隣国の友人との出会い~日韓合同授業研究会で学んだこと~ 藤田直彦

キリスト教は多文化交流の宗教であると言える。

旧約聖書の中心は、大国によって国を滅ぼされ、異国に連れ去られた人々によって、自分たちの信仰を確かめたことにある異国の地で、自分たちがどのように神によって創造され、どのように神と向き合ったかを思い、祈り、書き残したものが旧約聖書の中心である。彼らは自らを「私たちは神によってエジプトの地から連れ出された民である」とした。寄留者を大切にするように説く律法の言葉は、バビロンに連れて行かれた人々がその痛みの中で、私たちは何者かを問いながら書き残されたものである。

イエス・キリストの十字架に出会い、復活を信じた人々の多くは、イスラエルから離れたコミュニティに生きるユダヤ人であり、非ユダヤ人であった。ローマの信徒への手紙やパウロの手紙では、文化やしきたりの違いを乗り越えて信仰を共有する姿が描かれている。

福音書を多文化交流の視点で読み直す時、異邦人に対するイエスの眼差しの温かさを感じる。イエスの誕生を祝いに来たのは遠い国の博士たちである。十字架の場面で、イエスを神の子だと語るのはローマ人だ。多文化交流は、福音書の中心テーマであると読むことができる。

多文化交流の傍にはいつも悲しい歴史が横たわっている。大国が小国を呑み込み、血が流され、言葉を奪い、土地を奪い、誇りを奪う。ユダヤ人は、国を奪われその中で自らの信仰を問いながら言葉を残した人々であった。散らされ他国に生きたユダヤ人が変質していくことに厳しかった。しかし、イエスは異邦人の中でも特に敵対していたサマリヤの旅人を強盗に襲われた人の介抱をする人として例え話に登場させ、井戸でサマリヤの女と出会う。多文化交流の時代に生きたキリスト者が書いた聖書の中のイエスの姿である。だからこそ、聖書は、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と宣言する。

2022年2月24日ロシアのウクライナへの侵攻が始まった。日々流れるニュースを聞きながら、「本当だろうか」という声が内側から湧き上がる。

ニュースでも、「世界の人々と一致してプーチンの戦争と戦おう」という声の中に、多様な視点で考えようという声が聞かれるようになってきた。ロシアやウクライナの歴史、アメリカの関わり方、女性にとってこの戦争の意味はどこにあるのか。戦いたくないのに出国できない男性の視点。子どもの視点。それぞれの国の事情。ロシア兵の視点。ロシアの民衆の視点。経済の視点。文化の視点。ヨーロッパ諸国の事情。中国、インドなどの国々の事情。

本当のところ何が正しいのか分からないでいる。ただ、ロシアが全て悪くて、ウクライナの側に全ての正義があるとはなぜか考えられない。教職員組合で「私に言えることは、戦争をしてはいけないということだ」と発言すると、「ナチスドイツに対するフランスの戦いを否定するのか」「今回は、あまりにも一方的な侵略ではないのか」「今、戦争を止めると、自由が奪われるのではないか」などの反論があった。私はこの戦争が日本の改憲論者、軍備拡張論者に利用されていることを考え、「言葉を丁寧に吟味する必要がある」と答えた。

私がこのように、「本当だろうか」と感じるのは、30年近く続けている日韓合同授業研究会での韓国の友人との交流によるところが大きい。

日韓合同授業研究会は1995年夏、戦後50年目の光復節を迎えたソウルで第1回交流会を開いた。王宮の前にそびえる旧総督府を解体する式に参加した。大通りにたくさんの人が集まり、解放50年を祝った。長い軍事独裁政権の後に就任した金泳三(キムヨンサム)大統領は「民族の精神を蘇らせる」と語った。

翌年、東京で開かれた第2回交流会では、日本側の歴史認識に対して韓国側から厳しい発言が続いた。

その頃、歴史教育が原爆や空襲を語り継ぐだけでいいのか、加害の歴史に目を向ける必要があるのではないかと考えられていた。広島でも長崎でも、そこに兵器工場や軍港があり軍都であったことが指摘された。加害の歴史に目を向けることに対し、「自虐史観」との批判が起きてきた。1995年はそのような時代であった。

私たちの交流会では、議論が空中戦になることを避けるためにと、授業を中心とした交流をすることにした。それぞれの国で一年間活動し、その成果を持ち寄って二つの国を交互に会場にして交流を行った。

会には、小学校から大学までの教師、日韓の交流に関心のある市民、学生などが集まった。毎回テーマを決め、フィールドワークを行い、授業を中心とした話し合い、そして、酒を酌み交わしながら語り合ったり、歌ったり踊ったりしながら交流を続けてきた。

一緒に川崎ふれあい館周辺や靖国神社を歩いたり、北海道でアイヌと朝鮮人の交流を学んだりした。千葉では関東大震災での虐殺現場や墓を歩いた。沖縄では、「なぜ日本の被害の歴史を私たちが学ぶのか」と言っていた韓国の人たちも、その歴史の前に言葉を失っていた。

