険しく孤独なる「一筋の道」 片柳 榮一
【誌上 京阪神修養会 講演3】
井川 満さんの尽力による『奥田成孝先生共助誌掲載記事選集「一筋の道」を辿る』の文章をあらためて読み返してみて、森 明との出会いについて語り、森の要請に応えて京都にとどまりつづけた先生の生涯の「一筋の道」の険しさとその尾根を進みゆく先生の孤独がしみじみと思われた。勿論先生は信仰の良き友を多く与えられ、深い感謝のうちにあったとはいえである。ふと小笠原 亮一先生の言葉が思いだされた。先生は奥田先生への告別の辞のなかで、お棺に入れられた奥田先生のお顔に、近づきがたい気品としかし同時に言い知れぬ憂い、悲哀が漂っているのを感じざるを得なかったと述べておられた。小笠原先生が感じられたという奥田先生の顔の「憂い」に通じるものを、思うのである。確かにこの小笠原先生の眼差しそのものが、小笠原先生の生涯の厳しい孤独の歩みの中で共鳴して生み出されたものであり、その何十分の一も私には分かっていないことを承知のうえで敢えて言うのだが。奥田先生が面しておられた孤独は、ひとえに、先生が森との出会いによって指示された「一筋の道」が尋常なものでなかったことにあると思う。それは次のことに由来しよう。
一つは、森 明との出会いが比類ない一回性をもっていたことである。もう一つは、森によって示された主イエスの生命の瑞々しさに与り続けることの難しさにある。その困難さはさらに(イ) それが根本的には一人一人の個人の生命の源に関わるからであり、(ロ)その生命は友情の内に滲み出るからである。(ハ)更にそうした同志的共同体を越えて、異他的なものを含む国家、民族などの共同体に関わるものだからである。これらについてすこし考えてみたい。
(1)
奥田先生にとって運命の人ともいうべき森 明との出会い、それはどんな言葉を用いても言い尽くしえないような重さと豊かさをもっており、それは奥田先生自身にとっても思いもよらないものであり、いわば自分の人生を捻じ曲げられるような経験であったという。そしてそれは他人がそれを真似るということもできないような一回性をもっており、その意味で、人に語りえない人生の秘義ともいえるものである。
しかし奥田先生がその意義をなお言葉にしうるのは、この出会いが「魂の人との出会い」として先生に明らかになってきている故であると言えよう。それが魂としての人格に関わることであったが故に、私たちすべてのものにも関わる普遍的な出来
事として現在の我々にも関わってくるのである。
先生は森 明を「魂の人 森 明」(前掲書64頁)と呼んでいる。「併しその(先生の)天与の賜を真に生かし、深きものとして大成せしめたものは、申すまもなくキリストの贖ひの恵みに生きられると共に、主がその接する魂に対してとられた御態度、それに実に深く注意を向けられて、その消息を探り求められ、単に探りもとめられただけでなくしてそれを血みどろになって自らその跡に従って生きられたさういふ所に先生の深い所があったのではなからうかと思ふのであります」(65頁)。少し言い換て「魂に迫る人」とも言っている。「『魂に迫りくる人』という印象を更に具体的にいうならば、私共の魂を揺さぶり動かしてキリストにまで導かずにはおかぬ迫るものがあったという印象である。これは先生の説教においても個人的接触に於いても等しく強く感じたことであった」(89頁)。このように森 明が魂に迫ってくるのは、森自身の在り方の根本からくる。森の文章「真理を活かす能力」から引用する。「真理は人格に密接な関係がありながら人格ではないから義務の観念だけが働けば真理は生きるものとは言へない。強ひられた真理の実現には生命がない、真理は愛によって温められることによって初めて生きて来る。愛の精神に深められたる人格的努力が真理を生かす力となるのである」(66頁)。森を突き動かしているのは、魂の命ともいうべき愛なのである。そして森にとってキリストは、まさにこの愛の「源」なのである。「嘗て先生との或る会話の節に何故に主イエスを信じるかと云う話が出たことがあります。其の時に先生はあの主をなつかしむやうな、うるんだまなざしを以て『主がさうすることをのぞみ給ふからだ』と答へられたのを覚えて居ります。如何に先生の恩寵の経験が愛の純粋性の深みにまで聖別されて居たかを深く思ふのであります」(6頁)。
しかし奥田先生は個人崇拝には断じて陥っていない。これは私たちが常に学ばなければならないことである。先生は森 明に道を示され、いわば人生を曲げられるような出会いを経験したのであるが、他面きっぱり語る。「しかしともかくその経験の中にたって大変不遜な僭越ないい方かもしれないが他面森 明も一つの足がかり、彼は彼、私は私である。親鸞があれ程法然を尊敬しながら彼の唱える念仏、それに基く信と自分のそれとは変わりないといって周囲から不遜であると非難された。……その意味で森 明は恩師であり、かけがえのない信仰の導き手であったが彼は彼、私は私という。これは私の信仰が何か一人前になったからというのではない。それはキリスト・イエスに在る神の恵みの絶大さにあるといわねばならない」( 119頁)。
