ひろば

「もの」の手応え 江川 裕士

京阪神修養会では2回涙を流しました。1度目は、「どうしてテゼに行かれるんですか」と聞かれて、自分が「何か本物」を確かめるために、人から「一人になっていい」と言われて嬉しかった自分の気持ちを、みんなへの応答の中で認めざるを得なかったからです。

今僕は、あらゆる集会との関わりを断つべきであると心で感じながら、この文を書いています。私が何か「本物」を求めるとき、「自分がその本物を求める集会に来ている」という安心感が、自分と、自分が求める「本物」との間に滑り込んできます。この束の間の安心を絶対に捨てたいと思います。そう思った時、心の周りは動悸と痛みで騒ぎ出しますが、これは僕一人で感じ切りたいです。その後で湧いてきた何かを、然るべき人に然るべき時にぶつけていきます。もしこの世の誰も答えてくれなそうな問いが湧いてきたら、今度は自分が答える側に回るような時もありそうだ、ということも最近わかってきました。

そして胸の動悸と痛みに対して一人になるために、僕が心で感じていたことは、「僕が本当に理解したいと思ってきたもの」を本当に理解させてくれそうな場所に、一人で行ってしまうべきだということです。僕は、「生」とは全体として(知的も動物的も欲動的も)つまるところなんなのか、自分への神のCalling(召し出し・約束の地)は何なのかを知りたかった。これらの欲求に応えてくれそうな場所を探していた時、フランスのテゼのブラザー・ベルナアトからのメールで心は嬉しくなりました。「ここに来る若者はみんな神のCalling を求めてきている。君も仲間や友人と、あるいはカップルでではなく、一人で来なさい」。この「一人」を、誰かに大切にしてもらえることが嬉しかったです。

2度目は、修養会閉会後、僕に「死ぬな」と約束しろと言った手がとても硬かったからです。自分の冒険に向かって「命を懸けるということ」を、感じられた気がしました。「命を懸け」られないなら、「死ぬか、死なないか」という危機にも遭遇しないだろうからです。この手を同じ硬さで握り返してから出発していいんだと思えた時、その事実が自分は嬉しくなりました。テゼまでの道で、ブロックウッド・パークで最後に腕を掴み合って別れた友人の手も、テゼで最初に握手したブラザー・ベルナアトの手も、同じ硬さでした。

ところで、片柳先生のアウグスティヌス講話で面白かったのは、アウグスティヌスが言いたいことを自分の心と魂の道行きの形で書き残していることでした。この道行きを、日本では「哲学」や「教会」の土台の上で聞きました。でも元を辿れば、それは彼の「祈念」と、「願いと欲求」と、「希望」と「心の燃え上がり(配布資料、引用14)」という、哲学や教会抜きで通約可能な生の動きの一面を語っているように思いました。僕は人間の生に与えられたこの直接性・連絡可能性に憧れるし、自分の生にも同じ動きを感じられて嬉しかったです。彼の魂の道行きで、アウグスティヌスは「すべての知解を超えている」「(永遠の)平和(なる神)」に、「思考に現れるもの」ではなく、(何を祈るべきかも知らない)「祈り」(引用9)と、「兄弟を愛すること」(引用10、11)を通して接近しようとしています。僕はテゼのみんなが、キリスト教信仰の内容如何を問うよりも先に、僕たちをクリスチャンとしての共同生活に招き入れていることに驚いています。あまりにも自然に生活の仲間にされたため、その自然さを支えるものを問うことが僕の今後の課題になると思います。テゼでは、「祈り」は、「君の中にいるキリストを信じ」て、「知性と身体、つまり君の全存在で参加する」キリストとの親密さの立て直しであり、歌による賛美です。これは労働と合わせて初めて完成するため、「少なく読み、ゆっくり考える」ことが勧められます。そうして働き、「兄弟」と全存在で関わり合っていく中で、僕たちは「生きている神の言葉に身をゆだね」、その言葉が心と身体の「最深部に届くように」していきます(The Rule of Taiz.)。アウグスティヌスの言葉も歌います。「聖霊よ、私たちの内で息をしてください」(“158 Atme in uns”)。共同生活の中で、僕の心には深いところで(僕が僕への「愛」を感じない)人間への恐怖と怒りの泉が広がっていて、いつでも噴出するのを待っているんだ、ということに気が付きました。僕に「君がしたことは笑えない」と呼びかける人間の顔を僕は恐れ、かつ平和に直視していることもできない。人の心身の「最深部」とは、もっと奥なのか。この惨めさの中でみんなと合唱した時、「(永遠の)平和」に向かって歌う歌が何か手応えのあるものに当たった感じがしました。

他方で、よくわからなかったのは、アウグスティヌスが生の何を「自由」と呼んでいるのか、ということでした。「自由」について理解することがそんなに大事なら、それは生においてどんな意味を持つ「自由」なのか。「罰に対する恐怖によって奴隷的に行われる」行為は、「自由に行われるのではない」(引用37)。神のCalling ついても、同じことが言えそうです。神のCalling は、「自由に行われる」のでなければならない。

自分は(なりたくない)修道女になるのかもしれないと思ってテゼの長期ボランティアに戻ってきたニーナは、最初の数週間が楽しくて、すでに「自分が今テゼにいるのは間違っていない」と感じていました。しかしなぜそう感じるのかがわからない。神は私をただ楽しい時間を過ごすためだけにテゼに連れてきたのか。冬、数ヶ月経って、「今テゼにいるのは間違っている」と感じた時、滞在理由を失った彼女はすぐ帰りたくなったそうですが、ドイツでの新しい短期奉仕の仕事を提案され、嫌がっていたそれも好きになり、今は「テゼを離れることが正しい」と感じるそうです。なぜなら、「私はテゼにいて快適で、同時に何からも逃げていないと感じるから」。そして「私は修道女にはならない」。一方ブラザー・ベルナアトは、「自分の生を捧げ分け合う(イエスと違った)自分なりのやり方」を考えたとき、「(いつも簡単とはいかないけど)みんなのブラザー(兄弟)になりたいと思ったから」修道士(ブラザー)になりました。ボランティアもブラザーも、テゼの共同生活ではスケジュールのほとんどが決められているため「多様性」はありません。でももしそのシンプルな生活が「愛の根から生じ」、「善」の「実」に向かっていくならば、「わたしが自分の命を捨てるのはそれを再び得るため」(ヨハ10:17)となるような「自由」な生き方が、自分なりの形で実現されるのかもしれないと思います。僕も、自分なりのやり方・生の分け合い方を探します。最初に参加したボランティア向け聖書勉強で今の話を聞けたことは、とても綺麗だと感じました。

テゼ共同体は、今年秋、ローマで教皇フランシスコらと共同で開催する「Together(共に)」というエキュメニカル・イベントに向けて動き始めました。大昔に「教会の再建」を説いたアッシジのフランチェスコが題材にされます。現役ボランティアからは、宿泊やバス、宣伝、中継、他宗教包含の方法について不安が挙がりましたが、テゼはこの未開拓の「冒険(Adventure)」を、「共に」聖霊に祈りながら歩いていくようです。

(京都大学科目等履修生、テゼコミュニティ短期ボランティア)