていました。
以上、戦後の流れのなかで私が重要だと思ったことをざっと拾ってみました。私たちの現在地を同定していくのに参考になればと思います。
Ⅱ 私は何を問題にしてきたか
次に、私は何を問題にしてきたかを、自己紹介がてら語ってみたいと思います。1995年、文芸批評家の加藤典洋(のりひろ)氏が「敗戦後論」という文章を雑誌『群像』に発表しました。これは、戦後50年を期して、日本の敗戦後の歩み、そして戦後思想に根本的な見直しを迫ろうとする文章で、特に当時問題になり始めていた戦後補償問題、侵略戦争と植民地支配について謝罪と補償をしていくためには何が必要かということをめぐって、一つの歴史認識と提案を提起したものです。「戦後日本は、戦時の『正義』と『侵略国』としての敗戦の『ねじれ』のために、護憲派と改憲派の『人格分裂』に陥っていて、アジアの他者に謝罪できない。アジアの他者への謝罪のためにも、まず先に『自国の死者』を深く哀悼して『人格分裂』を克服し、『われわれ日本人』という国民主体を立ち上げなければならない」、こういう論を立てたわけです。他にもいくつもの論点があるのですが、一番の中心はこの論点だったと言ってよいと思います。私は同じ『群像』に書く機会を与えられたので、これを批判しました。というのも加藤氏の議論は、まさに90年代になって、冷戦構造下で抑えつけられてきた声を次々に上げ始めた侵略や植民地支配の被害者たちに向き合うよりも、まず自国の死者を深く哀悼し、国民を立ち上げるのが大事だという主張だったのです。私は、そういう議論は成り立たないと批判をしたわけですが、その中心的な主張を一言で言うなら、「まず『われわれ日本人』を立ち上げないとアジアの死者に向き合えない、と言うべきではない。まずアジアの他者に向き合わなければ『われわれ日本人』を立ち上げることもできない、と言うべきである」。つまり、戦後日本人にアイデンティティを認めるとしたら、そこには戦争責任や植民地支配責任が組み込まれていなければいけないというのが、私の基本的な認識なのです。加藤氏の議論では、まず自分自身のなかで、自国の死者との関係のなかで戦後日本人が定義されてしまう。そこに私は最大の問題を感じたわけです。他にも天皇の戦争責任について認識の違いがありましたし、憲法問題についても認識の違いがありました。当時の私の議論が現在でも全く同じ形で反復できるかというと必ずしもそうではないのですが、しかしこの根本的な論点については、私は全く変わっていません。まずこれが、私にとっては最初のパブリックな空間での議論ということになりました。
ところがその後、『世界』で加藤氏が西谷修氏と対談した際、高橋の議論では「無限の恥入り」に陥るといって、二人でこれを戯画化、「語り口の問題」に定式化するのですね。これは「文学対倫理」の問題だと、つまり私のような立場は倫理を重んじる立場で、文学はもっと広くて深いのだというような日本でよくあるタイプの議論ですが、そういうところに問題をずらしていった。倫理主義とか審問主義だという批判がその後かなり流行していくきっかけになったと思っています。「正しすぎてついていけない」という言い方も、色々な人によって使われました。典型的な論者は内田 樹たつる氏で、この人の『ためらいの倫理学』という本では、「倫理主義は審問主義だ」というシニカルな批判が出てきます。これは言論の世界で今に至っても問題になり続けている、かなり厄介な問題だと私は思っています。
さて、もう少し具体的に言いますと、当時は日本軍「慰安婦」問題が大きな焦点でした。私は、満身創痍の証人として被害者が名乗り出てきている以上これを誤魔化すことはできない、「慰安婦」問題はいわゆる性奴隷制、国際人道法上の「人道に対する罪」にあたるもので、公的謝罪と個人補償を行う必要があると主張しました。当時、日本の被害国、つまり韓国、「北朝鮮」、中国、台湾、そしてフィリピンやインドネシア、オランダも含め、「慰安婦」問題の被害国の女性たちが、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」というものを企画していました。戦後50年以上経って、責任者を処罰することは実際にはできない。しかし、戦争責任がどこにあったのかを判断(judgement)することはやはり重要なことで、不正を不正として判断できないところに戦争責任を曖昧あいまいにしてきた戦後日本の大きな問題があると考えていましたので、私はこれを支持しました。民間の裁判なので、たとえばベトナム戦争のときに哲学者のラッセルとサルトルが提唱して行った民間裁判に倣ったものと言ってもいいのですが、その判決のなかでは、日本軍と当時の日本軍最高指揮官だった天皇の責任が認定されたのです。関連して、この裁判を取り上げたNHKのETV特集の番組が、当時の官房副長官だった安倍晋三氏などの圧力によって無惨に改竄かいざんされて放映されたという事件がありました。戦争をどう裁くかをテーマにした四夜連続の番組で、ドイツやフランスのケース、また南アフリカのアパルトヘイトなどのケースを四回に分けて扱うなかで女性国際戦犯法廷を取り上げるシリーズだったのですが、私はその四回連続で解説をする役割だったので、この改竄事件の真っ只中に巻き込まれてしまいました。それ以降安倍政権下で日本のメディアがどんどん劣化していった、あるいは政府を忖そん度たくしてジャーナリズムの役割を果たせなくなった、その大きなきっかけになってしまったのかなという苦い思いもあります。
2000年代初めには、教育基本法改正問題が大きく浮かび上がってきました。当時「心のノート」と称して、子どもたちの道徳教育の教材、官製の教材が作られるということがありました。私は『心と戦争』という小著を出して、戦争に向かっていくときに必ず「心」の統制が始まるのだという問題提起をしたのですが、たしかそれが目に留まって共助会にもお招きいただいた形だったと思います。「教育基本法の改悪を止めよう! 全国連絡会」という運動は、私が関わったなかで最も大きな運動でした。私は呼びかけ人の一人で、かなり大きな盛り上がりを作ったと思いますが、残念ながら政治的に改正を止めるところまではいかなかった。教育基本法は、日本国憲法体制下では憲法の「理想」を実現するための教育の理念を定めた法律、教育の憲法と言えるもので、その基本は個人の尊重という理念にありました。それに対して改正案は、愛国心教育をできるようにする、そして新自由主義的な発想を教育の現場に持ち込む、そのような内容でした。教育基本法が改正された後、関連法も様々に改悪されて、教育現場に対する統制はどんどん強まってきたと思います。
教育基本法や国旗国歌法の問題とも密接に結びつく、私たちの内心にも関わる問題として靖国問題があります。ちょうど小泉首相が毎年参拝を繰り返していた時期、中国や韓国から毎年激しい批判を浴びながらも、「私の信念だ」などといって参拝を続け、それがむしろ特に若い世代の人気を得るような流れになっていました。靖国神社問題というのは古くからあって、靖国神社国家護持法案を自民党が繰り返し国会に提起した時代にはそれに反対する広範な運動もありましたが、小泉参拝は一つの新しい段階で、天皇がその象徴性を薄めていくのに代わって、靖国神社がナショナリズムの象徴になるようにも見えた。私は『靖国問題』という小著を2005年に出し、そこで靖国信仰の本質を「感情の錬金術」という言葉で呼びました。靖国に尊い犠牲、英霊として祀り、天皇も参拝することによって、遺族の感情を悲しみから歓びに180度転換する。この錬金術によって戦争に国民を動員していく装置、それが靖国信仰の核心であるという議論をしたわけです。一部で誤解されていますが、私は靖国神社を潰せといったわけではありません。旧植民地の遺族も含む遺族関係者の人たちから合祀取り下げを求める声がたくさん出ているのに、靖国神社は全て退けて、司法もそれを追認するような形になっている。政教分離はもとより、この合祀取り下げも認めて、靖国信仰を持つ人々の宗教法人という形で憲法の枠内に収まる形しかないのではないかという提案をしたのです。当時は、靖国神社に代わって国立追悼施設を作れば良いという議論が宗教界からも出ていたのでこれについても取り上げました。裁判で意見書を書いたり証人として出たりもしました。靖国問題は、私にとってはかなり大きな問題であり続けています。
さらにその後、原発事故をきっかけとして「犠牲のシステム論」というものを提起しました。もともと、戦後日本の安全保障政策は、沖縄をいわばスケープゴートにして続いてきた。サンフランシスコ講和条約では沖縄を質草のようにアメリカに渡すことで日本は主権を回復した。復帰後も、基地の負担については負担率がむしろ高まるような形で固定され、事件や事故が頻発していく。そうした沖縄の犠牲を組み込んだシステムとして戦後の安全保障体制を批判的に見る必要があると考えてきたのですが、2011年、3・11の原発事故をきっかけにして、原発についても同じように犠牲のシステムとして考えるべきではないかという議論をまとめたわけです。私は福島で生まれ育った人間なので、この事故は本当に大きなショックでした。原発が危険であることはもちろん分かっていましたし、チェルノブイリ事故も見聞きしていたわけですが、それにもかかわらず日本で原発事故は起こらないだろうとどこかで油断していた。ましてや自分の故郷でそれが起こるなどとは想定もしていなかった。その衝撃を受けて、過酷事故、被曝労働、ウラン採掘、さらには未来世代に対する放射性廃棄物の遺棄という少なくとも四つの犠牲を組み込まずには原発は動かせないのだという批判的な視点を持つようになりました。
最後に、NPO「前夜」です。2004年から07年にかけて友人の在日朝鮮人の作家である徐京植(ソ キョン シク)さんたちとNPOを作り、反植民地主義をテーマにした季刊『前夜』という雑誌を三年間、計12冊発行しました。これも一つの運動として、私が関わってきたものと言えると思います。
以上、私がこれまで問題にしてきたものをいくつかピックアップして辿ってきました。これらのなかに、私の基本的な関心がうかがえるものと思います。
Ⅲ「責任」について
こうした経緯のなかで、私が何を問題にしてきたかを一言で言うなら、それは「責任」の問題だということになると思います。「日本人としての責任」などと言うと、ただちに「倫理主義だ」とか「正しすぎてついていけない」とか、果ては「ナショナリズムではないか」といった反論が出てくる社会ですが、しかしどうしても戦後日本社会の根源には、責任に向き合えない、責任を取らない、責任を問えない、そういう問題が横たわっていると思うんですね。
