2022年の「佐久学舎聖書研究会」 小野淳子
3年ぶりに佐久の地で、対面して聖書研究会を行うことができました。8月16日(月)の夕方から20日(土)の午前中まで、5泊6日で、エフェソ書を読む聖書研究会は4日間でした。参加者は、川田 殖先生・綾子さんご夫妻、石川光顕先生、山本精一先生・眞実さんご夫妻、光永 豊さん、林 香苗さん、江川裕士さん、藤坂一麦さん、小野淳子の10名でした。
コロナウイルス感染症が流行してから、関係者の方々約60名に手紙を出して、手紙とメールで交流を続けてきました。2020年は、コロナがなければ佐久の地に集まっていた日に、共に祈る時間を持つことを呼びかけました。2021年は、それぞれの地で共に祈ることに加えて、コロサイ書を読むこととしました。この2年間は、応答文を文集にして郵送することができました。
今年の佐久学舎の準備は4月から始まりました。石川先生から山本精一先生と眞実さんと小野宛にメールが届き、「できれば対面で佐久学舎を行いたいが、どのような形が可能か」という内容でした。これに対して、耳鼻咽喉科医である眞実さんから、「密と人流を避けるために、全日程参加の、少人数の同じメンバーで実施すること」。眞実さんが「PCR検査機器を佐久に持参して検査を行い、陰性の人たちだけで実施できないか」との返信がありました。そのような体制をとっても、感染する可能性はゼロではなく、もしも感染者が出てしまった場合は、隔離部屋を設けて眞実さんが看護するとありました。マスクを外して飲食するときが最も感染するリスクが高いので、食事は黙食で、一緒に食事をする人数を少なくするために、女性は自分の部屋で食事をすることが求められました。私は、感染リスクはゼロではないけれど、対面で実施できるという希望を持つことができました。
今年は、毎年世話人として中心的な役割を担っている石川先生が5月末から7月中旬まで息子さんがいるスリランカに滞在されるとのことで、今までと同じ準備とはいきませんでした。石川先生がスリランカに行く前に、要項の内容を、電話とメールのやりとりで決めました。参加は全日程のみ、定員は14名として、申込多数の場合は、抽選で参加者を決めることにしました。
2019年の参加者は計46名、一日当たりの平均参加人数は23人でした。毎日参加者の出入りがあり、多い時は31名が聖書研究を共にしました。遠くは青森から、近くは佐久の方々が、それぞれ熱い思いを持って参加されていました。その、お一人おひとりのことを思うと、定員を設けてお断りすることは苦渋の決断でした。
6月15日に郵送とメールで要項と川田先生のエフェソ書の文章を約60名の方たちに送りました。「全日程は参加できないので、今年は遠慮しますが、良い会となりますようにお祈りしす」との返信をさまざまな方からいただきました。その後申込がなく、世話人のみで実施するかもしれない、と思っていたころに、林 香苗さんから申込がありました。それから、江川裕士さん、藤坂一麦さんからも申込がありました。とても嬉しかったです。期限後に申し込まれた方たちについては、お断りすることになりましたが、来年もし佐久学舎が開催されることになりましたら、是非期限までに申込をお願いしたいです。
佐久学舎では、聖書研究と祈りがその中心にありますが、すべてが手作りで、共同生活を行うということも不可欠な要素です。今年は、光永 豊さんが世話人に加わってくださり、始まる前からお掃除をしてくださり、終わったあとも片付をしてくださいました。聖書研究会には参加しないけれど、毎年学舎の庭の除草してくださる方がいます。私は今年初めてその方と偶然お会いして、感謝の思いを伝えることができました。新鮮なお野菜やお米、レトルト食品を毎年届けてくださる方々、宿泊場所を毎年提供してくださる方々など多くの人々に支えられて佐久学舎が実施できています。参加者は、食事やお風呂掃除当番など、さまざまな役割を担いつつ、当番ではないときも、進んで働いていました。
