魂のこと―アウグスティヌスをめぐって 髙橋 伸明

tu excitas ut laudare te delectet, quia fecisti nos ad te et inquietum

est cor nostrum donec requiescat in te.(A. Augustinus “Confessiones”1.1.1)

※『共助』誌編集部より「2022年度京阪神信仰修養会報告を寄稿するように」とのご依頼をお受けしたのだが、報告に代えて以下に雑感を記すに留める。報告ならざる報告となったことを読者諸兄姉にお許しを請う次第である。

考古物は地中深く(あるいは海中深く)に潜んでいて、われわれに発掘されることを望み、古典は書店(あるいは図書館等)の書架に佇んでいて、われわれに読まれることを欲している。

古典は古文と同義ではない。むしろ古典は普遍性や永遠性を有しているが故に真に古典たり得る。カトリカルな古典はその時代的制約を認めつつも、時代を超えて現代にも読み継がれている。

 一例を挙げよう。キリスト教会において聖書は時代と空間を超えて読み継がれている。礼拝で、聖書研究会で、あるいは信仰者の知的学びや霊的慰めのために……、等々。聖書は信仰の書物であって、古典ではないとの意見もあり得るだろう。しかし、聖書は信仰を持たない人、「教会」に行くことをためらう人(注)にとっても真理を教える「歴史的文化遺産」のひとつである。

2022年11月22~23日に京都・北白川教会を会場に行われ、学びの時を得た教父アウグスティヌスもまた古典の著者の一人である(片柳榮一師による講演内容については別稿をご参照いただきたし)。そこでは現代を生きるわれわれにも通じる、否、われわれの先を見据えた視座や思想、その神学が語られた。

私は今回の修養会に参加するにあたって、その主題「魂のことをする」(大江健三郎の小説『宙返り』から取られたとの由)という言葉に目が留まった。それは現在私が所属している教団の学習会でトゥルナイゼンの『牧会学』をテクストに学びの時を持っているのであるが、トゥルナイゼンは牧会をSeelsorge(魂の配慮)としている。魂のことをする(= 牧会)とは、信仰者の(否、すべての人にとっての)苦悩や喘ぎ、呻きの声(にならざる声)に対する応答、また安らぎを与える働き(営み)なのではないかと講演を通して思わされた。

アウグスティヌスもまた、この世の苦難と苦闘しつつ呻吟した人物であった。しかしその中で、彼の思索が開いた地平・平安は現代のわれわれが進むべき道の道標(道しるべ)となり、方向定位となり得るのだ。その意味で、われわれがアウグスティヌスという古典から学ぶこと大であると言わざるを得ない。アウグスティヌスを(/に)学ぶこと。われわれがたとえアウグスティヌスという巨人に立ち向かう無力なドン―キホーテに過ぎないのだとしても……。

(注)「教会」に行くことをためらう人(原文は「そこに行くことを

ためらう人」):若松英輔『イエス伝』中公文庫、中央公論新社、2023年、26頁。(日本基督教団 土佐教会担任教師)