私が「責任」についてどんな考え方をしているのか、ごく簡単に語ってみたいと思います。責任は英語で言うとresponsibilityです。別にヨーロッパ語、英語でいう必要はないのですが、内容的にも私はresponsibilityつまり「応答可能性」というところから責任を考えたい。全て人間関係の基礎には言葉による呼びかけと応答の関係があると思います。赤ん坊のときから、人はすぐに母親、一般に保護者との呼びかけと応答の関係に入るわけですね。これがうまくいかなければ、発達できない。赤ちゃんとお母さんの関係が一番分かりやすいと思うのですが、しかしそれだけではなく、「アブラハムよ」と呼びかけて、「はい、私はここにいます」と答えるのも、呼びかけと応答です。よく観察していくと、これは私たちの社会のあらゆる場面の基礎になっている。人間は、他者と言葉を交わす存在、すなわち社会的存在である限り、他者への応答可能性のうちにあり、そのことによって他者への責任のうちに置かれている。応答可能性ですから、無数の形があります。「こんにちは」でも「おはようございます」でも、まなざすだけでも、それは一つの呼びかけになるわけです。それに対して私は、「こんにちは」だったら「こんにちは」と返すこともできますし、無視することもできます。しかし、沈黙もまた、呼びかけた側に対する一つの応答の形と言える。呼びかけと応答の関係がうまくいっている場合にはそこに信頼関係が醸成されてくる。それに対し、呼びかけられても応答しなかったら、人間関係としてはうまくいかなくなっていく。そういう現実があるわけです。そうした呼びかけは、誰から、またどこから呼びかけられるかについて、私の自由にはなりません。当然ですね。他者から来るわけですから、呼びかけは私の自由にはならない。したがって、呼びかけられたことに気づいたときには、私は既にどういう応答をするのかという責任のうちに置かれてしまっている。もちろん無視することもできるわけで、私たちは普段、ほとんどの呼びかけを無視しているとすら言えるでしょう。今の世界の「暗がり」の話にしますと、それこそウクライナだけではなくて、ミャンマーとか香港とか台湾とか沖縄とかシリアとかパレスチナとか、世界のあらゆるところから呼びかけられている。無数の呼びかけが飛び交っているわけです。しかし私たちは、まずは、家庭を持っていれば家族との呼びかけと応答をしながら毎日を暮らしていますし、仲間たち、あるいは職場の同僚との呼びかけと応答を優先しながら生きている。ほとんどの呼びかけには私たちは応えずに日々を送っているのですが、そのなかで日本人として、特に自分の置かれた政治的な位置によって、呼びかけられ、応答が求められるという場面が出てくる。
「日本人としての責任」ということに私はこだわってきました。というのも、日本の国籍法によって日本国民であるような存在は、日本国の主権者という形で同時に政治的な存在でもあるわけですが、そういう法的、政治的存在としての日本国民には、日本政府が戦争責任や植民地責任を取らないときには、その責任を取らせるという政治的責任がある。最初に述べた、一般的、普遍的な意味での応答可能性としての責任には境界がありません。事実上の境界はもちろんあります。英語が分からなければ英語で呼びかけられても理解できないし、さまざまな形で事実上の境界は生じますが、原理的には境界はない。別に外国人から呼びかけられようと、異性から呼びかけられようと、境界はないはずですね。言い換えると、いつでもどこでも応答責任は始まることができる。それに対して、日本人としての責任は、明らかに法的政治的に、その限りで客観的に決まってくるものだと言えます。これについては、集団的な罪、責任を認めるのか、罪と責任をどう異なるものとして理解するのかといった哲学的、思想的な議論があります。たとえば、ハンナ・アーレントは、集団の罪は認めないが、集団の責任は否定できないと言っています。私がこの議論で大きな感銘を受けたのは徐 京 植さんです。「慰安婦」問題で韓国のハルモニたちが日本国民に謝罪や補償を呼びかけてきました。日本政府に呼びかけてきたとしても、それは結局政府に謝罪や補償をさせる日本国民の責任に呼びかけていると考えられるのですが、それに対してシンポジウムなどで議論をすると、特に90年代には「自分は日本人などという国家の枠組みにはとらわれないで生きているのだ」とか、「国籍を超えた普遍的な視点に立っているのだ」とか、「自分はコスモポリタンとして生きている、日本人と言われても困る」とか、「自分は在日日本人であって、日本人という枠は自分にとっては桎梏しっこくでしかない」とか、そういう反応がよく見られたのです。そういう議論の真っ只中で徐 京植さんがこういう発言をした。「日本国民の皆さん、自分はたまたま日本に生まれただけであって、『日本人』であるつもりはないとか、自分は『在日日本人』に過ぎないとか、どうかそんな軽口を叩かないでいただきたい。あなた方が長年の植民地支配によってもたらされた既得権と日常生活における『国民』としての特権を放棄し、今すぐパスポートを引き裂いて自発的に難民となる気概を示したときだけ、その言葉は真剣に受け取られるだろう。そうでないかぎり、『他者』はあなた方を『日本人』と名指し続けるのである」(徐 京 植「〈日本人としての責任〉をめぐって ― 半難民の位置から」1998)。徐 京 植さんの在日朝鮮人という立場、ご自分で仰っていますが「半難民」の立場から見るなら、日本人というのはそれだけで既に特権なのだということですね。私はこの発言を重く受け止めました。ここからまた分かるのは、日本人としての責任は日本国民としての責任だけではないということです。日本国民のなかでも、在日コリアンでもアイヌでも琉球民族でもない中心部日本国民、圧倒的マジョリティとしての日本人が日本国の政治的な決定権を握っていることは否定できないので、同じ国籍を持っていたとしても、こうした日本人の責任が一番重いだろうと私は考えています。
今でも時折、「越境」ということが素晴らしいイメージとして語られることがあります。もちろん、様々な境界を越えるということは普遍性へ向かっていく上で決定的に重要なことなのですが、そのことによって自分の政治的、権力的な位置、日本人という位置を曖昧にしたり、なきものにしたりすることは認められないというのが私の考え方です。こういう考え方で様々な問題に取り組んできたのがこれまでの私の経緯でして、残念ながら大筋において、国や社会の流れを変えるには至りませんでした。とうとうここまで来てしまったかというのが、今の実感です。㊟〈ドイツ出身のアメリカの政治哲学者・思想家〉
Ⅳ 戦後ドイツ
基本的な問題として、国の責任、国を支えている日本人の責任が大事なのではないかというところまでお話ししました。戦後日本において責任、それもアジア・太平洋戦争に対する責任がどのように問われ、また果たされてきたのかということが私自身にとって大きな問題であり続けてきたわけで、そしてまた私の見方では、この問題に対する日本のあり方が、現在そして未来に向かっていこうとするこの国のあり方に大きな影を落としている。ここで戦後ドイツを取り上げるのは、申し上げるまでもなく、第二次大戦(WWⅡ)で、ヨーロッパではドイツが、アジアでは日本が最後まで国際社会のなかで孤立して戦争を続け、そして敗戦に至るわけですが、戦後、責任を問われるところから出発したという点では明らかに似ているところがあるからです。日本ではしばしば、ドイツとの比較論が行われてきました。もちろん日本とドイツでは、行なった戦争のあり方、そして戦後置かれた国際情勢、歴史そのものが違いますから完全に比較できるわけでもないのですが、しかしどうしても参考にせざるを得ない国としてドイツがある。
ロシアのウクライナ侵略が起きた昨年、櫻井よしこ氏と高市早苗氏が、『ハト派の嘘』という対談本を出しました。まあハト派の言っていることは嘘だと散々口を極めて言っているわけですが、特にロシアのウクライナ侵攻によりヨーロッパで戦後初めて本格的な戦争になったのをきっかけにドイツは大転換した、目覚めたのだと言っています。たしかにウクライナに対し、NATOの枠内では、軍事援助を積極的にやってきたということはありますが、彼女たちは、安全保障面だけでなく歴史認識についてもあたかもドイツは変わったかのような発言をしているわけです。「日本同様、戦後ずっと、軍事から遠ざかり経済を中心としてきたドイツが大転換をした。国家の安寧を守るには軍事力が決定的に重要であることを認め、普通の民主主義国家として、強い軍事力の整備にとりかかった。NATO加盟国の全てについてもドイツは責任をもつ、一インチたりともプーチンの侵略を許すことはないと、ショルツ氏は演説した。戦後の自虐史観から完全に目覚めたのである」(『ハト派の嘘』、7頁)。自虐史観という日本でお馴染みの言葉を使い、ドイツは歴史認識も含めて変わったのだという印象を与えようとしています。次の文章もその流れでして、「ヨーロッパ議会が歴史決議をして、戦勝国で正義の味方としての立場をとっていたソ連の戦争犯罪をきちんと検証して、見直すことが必要だと言い始めたのは、決して復讐ではありません。本当の意味での公正な歴史を見ようとしているのだと思います。先ほども述べたように、そういう考え方があるから、いま初めてドイツは大転換をした。他の国々もロシアの本質を見て変わったのだと思います。日本も同じような目覚めが必要です」(同上、96頁)。歴史の見方についてもドイツは大転換したのだから日本も自虐史観から目覚めなさいと呼びかけているわけです。ここで言われている「歴史決議」とは、2019年9月19日の欧州議会で挙げられた「欧州の未来のための欧州の記憶の重要性に関する決議」で、WWⅡが始まったのはナチス・ドイツがポーランドに侵攻した1939年9月1日ではなく、ソ連外相モロトフと、ドイツ外相リッベントロップが独ソ不可侵条約を結んだ時であると定めたものです。独ソ不可侵条約は、当面の間は戦争しないという不可侵を約した条約なのですが、秘密議定書というものがあって、ドイツとソ連とで東ヨーロッパを分割支配するという密約が交わされていた。したがって、ナチス・ドイツだけでなくスターリンのソ連も徹底的に批判的に見直すことが、ヨーロッパの未来にとって必要な歴史記憶なのだという言説なのです。ソ連はナチスをやっつけた正義の味方であると最近ではプーチンも盛んに言ってウクライナ侵攻を正当化していますし、「大祖国戦争」と呼んでソ連はこれをアイデンティティの中心にも置いてきたのですが、それは東ヨーロッパを分割支配する戦争でもあったのだということです。これはたしかに、ヨーロッパの歴史認識としては一つの転換だと思うのですが、まず重要なのは、これは明らかに冷戦終結後に東ヨーロッパの社会主義圏、ポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーなど衛星国としてソ連の支配に苦しんでいた国々がEUに加盟することで問題提起したことであり、EU拡大の一つの結果だということです。その意味では、こうした転換が生じるのは時間の問題であったと言える。もう一つ重要なことは、スターリン体制の問題を厳しく批判していても、それによってナチス・ドイツが免罪、免責されているわけでは全くないということです。ナチズムとスターリニズム、この二つの全体主義が根本的な脅威であって、それの復活を許してはならないし、これらをしっかり清算すべきだというのがこの決議なのです。ところが、『ハト派の嘘』の著者たちは、歴史認識についてヨーロッパも変わったしドイツも変わったのだから、日本も変わるべきだと言っている。