佐久学舎聖書研究会は、お祈りに始まり、讃美歌、聖書朗読、それぞれの担当箇所の発表、休憩をはさんで質疑応答と各自のお祈りと主の祈りを持って終わります。今年も聖研初日に、川田先生から聖書のオリエンテーションがありました。川田先生の蔵書の中から、ヘブライ語、ギリシャ語の聖書から、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語、日本語訳の聖書が紹介されました。個人訳を含め、それぞれの特徴の解説と、日本語の辞典と、エフェソ書の注解書の紹介がありました。聖書を読む上で最も大切なことは、「自分でよく読むこと」「わからないところは辞書で調べてよく考えること」「その後で自分の考えを吟味すること」だと教わりました。中沢洽樹先生は、「素読(本文をよく読む)」、「探読(わからないところは調べる)」、「体読(それが身に着くように生活する)」と言われました。「祈りの心を持って、神さま、どうぞこのことの意味がわかりますように。教えられたことを実行できますように」と川田先生は言っておられました。
まさに、そのような心が与えられることを願うばかりです。
私は、2008年から毎年佐久学舎に参加して聖書を読んできました。マルコ、マタイ、ルカ、使徒行伝、ガラテヤ、フィリピ、コリント1、2、ロマ書を読みました。マルコ福音書の後半からついていけなくなり、使徒行伝と、ガラテヤ書などパウロの手紙は、今でもわからないことだらけです。これは聖書の広さと深さに接することができたからこそ実感することで、その魅力を教えてくれたのが、佐久学舎です。
エフェソ書で今回私に与えられた箇所は1章15節から23節まで、テーマは「プレーローマ・キリスト論」でした。「プレーローマ」とはギリシャ語で「満ち充つ」「充満」「完全」という意味です。川田先生は、エフェソ書は端的に言うと「教会論」だと言っていました。「教会」というと、私はまず建物あるいは場所をイメージします。しかし川田先生が省察で書かれている通り、
「教会」はギリシャ語では「エクレシア」であり、「エクレシア」は旧約においてイスラエルの「会衆」を意味するへブル語「カーハール」(神が諸国の民の中から召し集めた群れという意味)の訳です。建物や場所に制約されない人々の集まりです。しかも自発的に集まったのではなく、神の恵みによって、神が召し集められた人々の群れです。パウロは、各地にいるキリストを信じる人たちが成長していくことを祈り願い、手紙を書きました。エフェソでは、グノーシス主義者と言われる人たちの影響があり、それに対抗して「プレーローマ・キリスト論」を書きました。キリストこそ、すべてにおいて満ちており、完全な方であり、キリストを信じること以外必要なことはないとパウロは力強く宣言しています。「エクレシア」は、キリストのからだであり、キリストから全権委任されており、支配や権威の天使を凌駕する存在であると示されています。「からだ」とは、聖書辞典では、人間は神に造られたものとして神に対する関わりの中で生きていること、また生命の絆でもって隣人や自然と固く結びつけられていることを意味するものとあります。「エクレシア」は、キリストとの関わりの中で生きています。
「信じる」というと、個人的なことと私は思ってしまいますが、聖書には神の民としての信仰共同体の歴史が描かれています。
使徒行伝でも、手紙でも、パウロは一人ではありませんでした。
キリストを信じる仲間がいて、一緒にいるときも、離れているときも、祈りに覚えて、共に生きています。パウロの手紙は、送り先の人たちへの祈りで始まり、祈りで終わっていますが、自分のためにも祈って欲しいと書いています。このような祈りの交わりがあり、祈りがあるところにキリストが共にいると私は信じています。
佐久学舎は、聖書と真剣に向き合いたいと願っている人たちの集まりです。一緒に生活をして、共に聖書を読み、共に祈る、それだけの時間ですが、他では味わうことのない思いに心が満たされます。佐久学舎も、共にいる人、遠くにいる人、そしてキリストが共にいて、成り立っていることを、強く感じました
2022年10月31日 (学校事務職員)