韓国では、非武装中立地帯の前に立ったり、済州島や光州(クアンジュ)に行ったりした。各地の秀吉が破壊した遺跡、日本軍の傷跡、そして朝鮮戦争や民主化闘争の歴史を学んだ。環境運動の拠点や文化施設をまわることもあった。

交流会は、毎年三分の一程度がレギュラーメンバー、三分の一が時々来る人、三分の一が初めてや久しぶりの人となり、通訳を通しての会話なのでお互いの理解に時間がかかる。それでも、毎回、大きな力を与えられる。

交流を通して感じてきたことは、やはり被害を受けた思いと加害者であるという思いの中で、歴史の学び方も変わってくるということだ。

日本の侵略により甚大な被害を受けた韓国の人々にとって、その歴史を学ぶことは、この出来事を風化させず、次世代へ語り継ぐことがテーマとなる。被害の歴史は、屈辱の歴史であり、忘れたいと思う人もいる。その中で、歴史を受け継ぐ意味を考えながら学んでいる。

加害者である私たちにとって歴史を学ぶということはどういうことであろうか。

まず事実を知らなければならない。明らかにされていない事実は今も多い。事実を知らされた時、身近な優しい人たちが、なぜそのような残虐な行為をすることになったのか知りたいと思う。それは、教育だったのか、宗教だったのか、マスコミの力だったのか、法律の不備だったのか。そして、そのような悲しい歴史を繰り返さないために何が必要かを子どもたちと一緒に考える。私たちが加害者の側だからこそ、そのように考えざるを得ない。その考えを韓国の仲間と分かち合う。

韓国の仲間と話し合っていると、伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュンクン)のように視点を変えると評価ががらりと変わることに度々出会う。誰の目から見たものなのか。近くから見た歴史なのか大きな時間の流れの中で捉えるのか。様々な視点で考えることがとても刺激的に感じる。

2回目の交流会で日本を厳しく糾弾していたKは、そのあと地域に残る民話の中に日本との接点を見つけ報告した。その物語の中に「三本足の烏(三足烏)」が登場する。調べてみると、天皇神話の八咫烏(やたがらす)は、朝鮮の民話で太陽の象徴であり、さらには中国にルーツがあることが分かってくる。

朝鮮通信使について李進熙(リジンヒ) は、「倭寇(わこう)の戦後処理をしたことで室町時代200年の友好の歴史が続いた。徳川が秀吉の侵略の戦後処理をきちんとしたことで江戸時代に200年の善隣友好の歴史が生まれた。日帝による侵略の戦後処理をきちんとすれば再び友好の歴史が生まれるはずだ」と語った。

広島で原爆による放射線被害を受け、その後帰国した人々が多く住むハプチョンでは、被害者と広島の医師や市民が連携している姿を見た。

このように視点を変えさせられることが度々おこった。日本や韓国に残る戦争遺跡や民主化闘争の傷跡をいっしょに歩き、各地でその歴史に向き合っている人の話を聞いた。

そのうちに韓国の若い教員が、自分たちのことを語り出すようになった。自分たちの歴史教科書はあまりにも民族的なのではないか。あるいは、ベトナムで韓国人は何をしたのか、といった話をし始めた。

また、両国で生きる外国の子どもたちのことを一緒に語り合った。日本の場合は、「在日」の存在が大きかった。初期に川崎を歩いた時、民主化闘争の中で牢獄にも入ったことのある教員が、「自分はこの同胞のことを知らなかった」と言って涙を流した。あるいは大久保に生きる様々な国の子どものことが報告された。韓国の場合、「脱北者」の子どもたちの話も加わった。

朝鮮学校との交流も大きなテーマとなった。韓国の教員が個人ではなく研究会のメンバーとして朝鮮学校に行くということは、非常にハードルの高いことだった。実現しかけては、日本の政治家の「妄言」によって直前に訪問が中止になったこともある。そのときは、朝鮮学校の校長が個人の資格で私たちの会に参加してくれた。こうして、ついに日韓合同授業研究会として東京朝鮮第一初中級学校や第二初級学校を訪問したのは2007年であった。東京近郊の朝鮮学校の校長が集まってくださり胸が熱くなる出会いとなった。

異なる文化、異なる言語、そして加害と被害の歴史をもつ隣国の友人との出会いは、私自身のものの見方を形成することに大きな影響を与えてくれた。加害と被害についても、視点を変えると様々な見方が出てくる。被害者が別の場面では加害者であったり、敵対する者が別の見方では、共に生きる者であったりする。これは、加害の歴史を曖昧にしようとすることではない。むしろ、折り重なる関係性を丁寧に見ることが、加害の事実をより正確に見ることにつながる。このように幾重にも折り重なった関係性をもつのが私たちではないか。そのように思う

ようになった。そして、初期のキリスト者も異国の中で多文の出会いの中で信仰を見つめたのではないか思う。(恵泉バプテスト教会員・日韓合同授業研究会代表・公立小学校教員)