では、ドイツの歴史認識の基本が変わったのかといえば、私が見る限り決して変わっていない。ウクライナ戦争が始まって2か月あまり経った頃、5月8日ですから日本の8・15に相当するドイツの敗戦記念日になりますが、この日にドイツのシュタインマイヤー大統領が演説をして、このように述べています。「5月8日は心に刻む日でもあります。私たちはナチズムの支配の恐怖と、東ヨーロッパでドイツ人が行なった無慈悲な絶滅戦争を想い起こします。〔中略〕5月8日は警告の日です。ドイツから生じたこれらの犯罪、ドイツ人が行なったこれらの犯罪を記憶することなしに、ドイツの歴史―および現在―を理解することはできません。歴史の前での私たちの責任に終わりはありません。これこそ5月8日が私たちに課してくるところのものなのです」(シュタインマイヤー大統領演説20220508ベルリン)。ここで終わりのない戦争責任と言っています。この認識はドイツの戦後史でも比較的新しいもので、90年代、東西冷戦終結後に新しい時代が始まるなかで徐々に確立されてきた歴史認識だと思います。それ以前には、たとえば1970年にブラント首相が東方外交というのを始めて、ポーランドに行って、ワルシャワゲットー蜂起の記念碑前で跪いて祈るということがありました。あるいは85年、戦後40周年の連邦議会で当時のヴァイツゼッカー大統領が「荒野の40年」という有名な講演をして、過去に盲目になるものは現在を理解することができない、未来への責任もとりえないという発言をした。このブラントやヴァイツゼッカーの言動はもちろん当時高く評価されましたが、ブラントの場合は言葉がなかったし、当時西ドイツの世論調査では反発の声のほうが多かった。70年代から西ドイツのスタンスは少しずつ変わっていくのですが、85年のヴァイツゼッカー演説にも、直接に被害者に謝罪をする表現はなかったのです。哀悼の意を表する、悲しみのうちに想起するというのは繰り返し出てくるのですが、謝罪の表現は直接にはなかった。
それに対して次の文章は1994年、既に統一ドイツになってからのヘルツォーク大統領による演説の一節です。ユダヤ人によるワルシャワゲットー蜂起ではなくて、ポーランド市民が占領軍であるドイツ軍に対して蜂起をしたワルシャワ蜂起、その記念式典に初めて加害国ドイツの大統領が招かれてスピーチをした、そのさわりの部分です。「私たちドイツ人は恥ずかしさ(Scham)でいっぱいになります。私たちの国と民族の名前が、永遠に、数百万のポーランド人に加えられた苦痛と苦悩とに結びつけられている、ということによって。私たちはワルシャワ蜂起の死者たちと、第二次世界大戦で生命を失ったすべての人びとに哀悼の意を表します。〔中略〕今日、私は、ワルシャワ蜂起の闘士たちと、ポーランド人の戦争犠牲者すべての前で頭を垂れます。私は、ドイツ人によって彼らになされたことについて、赦し(Vergebung)を乞います」(ヘルツォーク大統領演説 19940801 ワルシャワ)。ここで「赦しを乞う」という表現を使っています。私が知る限り、ドイツ首脳のスピーチで被害者、被害国に対してこの表現が出てきたのはこれが初めてだろうと思います。日本にはこれまで、ドイツはホロコーストについては謝罪したけれども、戦争については謝罪していないという神話があったのですが、ここではまさにドイツ人が主語になっていて、被害者はポーランドの戦争犠牲者全てですので、ユダヤ人にしか謝罪していないなどということはとっくに通用しないんですね。
そして1999年、これもやはり冷戦終結後に、それまでドイツの補償が及んでいなかった東側旧社会主義圏から強制労働被害者の人々が、当時生き残っていたのは百万人内外と言われているのですが、体制が変わって被害を訴え出てきた。ちょうど東アジアで韓国や台湾、中国などから90年代に入って戦後補償裁判を次々起こされるように、その人たちがヨーロッパではアメリカとドイツの裁判所に裁判を起こし始めるのですね。それに対してドイツでは、国と企業が半ばずつお金を出して、「記憶・責任・未来」という財団を作って補償を行なったわけです。これは当時のラウ大統領が、その補償額が決まったときにベルリンで出した声明の一節です。「被害を受けた多くの人々にとって、お金が決定的な問題ではないことを、私は知っています。彼らが望んでいるのは、苦痛が苦痛として認められ、自分たちになされた不正が不正として名指されることなのです。私は今日、ドイツの支配下で奴隷労働と強制労働に従事せざるをえなかったすべての人びとに思いをいたし、ドイツ国民の名において赦しを乞います。彼らの苦しみを私たちは忘れないでしょう」(ラウ大統領声明 19991217ベルリン)。ドイツだけではなくフランスなど他の国の首脳演説にもよく出てくる「~の名において」という表現ですが、これはドイツ国民を代表して国家元首たる私が赦しを乞うという意味なので、ドイツ国民が丸ごと赦しを乞うということになるわけです。お金の問題でないことは分かっているし、もう遅すぎることも分かっているけれども、せめて生き残った皆さんに対しては間違っていた、不正であったということを認めて補償したいと。「赦しを乞う」という表現は、もちろん安易に繰り返すとクリシェ(決まり文句)のようになってしまい軽々しく聞こえるのですが、以後これが重要な場面でしばしば語られていくことになるのです。
実は西ドイツは、国内法でナチスの犯罪を裁くということをずっとやってきたのですが、1965年、敗戦の日から20年で謀殺罪、謀殺幇助(ほうじょ)罪の時効が来るために大問題になったことがありました。これを認めてしまうと、ナチスのホロコーストをはじめとして大規模な人権侵害がほとんど裁けなくなってしまうからです。このときフランスの哲学者ジャンケレヴィッチが論争に介入し、非常に烈しく時効反対の論陣を張ります。我々は一度でも彼らドイツ国民が赦しを乞う声を聞いただろうか?一度たりともない。したがって赦すことはできない。そういう論文を書いて、時効に反対したわけです。このときは反対が強くて時効が延長されました。二度延長されて78年、最終的に時効は廃止されます。ドイツ国民は悔いを知らない、改心をしない国民であると、一度も赦しを乞う言葉を聞いたことがない以上は決して赦すことはできないとジャンケレヴィッチは65年に言っていたのですが、90年代になると、そのドイツの大統領が国民の名において赦しを乞うと発言するようになるわけです。そういう背景をおいて読むと、ここで一段と認識が深まっていることが分かると思います。
次の二つは、2015年ですから戦後70年、5月9日にモスクワで開かれた第二次世界大戦戦勝記念式典の後、メルケル首相が記者会見で述べた言葉です。「私は無名戦士の記念碑に花輪をささげてきました。そこでロシアの皆さんに申し上げたい。ドイツ首相として私は、ナチス・ドイツが起こしたあの戦争によって生じた数百万の犠牲者たちの前で頭を垂れます。当時、最大数の犠牲者を出さねばならなかったのがソ連の諸民族であり、赤軍の兵士たちであったということを、私たちは繰り返し意識にとどめようとするでしょう」(メルケル首相記者会見20150509モスクワ)。この「数百万の犠牲者たち」のなかにはウクライナの人も入っているし、ベラルーシの人もバルト三国の人も入っていますね。「私の見地からすれば、モロトフ・リッベントロップ協定は、秘密議定書を考慮しない限り理解は困難です。この見地から、それは不正の始まりとなった取り決めだと私は考えます。しかし、だからといって、決して次のことを間違えてはなりません。すなわち、第二次世界大戦を始めたのはナチス・ドイツであること、私たちは〔現在の〕ドイツとして当時のナチス・ドイツに責任を負うべきであること、わが国の歴史的責任は、私たち〔ドイツ人〕が幾百万もの犠牲者を生み出した一方で、最後にドイツが解放されたときには赤軍が参戦していた事実を、つねに心に刻むことにあること、これです」(同上)。つまりドイツの側からすれば、ソ連も悪かったのだとしてドイツの罪を相対化することはできない。自分たちの罪を相対化するつもりはないと言っているわけです。
さらに、2019年の9月1日、これは現在の大統領シュタインマイヤーが、ナチス・ドイツのポーランド侵攻80周年の記念式典に招かれてスピーチをしたときの一節です。「『ドイツ人に生まれた者は誰でも、ドイツとかかわりがあり、〔中略〕ドイツの罪とかかわりがある』。ドイツの歴史を参照しようとする者は誰でも、トーマス・マンのこの言葉と取り組まねばなりません。/過去は過ぎ去りません。そして私たちの責任も過ぎ去りません。私たちはそのことを知っています。ドイツ連邦共和国大統領として、私は皆さんに保証したい。私たちは忘れないでしょう。心に刻むことを望み、心に刻むでしょう。私たちはわが国の歴史によって課せられる責任を引き受けます。私はヴィエルニ空爆の犠牲者たちの前で頭こうべを垂れます。ドイツの暴力支配によるポーランド人犠牲者の前で頭を垂れます。そして、赦しを乞います」(シュタインマイヤー大統領演説 20190901 ヴィエルニ)。
