読書

「雅歌」の謎は解かれるか 評者: 矢部節

小友 聡『謎解きの知恵文学旧約聖書・「雅歌」に学ぶ』

「雅歌」による説教を聞いたことがあるでしょうか。本の帯に「雅歌を教会に、説教者の手に取り戻す」とあります。評者もこの思いを共有する者として、大きな期待を持って手にしました。(帯は、宣伝のためでもあるので、しばしば失われてしまいますが、)このキャッチフレーズが著者の執筆の牽引力になっています。著者は、古代から現代までの特徴的な解釈をたどり、「雅歌」を謎解きの知恵文学として捉えることで、その可能性を示そうとしています。

内容を簡単に紹介すると、全体は、後書きで触れられているとおり、雑誌『共助』に六回にわたって連載されたものが骨子となっており、それに六講を加えて全十二講にし、さらに、関連する付論を二つ付け加えて構成されています。

第一講に、帯の言葉で要約されている執筆の動機が示され、連載では、この後に、20世紀以降の解釈が紹介されていたのを、本書では、その前に、書き下ろしとして、三つの講が加えられます。第二講では、古代オリエント文学として、シュメールの聖婚、エジプトの恋愛歌、シリアの婚宴歌との関係について、謎解きの可能性を探ります。第三講は、タルグムの邦訳がまだないので、「雅歌全体がイスラエルの歴史を語る書だと解釈されていること」、「三回の捕囚体験からの解放が描かれていること」が紹介されているのは、とても興味深く有意義です。第四講は、「キリスト教史において重要な伝統的解釈」として、寓喩的解釈としてベルナールの雅歌解釈を取り上げます。

第五講は、現代の組織神学からカール・バルトとゴルヴィツァーの解釈が取り上げられています。第六講は、現代のユダヤ哲学から、ローゼンツヴァイクの解釈と、エマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』に触発された永井晋の解釈が紹介されます。ちなみに、レヴィナスは、『タルムード四講話』の「世界と同じだけ古く」でゲマラー(ミシュナーに対する議論)の興味深い解釈を伝えています。

第七講は、雅歌のフェミニスト解釈の一例としてトリブルの解釈を取り上げます。修辞批判的方法により、「旧約聖書の文脈の中できちんと雅歌を位置づけ、これを創造物語との対比で文学的に読み解」いており、「トリブルの解釈は大いに意義があります」と著者は評価します。

第八講のラコックの解釈については、幸いにも、最近、リクールとラコックの共著『聖書を考える』(久米博、日高貴士耶訳、教文館)の邦訳が出版されました。ラコックの「シュラムの女」(あわせて、リクールの「結婚のメタファー」も)は理解を深める助けとなるでしょう。

第九講以降は、著者の解釈として、(内容としては重複する)付論の「雅歌は知恵文学か」を敷衍する形で展開される部分です。ここからは、読者の楽しみとして、ネタバレを避けて内容には触れませんので、それぞれが、その可能性を吟味してください。評者としては、「雅歌」を謎解きの知恵文学として読むことに大きな可能性を感じながら、謎解きを通して「雅歌」がどのようなメッセージを伝えようとしているのか、説教としてどのような福音が語れるのか、改めて、「雅歌」を読み直すことが迫られていると感じました。これも、帯の言葉ですが、「教会説教の主題となり得る鉱脈を探る」とあるように、解釈の鉱脈がここにあると言えるでしょう。

ただ、残念なのは、本書は新書版の小著であることです。これだけ興味深い内容が詰まっているのです。著者が「最後の課題」という注解書の上梓が心待ちにされます。(日本基督教団 尾張一宮教会牧師)