(2)
奥田先生の「一筋の道」を険しくしているのは、さらに森によって示された主イエスの生命の瑞々しさに与り続けることの難しさにある。その困難さはさらに(イ)それが根本的には一人一人の個人の生命の源に関わるからである。奥田先生は森 明との出会いの意味をくりかえし問い直し、森より教えられ学びえた唯一のこととして次のように語る。「先生は私共に何を教へられたか。教へらるゝ多くを持たれた先生ではあったが、我らは多くを学び得なかった。只一つ全生命を打ち込んで我らに教へ示されたのは基督に対する我らの態度であった。先生が物された共助会趣旨の一節に『共助会は基督の外全く自由独立の団体である』とある。之何はとまれ基督に対してのみは絶対の服従こそ求められたに外ならない。基督の十字架の救いの恵みに対して無限の而も厳かなる感激の情を捧げ、至上の忠誠を尽くされたのは先生の信仰生活の中心であった」( 11頁)。奥田先生にとっての信仰はこのように、キリストの無限の恵みへの全身全霊を傾けての応答であり、それは最も根本的な人間の主体的行為であることになる。するとそれは人間の「業」であり、人間が自分のものとして、誇りうるものではないのかとの問いが当然生じる。これに対し奥田先生は深く考えをめぐらせておられる。「『信仰は人間の働き、態度としての従順』といふことは、人の品性としての従順、道徳的努力としての従順を云ふのではない。……信仰は『我らがなほ罪人たりし時、キリスト我らのため死に給ひしに由りて、神は我らに対する愛をあらはし給へる』、その神の業であり、愛の業である。……この内に働く神の工わざによりて呼び醒され、新たにあたへられた姿として、従順、服従、信頼は神の働きに対しては人の働き、態度といふことをえよう」(46頁)。奥田先生はこのような神の呼びかけへの応答としての信仰において神の前に立つという深い個の自覚を持っておられた。森先生からこのことを深く示されたのではあるが、それに先立ち内村からそれを教えられたと語られる。「内村先生の信仰生涯を通して強く示されたことは神の前に立つ『個』ということであったと思う。しばしば無教会主義の主張をされた点から教会の側からは先生の信仰を個人主義として片づけてしまったように思う。しかし私はそうは思わない」(136頁)。奥田先生にとって「神の前に立つ個」というのは、それがなくては信仰そのものが成り立ちえない条件、キリスト教信仰がそこで始めて成り立つ不可欠の基盤なのである。(ロ)このように内村から信仰の最も基礎となるものを示されたと考えながらも、奥田先生にとっては森 明の存在がこの内村の示しによって一層貴重になったとの思いがある。「森 明先生は同じ神の前に立つ『個』ということであるが私共とるに足りぬもの、弱きもの一人だちのできぬもの、それを一人一人心にとめ、如何にもして神の前に一人の存在としてたたしめ神に喜ばれるものとせしめんとせられたか。その人が教会にとって役立つとか神学的能力があるからとか、そんな観点からのものとちがって純粋にキリストの愛のもとその弱き者、欠けたるものを生かし立たしめんとせられた。……内村先生を通して示された神の前にたつ『個』という信仰経験が、私なりに自分の経験となり生命となるについて森 明先生を通して示されたキリストに在る友情ということをいわねばならないと思う」( 136頁)。確かに「友情」という言葉は、私たち後の世代の者にとっては、大正教養主義、或いは白樺派的な臭いを覚えざるを得ない面があるが、森にとって、また奥田先生にとってはそれをはるかに越えたところで問題になっていることを今思う。
(3)
(ハ)奥田先生の道を更に孤独な険しい道にしているのは、森および奥田におけるキリストへの信仰の従順が、単なる個人的事柄ではなかったことに由る。しかもそれは単に信仰が個人を越えて、他者との友情へと滲出て、個と個をつなぐいわば実存共同体を形成するというにとどまらない。友情の共同体は基本的には信仰を同じくする仲間同志によって形成されるものであるが、森も奥田先生も、そのような同志的結合の団体をさらに超えた、国家や民族としての共同体を見据えている。それはこの人たちが生まれ育った明治大正の日本の根本的なエートスに基づくというだけでもないであろう。