次は、同じ日にヴィエルニからワルシャワに戻り、またそこで式典をしたときのスピーチです。「80年前のこの日、わが国ドイツが皆さんの祖国ポーランドに侵攻しました。その後、五千万人をはるかに超える人びと ― そのなかには数百万人のポーランド市民がいました ― の生命を奪う恐るべき戦争を開始したのは私の同胞たちだったのです。〔中略〕この戦争はドイツの犯罪(ein deutches Verbrechen)でした。〔中略〕過去は終わらないのです。反対に、この戦争は遠ざかれば遠ざかるほど、心に刻むことが重要になるのです。武器が静かになるとき、戦争は終わります。しかし、戦争の結果は、何世代にもわたる遺産となるのです。この遺産は痛みに満ちた遺産です。私たちドイツ人はこれを受け取り、さらに担っていくのです」(シュタインマイヤー大統領演説 20190901 ワルシャワ)。安倍首相が、後の世代の若者に謝罪の重荷を背負わせることはしたくない、とにかく決着をつけたい、終わらせたいと繰り返し言っていたことに比較しますと、その差は歴然だと思います。「私は今日、ドイツ連邦共和国大統領として、首相とともに、すべてのポーランド市民の皆さんに申し上げます。私たちは忘れない、と。私たちはドイツ人がポーランド人にもたらした傷を忘れません。ポーランドの家族の皆さんの苦しみを忘れませんし、皆さんのレジスタンスの勇気も忘れません」(同上)。これはヴァイツゼッカー演説から一貫していますが、ドイツの首脳は謝罪をする際に、レジスタンスの人々、つまり自国に抵抗した当時の敵の人たちも讃えるのですね。日本では考えられないことです。「私たちは決して忘れません。Nigdy nie zapomnimy ! /私は犠牲者たちの苦痛の前で哀しみのうちに頭を垂れます。私はドイツの歴史的な罪(Deutchlands historische Schuld)について赦しを乞います。私は私たちの責任に終わりがないことを認めます」(同上)。責任には終わりはないということを、繰り返し言っています。
メルケル首相がアウシュヴィッツに初めて行ったときのスピーチも見てみたいと思います。「アウシュヴィッツは、ドイツ人によって駆動された、ドイツの絶滅収容所です。私にとって重要なのは、この事実を強調することです。加害者が誰であるかをはっきりさせることが重要なのです。私たちドイツ人にとって、それは犠牲者と自分自身に対する義務なのです。/犯罪を記憶すること、加害者を名指すこと、そして犠牲者をその尊厳において記念することは、終わりのない責任です。この責任に交渉の余地はなく、それはわが国に不可分に属しているものなのです。この責任に自覚的であることは、わが国のナショナル・アイデンティティの確固たる一部であり、私たちが何者であるかを、啓蒙されたリベラルな社会、民主的な法治国家として定義するものなのです」(メルケル首相 20191206 オシフィエンツィム([アウシュヴィッツ])。ドイツ連邦共和国のアイデンティティの確固たる一部には、この終わりなき責任が組み込まれていて、これを切り離したら自分たちの民主主義はないのだと言っている。これは、加藤典洋氏との論争のなかで私が漠然と意識していたことに近いと言っていいと思います。
同じことをシュタインマイヤー大統領も、2020年の5月8日、やはり敗戦の日のスピーチで非常に印象的な表現で言っています。「ラビ・ナフマンは次のように書いています。『引き裂かれた心ほど完全な心はない』。ドイツの歴史は引き裂かれた歴史(eine gebrochene Geschichte)であり、何百万人もの人びとに対する殺戮と、何百万人もの人びとの苦しみに対する責任を伴います。このことは今日に至るまで私たちの心を引き裂きます。だからこそ、引き裂かれた心をもってしか、この国を愛することはできないのです。これを耐えがたいと思う者、終止符を求める者は、戦争とナチス独裁の災禍を記憶から排除しようとするのみならず、私たちが成し遂げてきたあらゆる善きものの価値を失わせ、わが国における民主主義の中核的本質すら否定してしまうのです」(シュタインマイヤー大統領演説 20200508 ベルリン)。ドイツの歴史は引き裂かれた歴史であって、それを担わなければいけない。それに耐えられない、もう忘れたい、もうやめたい、終わりたい、いつまでそんなことを言っているのかという態度、それこそがドイツの民主主義を毀損するものだと言っているのですが、日本の現状を見ると、耐えがたいと言っている人ばかりですね。「『人間の尊厳は不可侵である』。わが国の憲法の第一条に掲げられたこの一文には、アウシュヴィッツで起きたこと、戦争と独裁体制下で起きたことが、すべての人の目に見える形で刻み込まれています。そうです、過去を想起する営みは重荷ではありません。想起しないことこそ重荷になるのです。責任を認めることは恥ではありません。責任の否定こそ、恥ずべきことなのです」(同上)。このドイツ基本法第一条は、とても重要ですね。日本国憲法の第一条は、みなさんご存知の通りです。
以上が、ナチス・ドイツの罪に対して特に東西冷戦終結後、再統一後のドイツの首脳がどういう歴史認識を提示してきたかということです。明らかに櫻井よしこ氏と高市早苗氏が『ハト派の嘘』で言っていることとは異なり、「自虐史観から目覚めた」などということではないのが分かると思います。ですから私は、これは「ハト派の嘘」ではなくて「タカ派の嘘」だと思っているのですが(笑)、タカ派の嘘はもっとあります。
Ⅴ 植民地責任
ここからは植民地責任の問題に関わることになりますが、先の対談本のなかで、日本初の女性総理になるかとも言われている高市早苗氏がこんなふうに語っています。「日本の支那に於ける諸権益は、日清戦争以降の『日支間条約』によって定められていたものです。日韓併合は、1910年に調印した『日韓併合に関する条約』によって実現し、当時、ロシアとイギリスはこれを了承し、アメリカも異議を唱えていませんでした。でも、日本はそれを『日本だけが悪い』としてきました。/植民地支配が全部悪いのだとすれば、アメリカもイギリスもフランスもオランダも、謝罪を続けなければいけなくなります。でも、他国はそうしていません」(『ハト派の嘘』、92頁)。この認識は、あまりにも恥ずかしい。現在の世界の状況を考えたときに、「ガラパゴス化」していると言うしかないですね。ナチス・ドイツの問題についても彼女たちはヴァイツゼッカーの段階で止まっているのですが、植民地問題についても本当に現状を知らない。そこで、現在、植民地支配の責任問題が世界でどうなっているのか、それもざっと見ておきたいと思います。
一つは2001年9月8日に出されたダーバン宣言というものです。南アフリカのダーバンで開かれた人種差別等に反対する国際会議、ダーバン会議で挙げられた宣言ですが、この会議は、かつて植民地宗主国であった国と、かつて植民地支配された国とが、国連のもとで一堂に会して植民地問題について議論する初めての場面になりました。当然、喧喧諤諤けんけんがくがくの議論になるのですが、そのなかでこのような宣言がまとまります。「植民地主義が人種主義、人種差別、外国人排斥および関連する不寛容をもたらし、アフリカ人とアフリカ系人民、アジア系人民および先住民族は植民地主義の犠牲者であったし、いまなおその帰結の犠牲者であり続けていることを認める。植民地主義によって苦痛がもたらされたことを認め、植民地主義は、それが起きたところではどこであれ、いつであれ、非難されねばならないこと、その再発は防止されねばならないことを確認する。これらの構造と実践の影響と存続が、今日の世界各地における社会的経済的不平等を続けさせる要因であることは遺憾である」(ダーバン宣言、総論、第一四節、20010908)。責任問題についてはよく「いつまで遡るのか」と言われますが、原理的には、植民地主義はいつであれどこであれ非難されねばならないのだということですね。実際に補償、賠償をするとなると、国が潰れてしまうことにもなりかねないので、そこには議論の余地があるのですが、原則として植民地主義は正当化できないのだと、国連主催の会議で宣言されたことが重要です。実は旧植民地側では、植民地主義を「人道に対する罪」として認めさせたいという思いがあったのですが、そこまではいかなかった。この会議では、奴隷貿易と奴隷制が、人道に対する罪として認められました。同じようにコロニアリズムそのものも人道に対する罪として非難するところまではいかなかったのですが、それでもこういう表現が入ったということです。
次は「欧州におけるアフリカ系市民の基本的諸権利」に関する決議です。ヨーロッパには旧植民地出身、特にアフリカ出身の人々とその子孫が千五百万人もいるのですが、そうした市民に対して今なお、人種差別やヘイトスピーチ、様々な不寛容が蔓延っている。そこでEUは、EU市民として共生していくために、アフリカ系市民の基本的諸権利に関する決議を挙げました。その一部に、こうあるのです。「七.いくつかのメンバー国が、過去の不正と人道に対する罪への有意義で実効的な償い(redress)に向けた措置を講じたことを ― それらの不正と犯罪が、アフリカ系市民に対して現在も続くインパクトを与えていることを銘記しつつ ― 想起する。/八.EU諸機関と残りのメンバー国が、公式謝罪の提供、盗まれた遺物の原所有国への返還といった補償形式を含みうる、上記の例に従うことを呼びかける。/九.メンバー国に植民地関係の記録の公開を呼びかける」(「欧州におけるアフリカ系市民の基本的諸権利」決議 20190326)。今ヨーロッパ諸国は競って、植民地支配した国々から略奪した芸術品等を返還しようという動きになっています。フランスのマクロン大統領がベナンを訪問したときに返還を宣言したことから始まったのですが、今やそれがドイツやベルギー、イギリスにも波及しつつある。これが世界の流れであって、ヨーロッパ諸国のどこも植民地主義が悪いとは思っていない、などというガラパゴス的認識を日本の指導的な政治家が持っているのは、実に残念であり困ったことだと思います。
具体的にいくつか見ていきたいと思います。2020年、オランダのアレクサンダー国王がジャカルタを訪問したとき、このように述べています。「過去は消し去ることができず、各々の世代が順番にそれを引き受けていかなければなりません。独立宣言直後の数年間、苦痛に満ちた対立によって多数の人命が失われました。わが国の政府がすでに発してあるいくつかの声明とともに、私はあの時代にオランダがふるった過度の暴力について、遺憾の意を表明し謝罪いたします(express my regret and apologise)。被害者を出した家族たちの苦痛と悲しみが今日もなお続いていることを、よく知っているからです」(アレクサンダー国王演説 20200310 ジャカルタ)。遺憾の意(regret)の表明だけだとやや弱いのですが、はっきり謝罪する(apologise)と言っている。これは1950年代、インドネシア独立戦争中の残虐行為についてですから、数百年に及ぶ植民地主義自体の謝罪ではないのですが、昨年12月にはルッテ首相が奴隷制と奴隷貿易について正式な謝罪をしました。こういうものが全体として一つの流れになっていることに注目したいわけです。
次は、ベルギーのフィリップ国王が、昨年6月にコンゴの首都キンシャサで行ったスピーチの一部です。「多くのベルギー人がコンゴとその人びとに対して誠実にかかわり、好意を持っていましたが、植民地体制(régime colonial)そのものは搾取と支配に基づくものでした。この体制は不平等で、それ自体として正当化できず(en soi injustifiable)、パターナリズムと差別と人種主義を特徴とするものでした。そこから収奪と辱めとが惹き起こされたのです。/私はこのコンゴへの初めての旅の機会に、コンゴの人びとと今日なお苦痛を抱えておられる皆さんに、これら過去の傷に対する私の最も深い遺憾の意を、あらためて表明したいと思います」(フィリップ国王演説 20220608 キンシャサ)。ここでは、植民地支配のなかで行われた残虐行為、拷問、虐殺等はもちろんのこと、植民地体制そのものが不正であり正当化できないと、国王が認めているのですね。
次に、ベルギーのデ・クロー首相による演説です。コンゴを独立に導いた初代首相のルムンバという人がいるのですが、彼は独立当時の混乱のなかで暗殺された上に、その死体を硫酸で溶かされてしまい、唯一残った金歯はベルギーの官憲が持ち帰って保管していた。それを昨年6月に返還したときの演説から一部取り上げます。「奴隷制がそうであるように、植民地モデルも、それ自体として悪しきシステムです。それは間違いなくひとつのモデル、ひとつのシステムであって、わが国の歴史を恥ずべき仕方で汚したのです。私たちはそのことを率直に、ストレートに認めなければなりません。そうでなければ、私たちがかつて占領した国々、コンゴ、ルワンダ、ブルンジとの誠実で偽りのない関係を生きることはできないでしょう。/ベルギー政府は、統治とイデオロギーのシステムとしての植民地化(colonisation)をはっきりと告発します。コンゴについても、ブルンジについても、ルワンダについても、他のどこについても、そのことに変わりはありません。植民地化のシステムは、深刻な人権侵害とあらゆる種類の差別、そしてベルギー人によるアフリカ人へのまったく不適切な見方をもたらしてしまったのです」(デ・クロー首相演説 20220620 ブリュッセル)。
次は、女王エリザベス二世が唯一、文面で謝罪をしたというケースです。最初にニュージーランドを植民地化したとき、イギリスはニュージーランドの先住民マオリの人たちと、土地には手をつけないという条約を結んでいたのですが、その後イギリス軍が侵攻して土地を奪っていった。それが条約違反だったということで、ニュージーランド政府が作った法律の文言に署名するという形で、エリザベス女王が謝罪をしたわけです。「国王は、軍の侵攻が惹き起こした敵対関係と、その結果生じた所有権と社会生活の破壊によって失われた人命に対して、深い遺憾の意(profound regret)を表明し、無条件に謝罪いたします(apologises unreservedly)。国王は、その結果生じた土地と財産の没収が不正(wrongful)であったと認めます」(ワイカト・ライパツ請求和解法19951103ウェリントン[女王の署名])。
ドイツの例も見ておきましょう。ドイツについてはナチスの罪に対する反省が取り上げられてきていますが、ドイツもまたヨーロッパ列強の一員として植民地支配をしました。特に大きな問題になってきたのは、現在ナミビアとなっている地域の先住民であるヘレロ族、ナマ族の人たちを、ドイツが1904年―08年にかけて虐殺したことです(ヘレロ・ナマクア虐殺)。実はこれがホロコーストの起源であり、20世紀最初のジェノサイドではないかという議論が最近では一般化しているのですが、ナミビアの独立後、これについてヘレロ族やナマ族の人たちはドイツの責任を問い続けてきた。ナチス・ドイツの責任は認めたのに、すなわちユダヤ人、ヨーロッパ人には謝罪・補償するのに、自分たちに対しては罪を認めないのか、謝罪も補償もないのか、そういう問いがずっと向けられてきたのですね。次の文章は、ミュンテフェリング外務副大臣が、ドイツの博物館などに保管されていたヘレロとナマの人たちの遺骨を返還する式典で行なった長い演説の一節です。「わが政権の連立協定は、ドイツで初めて、植民地支配の歴史をそのすべての暗黒面を含めて再検討することを予定するものとなりました。これはドイツによる植民地支配の終焉まで数世代を遡ると同時に、今日なおその影響が感じられる過去への強力なコミットメントです。連邦外務省の国務大臣として、また連邦議会の一議員として、とりわけドイツの若い世代の代表として、私は、私たちドイツ人がこの歴史のあらゆる側面に向き合わなければならないし、その自覚をもたなければならないと確信しています。というのも、植民地支配の遺産と折り合いをつけるために、ドイツにはまだまだ多くのなすべきことがあるからです。/私たちドイツ人は、自らの歴史的‐政治的そして道徳的‐倫理的責任と、当時ドイツ人が自ら犯した罪を承認します。当時ドイツの名において犯された残虐行為は、今日ではジェノサイド(Völkermord)と呼ばれるところのものでした。〔中略〕私は深い哀しみとともに頭を垂れます。私たちの祖先が犯した恐るべき不正をなかったことにすることは、私にはできません。私はただ皆さんに心の底から赦し(Verzeihung)を乞います」(ミュンテフェリング外務副大臣演説 20180829 ベルリン)。歴史的 ― 政治的、道徳的 ― 倫理的責任だけで、法的責任と言っていないではないかというのがナミビア側の追及するところなのですが、少なくとも真摯に謝罪をしていることが伝わってくるようなスピーチではないかと思います。
その後もドイツとナミビアの政府は交渉を続け、一昨年、マース外務大臣がベルリンで声明を発表しました。「〔真の和解への共通の道を見出すためには〕現在ナミビアとなっている地でドイツの植民地支配下に起きたこと、とりわけ1904年 ―08年の蛮行を、手加減したり言い繕ったりすることなく、明確に名指さなければなりません。私たちは今、これらの出来事が何であったかを、今日の視点から正式にジェノサイドと呼ぶことにします。ドイツの歴史的道徳的責任に鑑みて、私たちはナミビアと犠牲者の子孫の皆さんに赦し(Vergebung)を乞います」(マース外相声明 20210528 ベルリン)。このように述べて、正式な補償ではないのですが、被害者たちの支援のために相当の額を拠出することを宣言するんですね。ただ、ヘレロ族とナマ族でもナミビア政府と一緒にドイツと交渉したグループはこの合意を受け容れているのですが、それに入らなかったナミビアの他のグループは満足できない。被害国の側でも政府と被害当事者たちとの関係が問題になるという点は、日本の場合からも容易に連想されると思います。
最後は、少し長い引用になるのですが、現在のシュタインマイヤー大統領のスピーチです。ベルリンにフンボルトフォーラムという新しい文化施設ができまして、これはかつてのプロイセンの王宮を再建し、そのなかに民俗学博物館やアジア美術館等いくつかの公共施設を入れて一大文化複合施設にしたものなのですが、実はそこに展示されているほとんどのものが植民地時代にドイツがアフリカから略奪したものだということで、ドイツ市民から抗議の運動が起きたんですね。そんななかでオープンしたフォーラムで、大統領が演説をした。非常に難しい場面だったと思うのですが、その内容に私は感銘を受けました。「私たちヨーロッパ人は、啓蒙(Aufklärung)の達成したものを正当にも誇ることができます。人間の尊厳、理性、自由を尊重することです。近代のリベラル・デモクラシーはこれらの価値に基礎を置いているからです。しかし、このフォーラムに名前が刻まれた人びとの志を真面目に受け止めるなら、啓蒙の理念を寿ことほぐだけであってはなりません。自らを啓蒙しなければならないのです。その意味は、啓蒙主義の歴史的現実と西洋近代の政治史を批判的に再検証することです。それによって私たちは、愉快とは言えない問いに導かれます。西洋近代は誰の肩の上に築かれたのか? どんなコストを払って、どんな矛盾や不正を犯して築かれたのか? その結果として、現代世界にどんな影響が残っているのか? /これらの問いこそ、巨大な力と切迫とともに今日の私たちの議論の中心にあるものです。あまりにも長きにわたって西洋の言論のなかに声を挙げられなかった人々の声なのです。西洋の発展の歴史の影の側に追いやられて生きてきた人びとの歴史であり、しばしば、今なおそこで生きている人々の歴史です。ブラック・ライブズ・マター、人種主義、差別、グローバルな正義、植民地からの略奪アート、これらすべての議論がいわゆるグローバル・サウスの国々で、そして今やここ〔ヨーロッパ〕でもアメリカでも起こっています。/私は思うのです。これらの議論が緊急に必要なのだと。私に言わせれば、これらの議論を『アイデンティティ・ポリティクス』などと言って斥しりぞけるのは、歴史的に間違っているだけでなく政治的に危険でもあります。恵まれない集団の自己顕示のための闘争だとか、社会的分断の手段だとか、『やつらとわれわれ』の二分法だとか言って、斥けてはならないのです。そうではなく、これらの問題は、啓蒙の精神において普遍的な問題なのです。〔中略〕ドイツの植民地支配時代は、私たちの集合的記憶のなかで、長らく、栄光化されるか忘れ去られるかのどちらかでした。私たちは、〔中略〕ドイツ人が植民地支配者として抑圧し、搾取し、盗み、殺戮したことを詳しく知ろうとは思わなかったのです。/この闇にもっと光を当てることは、単に歴史家の仕事であるだけではありません。植民地支配の時代にドイツ人が犯した不正は、社会としての私たち皆にかかわることです。なぜなら、わが国では今なお社会の中で日常的に、人種主義や差別やいわゆる外国人排斥から、物理的攻撃や酷い暴力行為までもが見られるからです。私は確信しています。私たちが日常的な人種主義の最も深い根を理解し、克服できるのは、ただ、私たちの記憶のこの盲点に光を当て、私たちの植民地支配の歴史と、より徹底した仕方で向き合う時のみであると。〔中略〕私は確信しています。文明の断絶であったショアーの記憶は、わが国のナショナル・メモリーにおいて唯一無比(einzigartig)であり、そうであり続けると。それはわが国のアイデンティティの一部です。〔中略〕ただ私は、こうも付け加えます。ホロコーストの記憶は、別の不正、別の苦しみへの共感的で自覚的な記憶を妨げるものではない!と。反対に、ショアーが私たちに遺した断絶の意識は、私たちの眼を歴史の前での責任へと開いてくれるでしょう。わが国の憲法が依拠する人間の尊厳とは、まさにすべての人間の尊厳なのです」(シュタインマイヤー大統領演説 20210922 ベルリン)。ドイツ基本法第一条で「人間の尊厳は不可侵である」というときの「人間」とは、ユダヤ人だけでもヨーロッパ人だけでもない全ての人間なのだから、ホロコーストの記憶だけでなく非植民地化された人々の尊厳にも同じように目を向けなければならないのだと言っています。「植民地支配の時代の犯罪、征服、抑圧、搾取、略奪、何万もの人びとの殺害は、私たちの記憶のなかに相応しい場所を必要としています。私たちはドイツの歴史のこの部分の前で、責任に向き合わなければならないのです」(同上)。このように大統領自ら、国民に、植民地支配の闇に向き合わなければならないと訴えている。ハト派の嘘ならぬタカ派の嘘に気づかれると思います。