19世紀までの近代思想の基本的出発点が個人であったのに対して、20世紀思想の共通する特徴は、個人を越え、個人もそこから生まれ出るものとしての全体を認め、そこから出発することであるとは、20世紀の初頭、新しい世紀を迎えた人々の共通認識であったようである。そのような雰囲気の中で、森も奥田先生も育っていったといえよう。そのようなものとしての国家、社会、民族としての共同体を見据えているのである。奥田先生は森 明の民族観に触れながら、これは森 明の独特の考えというのではなく、聖書の真理に根ざしたものであると述べて次のように語る。「神はその経綸の実現に際して世界の諸民族の中からイスラエル民族をえらばれた。申命記が記すようにいと小さきとるにたりぬ民族であったという。それを世界の諸民族の中から代表的民族としてえらばれた。更にその民族の中から代表的人格として預言者を呼び出されている。更にその真理はイエス・キリストに至ってきわまるといえる。その消息の下世界の諸民族は神の前によびだされ、たたされている。期待をもって顧みられ、呼び求められている。我が民族も又然り。教会は、キリスト教団体は、又共助会もその経綸の消息の中にたたされている。森 明は共助会中にその聖書の真理を生涯かけ人格的存在として生き倒れたのである」(127頁)。奥田先生は森明の自らに対する深く直接心に届く慰めに満ちた友情を単に個人的なものとは解していない。「受洗後間も無く京都に来てからは、同年の秋に先生によって共助会の京都伝道が行われ、翌13年には京都に共助会支部が創立せらるゝに及んで、先生との交わりは一段と深められ、公的なものへと進められた。実に先生よりうけた友情は身に余るものであった。併しそれは、個人としての私に対する友情であるよりは、主のため祖国の救いのために建てられた共助会の使命の故に、この様な身をも用いて主の栄光にあづからしめんとせらるゝの友情であった。このことを思ひて私は終生の感謝を禁じえない所である」(20頁)。
奥田先生の祖国日本を思い、憂うる愛国の情は単なる民族主義者のそれとは異なる。民族主義の熱狂が共助会の中からも吹き上がろうとしていた1937年の「天上の栄光と戦ひの教会」において、ヨハネ黙示録最後の「新しき天と新しき地とを見たり」との言葉に触発されながら述べている。「而して聖にして大いなるこの幻に我らの信仰生活・教会生活は絶えず勝ち取られなければならぬ。夫は単に一個の私共の教会内部の問題たるに止らない。……更にそれは我国のみならず隣邦支那にある主の教会、満州にある主の教会へと押し拡められねばならない。新しきエルサレムの聖にして大いなる幻の下にこれら凡ての教会が祈りの中に呼び集められて、この幻に勝ちとられねばならない。……勿論私共は民族の使命や個性を忘れた浅薄なる国際主義や世界主義になりたくはない。されどこの聖なる幻が促したてくる祈りの必然性は、民族の相違・個性の相違があり乍ら、主に於て神と和ぎ、その信仰に於て凡ての隔を越えて、その根底に於てキリストの花嫁たる教会の生命にあづかっていなければならない。これ東洋の使命を祈るものの祈りでなければならぬ。この聖なる幻に促したてられてくる祈りに我らの教会が勝ちとられ、国の教会が勝ちとられ、又他の国々の教会が勝ちとられるならば、欧州大戦の頃、敵と味方とが、一つの神に向って各自の正義を主張し、戦勝を祈るが如き醜態を避け得られたのではなからうか。せめても教会と教会との間に於てのみは、国の隔を越えて、互ひの国のために共に憂いなげくのなげきが存したでなからうか」( 43─44頁)。奥田先生が森 明より京都の地に会をたて、共助会の西における根拠地を作るという使命に生涯をかけて取り組まれ、黙々と孤独に狭い「一筋の道」を歩み行かれながら見据えていたのは、次のような教会の幻であった。「教会の負わされた任務は、教会がこの聖なる幻に勝ちとられ、その生命が国家社会の根底に滲みでゝこれを潤すに至らんことである。この生命が教会より力強く流れ出る時、所有の大小によって人間の価値を定る世相や、富者・強者が貧者・弱者をしひたぐる世相を、遂に内部的生命によって、改造せずにはおかぬであらう。こゝにも教会は文化現象的には国家社会の中にあり乍ら、国家社会を批判し生命づけるものと云はねばならぬ。恰も心臓が身体の内部にあり乍ら、絶えず新鮮な血液を全身の中に脈うたしめる如くに」(44頁)。このような幻によって己とおのが共同体に絡みつく重く固い自己中心の殻を打ち破られ、突破させられている。この幻を抱く者は、この奥義が途方もない故の孤独に生きざるをえなかったと言うしかない。奥田先生の求めた「一筋の道」は、戦争への雄たけびがかまびすしかったこの時期だけでなく、生涯を貫いてこのような幻に導かれて孤独なものであったことを改めて思う。
(日本基督教団 北白川教会員)