一方、日本はといえば、90年代に若干反省的な歴史観が出てきたのですが、そこからただちに反動が起きてしまい、戦争責任についても植民地責任についても、とりわけ安倍政権の時代に大幅に後退してしまったという印象を否むことができません。
日本の首相の歴史認識に関わる発言は、これまで見ていただいたドイツやベルギーやオランダなどの首脳の発言に比べると、スピーチとしてそもそも短いですし、言葉も大変貧しいというのが本当に残念なのですが、そのなかではやはり、戦後50年を期して1995年8月15日に発表された村山富市首相談話がエポックメイキングであったと思います。というのもその後、政権が変わってもしばらくの間は、これが日本政府の立場であるとして繰り返し確認されてきたわけですね。小泉首相の靖国参拝も毎年繰り返されたのですが、抗議が出るたびに、歴史認識は村山首相談話の通りであると言ってかわしてきた。そのなかで最も重要な歴史認識に関わる部分がこれです。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意(my feelings of deep remorse)を表し、心からのお詫びの気持ち(my heartfelt apology)を表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」(村山富市首相談話 20100815)。ごく一般的な形で謝罪をしてはいますが、具体的にいつのことか、どこに対するどういう支配が問題だったのかということはないわけで、東京でこういう声明を出したことで、日本の支配や侵略を受けた地域の人々がどれほど納得できるのか。はなはだ疑問ではあります。先ほど見たドイツの首脳などは、ワルシャワとかモスクワとか色々なところに行って具体的に語っている。そうしたものに比べると到底満足できるものではないのですが、それまでは正当な統治だったと言って植民地支配したこと自体を認めていなかったのですから、ようやく90年代になって植民地支配という言葉が首相の口から出るようになったわけです。
これが政府の立場として踏襲されていた時期、菅直人首相が韓国併合百周年の年に、韓国に向けて声明、談話を出しました。これは韓国に向けているので比較的具体的ですが、しかしその内容は、欧州諸国に比べるとまだまだ曖昧です。「この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします」(菅直人首相談話 20150815)。文言としては村山談話を引用しているような形ですね。
問題は、戦後70周年の安倍首相談話です。そこでも「植民地支配」という言葉は繰り返されていますし、「侵略」という言葉も入っています。しかしよく読んでみると、「侵略」は一箇所しか出てきませんし、「植民地支配」は何度も出てきますが、いずれも日本が行った行為として明示されては全く出てこない。安倍氏は、どうしても自分の口からは言いたくなかったのだろうと思います。「事変、侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」(安倍晋三首相談話 20150815)と言ってはいますが、日本を主語にはしていないのです。村山談話から大きく後退していると言わざるをえません。「徴用工」問題についても、韓国最高裁では国際人道法上の非人道的行為だと認定した上で日本の責任を判断したのに対して、いや六五年でもう終わったのだと言っているわけですから六五年、つまり植民地支配という言葉を使わなかった時代にまで後退してしまったとすら言えるのではないか。それが私たちの国の歴史認識に関する現在地であると、残念ながら言わざるをえません。
Ⅵ 未来に向けて
さて、歴史に関わる問題と切り離せないことですが、戦争というものがどんどん切迫してきているというのが、昨年一年間の実感だったのではと思います。2月24日、ロシア軍がウクライナに全面侵攻。そして、次は東アジアだと、中国が台湾に軍事侵攻したらどうなるのかと盛んに言われるようになりました。「台湾有事は日本有事である」と安倍元首相が発言したように、「台湾有事」に関わる動きが大きく迫り出してきた。そしてまた朝鮮半島では、「北朝鮮」が繰り返しミサイル発射実験をしている。こうして日本の周辺が非常にきな臭くなってきています。それに対応すると称して、日本の政府は軍事力をどんどん強化する方向で政治を進めようとしていて、昨年末に閣議決定された安保3文書では、中国が明確に敵視されています。最も注目されるのが敵基地攻撃能力というもので、相手国が日本へのミサイル発射に着手したことが分かった時には、その基地を叩くことが可能になるようにすると、これまでの専守防衛政策を大きくはみ出すものです。これまでは日米安保体制のもとで米軍に委ねてきた「矛」の役割を、日本の自衛隊が担うようになる。専守防衛とは、攻撃されたときに初めてその領域の周辺で反撃し相手を撃退するという「盾」の役割だったのに、同時に「矛」の役割も担うようになるのでは、専守防衛を逸脱することにならざるをえない。
そして、ご承知の通りの大軍拡、大増税です。GDP1%枠の軍事費を2%に近づけていくということで、そうするとこの4、5年の間に40兆円を超えるような防衛費になっていく。そのための財源を増税で賄うと。今、世界の軍事力ランキングを見ると、日本はアメリカ、ロシア、中国、インドに次ぐ第5位です(「ワールド・ファイア・パワー」ランキング2022年度)。安保理事会常任理事国で核を保有しているフランスやイギリスよりも軍事力として大きいと言われていて、明らかに軍事大国です。さらに大増税によって軍拡が行われると世界3位の軍事費になって、もう戦前以上の軍事大国になってしまうのではないか。平和憲法下でこれも明らかに矛盾したことですが、しかしそれが公然と行われている。
それから防衛省の世論工作。これは共同通信が報道したのですが、防衛省がAIやSNSなどを使って世論工作の準備をしていることが明らかになった。怖いことだと思います。加えて、防衛省「オピニオンリーダー」という名称で26名、各界から任命されているとのことです。たとえば、羽生善治九段が防衛省「オピニオンリーダー」として任命されたと自らその「名誉」を語っていますが、そういう有名人を使って防衛省の政策をこれから国民に訴えていくということになるのでしょう。
特定秘密漏洩事件なるものも起きました。自衛隊中堅将校が、元自衛隊トップに特定秘密を話したことで処分されたのですが、これは一種の「粛軍」、つまり軍の綱紀粛清という狙いがあるのではないかと考えられます。戦争準備としては不可欠のピースですね。
こういう流れを見ると、明らかに「戦争」が迫り出してきていると実感するわけですね。戦後民主主義はどうなってしまったのか。護憲派はもう終わったのか。というのも、こういう流れが、大きな反対や抗議の声が上がらないなかで淡々と進んでいるという状況だからです。2014年から15年にかけて集団的自衛権、安保法制が出てきたときには大きな抗議、反対の声が上がりました。今ほとんどそういう声が上がっていないですね。そういうなかで、おそらく戦後最大の安全保障政策の転換が起きている。これが私たちの現在地だと思うのです。ハト派の側で軍事評論家として活躍してきた前田哲男氏は東京新聞で、今回の敵基地攻撃能力を含む安保3文書の閣議決定によって「専守防衛は死んだと言わざるをえない」と述べています。雑誌『世界』の2023年2月号では阪田雅裕氏、この人は安倍首相によって政治利用される前の時代に内閣法制局の長官を務めていた人ですが、憲法9条はこれで完全に死ぬことになると、こういうことをするのであれば9条を改正しなければならない、今の状態は立憲主義から完全に外れていると、批判的に述べています。私も全く同感です。『世界』という戦後民主主義、平和主義のオピニオンリーダーだった雑誌の目次に「憲法9条の死」という題名の論考が載る。こういう時代になったのです。
私としてはまず、徹底してリアルに考える、現実的に考えるという立場をとりたい。9条についても、私は実は、必ずしも絶対化するという立場ではありませんでした。基本的に「護憲派」として生きてきて、9条改正には一貫して反対してきましたが、9条はあくまで法ですから、改正されることも当然ありうるわけで、改正されたら終わりということではない。問題は9条の根源にある、平和に対する私たちの求めということであって、9条が改正されたら、あるいはよりふさわしい平和主義の形を作るということもありえないとは言えないわけです。もちろん、特に戦時下を経験した世代には、9条をいわば生きる支えにして戦後を生きてきた人もおられるわけで、そうした世代的な経験は理解できますが、私自身は、憲法9条を絶対化することには違和感も持っていました。
9条は二つの項からなっています。第一項で戦争放棄、第二項でその目的を実現するための戦力不保持ですが、この一項の戦争放棄は国連憲章と同じです。国連憲章でも武力の行使、武力による威嚇は違法です。ただし加盟国が侵略された時には、国連がそれに対応できるようになるまで、侵略を受けた国が自衛のために自衛権を行使する、集団的自衛権も含めて対応することについて、これを認めているだけです。国際法上、戦争は違法化されている。9条二項は戦力不保持を定めていますが、言うまでもなくこれは自衛隊の存在と矛盾していて、現在もう世界第5位の軍事大国ですから、戦力を持たないと言っても海外で信用されるはずはない。敵基地攻撃能力の保有が最後のトドメになるでしょう。専守防衛と言ってきましたが、これも要するに自衛隊を合憲として認めるための理屈です。一方でしかし、現実的に考えた場合、専守防衛で「国民」の生命、財産を守ることが可能なのか。専守防衛は、敵が攻撃してきたらこちらは日本の領域内にとどまる範囲内で反撃するというものです。これはある意味で、現在ウクライナが置かれている状況と似ています。最近はロシア領内の基地もいくつか攻撃して新しい状況になっていますが、ウクライナはずっと、ロシア領域を攻撃することはWWⅢになりかねないとして自制してきた。東部やクリミアなど内部に入ってこられたので、それを打ち返すことに専念してきたわけです。しかし、専守防衛をやっていて、どれだけのウクライナ人が被害を受けてきたか。そういう教訓をウクライナの事態は示しているのではないかと思います。その意味で私たちは、9条も専守防衛も「死んだ」状況で、ゼロから考え直す必要に迫られているのではないか。それが私の今の考えなんですね。
戦後平和主義には、いくつか限界があったと私は思ってきました。まず、非武装条項を含む憲法9条は、昭和天皇の戦争責任を免責するための取引として日本が受け入れたものでした。占領中のGHQとのやり取りで、事実上、9条の非武装をとるか天皇が裁かれるのをとるかを迫られ、そこで天皇を免責するために9条を受け入れたのが当時の日本政府でした。9条はそこで、日本が二度と脅威になることがないように、再武装を禁止するビンの蓋という意味を持っていました。
次に、天皇メッセージとマッカーサー発言です。天皇メッセージは1970年代末に公開されたのですが、昭和天皇が1947年9月、マッカーサーに、沖縄の軍事占領を「25年ないし50年ないしそれ以上にわたって」続けてほしい、そのほうが日本の防衛に役立つしアメリカにとっても利益になるという希望を伝えていたんですね。「皇軍」が武装解除されて丸裸になった天皇がどうやって天皇制および天皇制国家を守っていくかというときに、アメリカに頼るという選択をした。9条で非武装化されたので沖縄を犠牲にしようとしたわけです。では、マッカーサー発言とは何か。同じく47年、ソ連の脅威が増大していくなかで、アメリカ本国の国務省や国防省から日本再武装の可能性を打診されたマッカーサーは、その必要はない、沖縄に強力な空軍基地を置けばアジア大陸の攻撃から日本を守ることができるから日本は非武装でいいと答えた。つまり憲法9条は、最初から沖縄の軍事要塞化とセットだったとも言えるわけですね。
それから、砂川事件最高裁判決(1959)がありました。これは当時あった米軍立川基地に立ち入ったことで訴えられた人たちの裁判ですが、最終的に最高裁は、駐留米軍は日本の支配下、管理下にないため、これは憲法9条で禁止されている「戦力」にはあたらない、また、日米安保条約のような高次の政治判断に属する事柄については裁判所の関わるところではないとして、安保体制が違憲であるという一審の判断を覆します。この判決は、いわゆる「統治行為論」の形で安保体制についての国民の責任を問うているのだとも言えます。つまり、司法では決められないので政治で決めてくださいと言っているわけですから、政治的な主権者である日本国民に、日米安保体制はこれでいいのかと投げかけているということです。
もちろん私は、憲法9条がいくつか限界を抱えてきたからといって、これが無意味だとか、「護憲」活動は無駄であったなどというつもりは全くありません。9条がなかったら日本は韓国軍のような形でベトナム戦争に参加していたでしょうし、9条には日本の自衛隊が海外で戦争するのを抑止してきた功績があるのは事実なのですが、しかし9条があっても、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、対テロ戦争等で、日本の基地は米軍の戦争を支え、米軍の出撃基地になってきた。憲法9条が今日まで一字一句変わっていないのに、日本列島はいまや米軍と自衛隊による軍事要塞のようになりつつある。そのなかで沖縄の犠牲が続いている。これが現状ではないかと思うのです。
私は、日米安保体制のなかにいる限り、日本が自立した民主主義国家であるとは言えないと思います。50年にダレスがマッカーサーに語った記録が残っていて、「日本の全領域がアメリカの防衛作戦のための潜在的な基地と見なされなければならず、無制限の自由が防衛力を行使する米軍司令官に与えられなければならない」(23 June 1950, Memorandum on concept governing security in post-war Japan, Top secret)というのです。もちろん住民がいるので米軍が何もかも勝手にやることはできないのですが、しかし条約上は、日本全土が米軍の潜在的な基地なのです。これを「全土基地方式」といいます。80年代に中曽根首相が、日本を不沈空母にすると言って物議を醸したことがありましたが、これはまさに日米安保体制の考え方そのものなのです。アメリカから見れば日本列島は、かつては対ソ連の、今は対中国の不沈空母であって、そこに世界最強の米軍と世界第5位の軍事力を持つ自衛隊がいる。それが私たちの現実なんですね。
さらにいえば、新旧いずれの安保条約にも、これは日本の防衛だけではなくて、「極東における国際の平和と安全」に寄与するものだと書かれています。最初から、朝鮮半島など日本の領域外をも対象として日米安保条約は成り立っている。冷戦終結後にはそれがだんだんグローバル化していって、96年の日米安保共同宣言では「アジア太平洋地域」、その後「日米同盟のグローバルな性質」が強調されるようになる。今や論理的には、地球の裏側にも自衛隊は出動して、米軍と一体の行動をすることができるようになってしまった。
日本が今、NATOに急接近していることも見逃せません。ウクライナ戦争が始まってから、林外務大臣がNATOの外相会議に出席、岸田首相もNATOの首脳会議に参加しましたし、自衛隊の山崎統合幕僚会議議長がNATOの参謀長会議に参加したりしています。日本はアジアにおけるNATOのパートナー国なんですね。事実上、準加盟国のような位置づけにこれからなっていくのではと思いますが、ウクライナはロシアから攻撃されたときにやはりそういう状況でした。アメリカやイギリスが軍事顧問団を派遣したり軍事訓練をウクライナ軍に施したり、ウクライナ軍を交えた軍事演習をやったりしていました。プーチンはNATOがウクライナまで拡大するのではないかという不安からああいう行動に出たとも言われています。岸田首相の行動から明らかであるように、日本は日米同盟を強化して、何の疑問も躊躇もなく、アメリカと同じ行動をとろうとしている。その延長上で、どんどんNATOに入りこんでいる。NATOの側も、中国への警戒感から軍艦を太平洋に派遣したりしています。ということになると、私はWWⅢの構図が今、できつつあるような気がしてなりません。WWⅡでもドイツを中心としてヨーロッパが戦場になった。アジアでは日本が戦場を作り出した。それと同じように今、ヨーロッパではNATOがあってロシアと対峙している。東アジアではNATOのパートナー国として、日本、韓国、オーストラリアなどが中国に対峙するという形になっている。アメリカから見ると、東のほうに大西洋を挟んでNATOがあり、西のほうには太平洋を挟み、中国に対する防波堤として日本や韓国やオーストラリアがある。こういう構図ですね。これはどうしても、WWⅢを連想させます。
久間(きゅうま)元防衛庁長官・元防衛大臣の書物から引用します。「誤解を恐れずに言うと、在日米軍はもう日本を守っていないのだ。〔中略〕在日米軍基地は日本の防衛のためというより、『不安定の弧』といわれる中東から中国を含む東アジアにかけて展開する米軍のための最大拠点と見た方が正しい」(久間章生『安保戦略改造論』2018)。つまり日本は、グローバルに展開するアメリカ、NATOの一つの駒として、東アジアのNATO支部のような形でこれからアメリカの戦争につきあわされるのではないか。そのことに、日本の今の政治指導者は何の疑いも持っていないように見えるのが怖いのです。
日本を軍事力で守ることは不可能であるというのが、リアルに考えた場合の私の認識です。敵基地攻撃と言いますが、敵基地攻撃をして中国と戦うためには、日本列島をミサイル基地化するしかないと思います。事実、アメリカのミリー統合参謀本部議長は、東アジアにアメリカのミサイルを集中的に配備する、その最適地は日本であると言っています。日本のほとんどにミサイルが配備されて、中国とミサイル戦争になることを、みなさん想像したらどうなるでしょうか。日中戦争はミサイルの撃ち合いになる。台湾や沖縄や日本がミサイル撃ち合いの戦場になる。するとやはり、ウクライナ戦争におけるウクライナのような状況になっていく。原発が50基以上ありますね。日本海側にもたくさんあります。原発が攻撃されたら終わりだとずっと言われてきましたが、ウクライナ戦争では実際に原発が危うい状況になった。原発を攻撃したら日本を占領しても意味がないからそんな愚かなことはしない、原発は攻撃されないはずだという議論もありますが、中国を仮想敵国とした場合、日本を占領するメリットがどれだけあるのか。日本を攻撃する狙いがあくまで、米軍の基地としての日本を叩くことによってリスクをなくすことにあるとすれば、原発を攻撃するだけで十分に効果は達成されると思われるわけです。原発列島はあまりにも脆弱ですし、こんなところでミサイル戦争など狂気の沙汰のように思われます。
では、どうするのか。日本は日米同盟、日米安保体制によってアメリカに従属していて、「永続敗戦」(白井 聡)の状況に置かれているも同然であり、そのなかで沖縄が一貫して犠牲になっている。そのように考えると、やはり日米安保体制をいずれは解消するというビジョンを持っていないと、日本の政治家は困るのではないか。1950年代は自民党の政治家でも、対米従属を敗戦後しばらくは仕方ないという暫定的なものとして考えていた面があったと思うのですが、もうそうではなくなってしまっている。根本問題はここにあると言わざるをえません。そうしないと日本は、いつまで経っても自立した外交や安全保障ができない。現状、米中対立が高まっているとするなら、一方に日中平和友好条約があるわけですから、他方で日米安保条約を解消して日米平和友好条約にして、非同盟の立場をとる。非武装中立というと、今ではお花畑かと必ず言われるわけですが、理念として最終目標としてはそれを捨てるべきではない。ただ、繰り返しますが、現状、強大な「日米同盟軍」が現存する。近い将来、「非武装」を公約とした政権ができる可能性はまずありませんし、仮にできたとしても、「日米同盟軍」が黙っているかどうか。自衛隊だけでも、世界第5位などという軍事組織を解散させる、あるいは少なくとも大幅縮減するとなったら、そのリスクは小さくありません。つまり、今や「軍縮」するだけでも、「日米同盟軍」を敵に回す覚悟がいるだろうということです。ですので、様々な条件をクリアしていった果てに、日本の有権者の選択として軽武装かつ非同盟というところまで行ければ、私は大成功だと思います。現実には、この20年来、日米同盟支持が世論の8割を超えている。政府も国会も経済界も主要メディアも、ほとんどすべてが日米同盟を前提に動いている。そのなかで朝鮮半島では緊張が続いていますし、日中関係でも緊張が増大している。そういう状況ですから、ただちに目標までいくことはとてもできない。私たちは「暗がり」のなかにいる。「暗がり」のなかから少しでも光を見出すためには、一つ一つクリアしていかなければいけない。
もう一つの基本としては、東アジアが平和にならなければ日本の平和もないということがあります。現在世論調査では、中国、朝鮮民主主義人民共和国、ロシア、核兵器を持っているこれら三つの国に対して日本国民は圧倒的な不信感を持っている。そういうなかで、これらの国々とも相互の信頼関係を作っていくためには、まずは戦争責任や植民地支配責任、つまり戦後責任を明確にして、謝罪や補償を可能な限り行なっていく必要がある。ドイツの首脳などが言っていた「終わりなき責任」の中核には記憶の義務があります。忘れないことによって、二度と繰り返さないと言うことができる。
中国に対しては、やはり72年の日中共同声明に立ち返ることが重要だと思います。今はもうほとんど言及されることがないのですが、これを読んでいただくと、どういう約束を持って日本と中国が戦後国交を開いたかが書いてあります。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。〔中略〕日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。/二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。/三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 19720929)。ポツダム宣言第八項というのはカイロ宣言を遵守するという内容で、カイロ宣言では、日本が日清戦争以来「盗み取った」ものを全て返すなかで、台湾は中国に返すということになっています。「五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。/六 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。/両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。/七 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」(同上)。こういうお互いの約束をもって貿易その他の関係を回復したのですから、ここに立ち戻ることが、まずは必要だというのが私の立場です。領土問題はかつてそうであったように棚上げし、同時に、国際人権法上の諸問題についてはしっかり討議をしていくことが重要だと思います。日中関係が相互信頼の状態に戻らないと、見通しは開けないということですね。
台湾については、台湾の人々が今は現状維持を望んでいますので、独立宣言さえしなければ中国も武力による攻撃はしにくい。日本人の私たちとしては、台湾の独自の歴史を十分に知った上で、そこにはもちろん日本による植民地支配が重要な歴史として入っているわけですが、それを尊重していく責任があると思います。
朝鮮民主主義人民共和国については、核開発、拉致問題はたしかに朝鮮側の問題ですが、当然これは平和的に解決されるべき問題で、私はまず日朝平壌宣言に立ち返ることが重要ではないかと思います。これを今そのまま使うことは難しいかもしれませんが、何といってもアメリカがいるなかで日本の首相が平壌に飛んで国交正常化を決めた。日朝平壌宣言の二番の文章を見ていただくと、「二.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」(日朝平壌宣言 20020917)と書かれている。つまり、「北朝鮮」に対しては、村山談話の基本的な認識が正式に政府間の文書で繰り返されているわけです。韓国に対してはこれを行っていない。これは小泉政権が行ったことで唯一評価できることではないかと思っていたのですが、残念ながらその後の拉致問題の展開でうやむやになってしまった。日本では朝鮮学校に対する差別問題がいまだに続いています。これも明らかに問題ですので停止しなければいけない。
韓国については「慰安婦」問題、「徴用工」問題を含む植民地支配責任を明確にして、また在日コリアンの人々に対するヘイトスピーチ、ヘイトクライムをなくしていく。ドイツを含めヨーロッパの首脳の発言を参照しましたが、現在の私たちの社会にある人種差別は、いずれもやはり植民地主義に淵源している。植民地支配の歴史を精算しないがゆえに、そこで形成された人種差別、差別的な偏見が今日も旧植民地出身の人々を苦しめているのだと、そういう認識は日本についても妥当するわけです。
平凡な結論になりますが、市民間の交流や外交を通じて東アジアでの相互信頼関係を作っていく、そのとき日本としては、かつての侵略や植民地支配の責任をどういう形で表明していくかが欠かせないテーマになると思います。そして、そういう周辺諸国との関係を改善しつつ日本の軍事化に歯止めをかけて、市民生活や教育、社会保障に重点を置くような国に変えていく。そういうことが、私たちの現在地を確認したところで、考えられる取り組みなのではないかと思います。憲法9条を守る、つまりその文言を変えさせないための政治行動も、もちろんまだできます。選挙のときにもできますし、仮に国会で改正案が発議されたとしても、国民投票で投票することはまだできるわけですが、繰り返しますように、憲法9条が全てではない。9条の元になる私たちの経験と思想、これが根源でなければならないと私は思っています。
ドイツ基本法の第一条には、「(一) 人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。/(二) ドイツ国民は、それゆえに、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める」とあります。つまり、国家権力というのは、不可侵な人間の尊厳を尊重し、保護するためにあるのだから、人権を侵害するような国家権力というのはありえないわけです。とても羨ましいなと思います。
最後、参考までに3つの文章を挙げておきました。まず丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」から有名な一節を引用しておきます。「日本軍国主義に終止符が打たれた8・15の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や初めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである」。ここで丸山は、8・15の日に日本国民は「自由なる主体」になったと言っています。そう言いたくなる気持ちは分かるのですが、しかし明治から敗戦までの間に形作られた日本国民の「地金」が、果たして敗戦に至って一瞬で消え去り、突然「自由なる主体」となるものだろうか。そういう希望を込めた言葉と考えることももちろんできますが、時期尚早だったのではないか。今から考えるとそう思えるのです。
同じ時期に高見順、この人は反戦でもリベラルでもない保守的な作家ですが、その『敗戦日記』にこういう一節があります。「これでもう何でも自由に書けるのである! これでもう何でも自由に出版できるのである! 生まれて初めての自由!/自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、 ― かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥ずかしい。〔中略〕自国の政府が自国民の自由を、 ― ほとんどあらゆる自由を剝奪していて、そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥ずかしいことだろう」。保守的と思える作家でもこういう認識があった。しかし、この認識でもまだ足りないと思います。自由は他国の軍隊ではなく自国の政府によって与えられるべきであったと言いますが、政府によって与えられる自由というのは本当の自由なのか。むしろ、政府に認めさせるような自由こそが、立憲主義のもとになる自由ではないのか。そう考えると、まだまだだなという感じがします。
最後に森 有正の「霧の朝」から一節を引いておきました。私自身は十代の頃に森 有正を愛読し、とても強い影響を受けました。ヨーロッパ、フランスなどの思想を専攻するようになった一つの強いきっかけでした。当時は『遥かなノートルダム』に入っていた文章ですが、そのなかに繰り返し出てくるモチーフの一つが、これです。「考えてみるがよい。中共は武装し、原子力までもつようになった。ソ連はいうまでもない。フランスまで原子力で武装をはじめた。非戦主義のインドがパキスタンに攻めこんだ。平和憲法に保障された日本で内心それらの国が自国よりすぐれた国だと思っている人がたくさんいる。ことに平和主義者にそれが多い。他方平和主義国であるはずの日本が民主主義的に選ばれた政府の手で米軍に基地を提供している。こういう苛烈な現実の中で、平和がどれだけ困難なものであるか、一度、平和そのものの根拠にまで掘り下げて根本的に疑って出直さないと非常にあぶないのである。旅先で外国人から戦争抛棄を褒められて悦に入っているなど問題外の醜態である。憲法が戦争を抛棄したから急に平和が大切になるのは全く逆で、法律などあってもなくても、平和が大切なのであり、敗戦があったろうがなかったろうが、平和は大切なのである。〔中略〕自由は自由主義、政治、経済、文化上の一つの主張としての自由主義とは何の関係もないものである。平和が平和憲法の結果ではなく、その根源でなければならないように」。こういう文章は、今でも読むに堪える真実を突いた文章ではないかと思います。ここで言われていることは、今の私の思いと重なります。
というわけで、「9条は死んだ」とか「専守防衛は死んだ」と言われていますが、平和を目指す私たちの生活、行動は死んでいない。死ぬわけにはいかない。「暗がり」のなかで少しでも前に進めていきたいと思います。
(東京大学名誉教授)