御顔を隠しておられる神 片柳 榮一
わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。―イザヤ書8章16―18節
新しい年明けですが、何か暗く閉ざされた感を否めません。昨年のロシアのウクライナ侵攻以来、あらためて暴力が無残に世界を支配していることを見せつけられています。未来の開けに明るい希望を抱くよりも、この開けに襲い掛かるものへの戦慄に怯えている自分を見出します。ウクライナの地で殺し合いを余儀なくされ、虚しく死んでいかざるをえない双方の人々の無念さに胸をしめつけられます。
このような中であらためて聖書の世界を生きた人々の暗がりと、なおそれを突き抜けて前に向かおうとする人々の姿が心に浮かびます。特に旧約の預言者たちの姿が浮かんできます。中でもイザヤの謎めいた姿に引きつけられます。先ほど読んでいただいた第8章はとりわけ印象深いものです。イザヤは自らの教えを書いた巻物を封じ、隠しておこうとの決意を語ります。彼は大きな挫折を経験しています。自らが語る警告を人々は聞こうとしません。むしろ民を不安に陥れ、また扇動するものとして、弾圧されようとさえしています。このイザヤが置かれた状況について少し振り返っておこうと思います。
イザヤが生き、活動したのは紀元前8世紀の後半であり、今から2750年ほど前の頃です。ウジヤ王が亡くなった紀元前735年にイザヤ書第6章に示された召命経験をしています。イザヤがその歩みに倣おうとした預言者の原型といわれるアモスは、その40、50年前に活動した人ですが、二人とも当時勃興しつつあったアッシリアの脅威に晒さらされて生きた人です。この時期イスラエルの民はそれまでにない繁栄を享受していたようです。そこから社会的な富の不平等、格差が生まれていました。このイスラエルのつかのまの繁栄について、興味深い指摘があります。イスラエルはその北に位置するアラム人の王国(今のシリア)とその当時争っていました。しかしこの時期このライバルが急速に衰えを見せ、それに比例してイスラエルの経済的繁栄が見られたということです。イスラエルの人々はこの北のアラム人王国を蹴落としての繁栄が、自分たちの力の強さによるものであり、自分たちは長年のライバルを蹴落とし、打ち勝ったのだと、うぬぼれに浸っていたとのことです。しかしこのライバルの衰亡の本当の原因は、この北の国の力を少しずつそぎ落としていたその東(今のイラク)に位置したアッシリアの勃興にあったのだと言います。イスラエルの民はしかしこの自らの繁栄の真の原因を見ることができず、己の力の強さに酔いしれていたといえます。この辺の事情は、私が生きた戦後の日本の姿に重なります。第二次世界大戦の敗戦国である日本は、奇跡的な経済回復を成し遂げ、70年代からはジャパン・アズ・ナンバーワンなどともちあげられていい気になっていたといえます。しかし東西冷戦の終結を期に日本は、90年代からの失われた10年、20年、30年と出口の見えないトンネルに入ってしまいました。日本の繁栄が、戦後の東西冷戦の旨味をかすめ取ったものに過ぎなかったことが時を経るごとに明らかになってきたのです。
横道に逸それましたが、預言者アモスはこのアッシリアの不気味な力を見据えて、厳しい警告を発し続けました。イザヤも同様な警告を発し続けます。アモスの場合はまだ未来のことであった脅威が、イザヤの場合は現実になってきます。
今のイラクのある地域において、チグリスとユーフラテスの大河のほとりから勃興したアッシリアは恐ろしい残忍さをもって、敵に臨みました。マックス・ヴェーバーが『古代ユダヤ教』の序文で書いているように、アッシリアは敵の抵抗をできるだけ抑えるためもあったのでしょうが、みせしめのため、抵抗して敗れた都市国家の兵士を殺し、その頭の皮を占領された城の城壁全体に張りめぐらしたということです。近隣の住民は恐れに震え上がったことでしょう。このアッシリアは少しずつ西側の都市を攻め落とし、今のシリアの地域へと勢力を拡大してきたのです。
このことで思いだすことがあります。ヴェーバーからアッシリアの残忍さを強く印象付けられていた大学院生であった頃私は、当時大阪で催された古代アッシリアの遺跡展覧会に出かけたことがあります。確かルーブルから持ってこられたのだったと思いますが、ノートパソコンほどの大きさの石のタイルをびっしり張り合わせて造られた巨大なライオン像に動どうてん顚どうてんさせられました。その生き生きとした精緻な描写力は、この獰猛な民族が同時に高い技術と文化を作り上げていたことを示していたのです。これでは他の民族がかなうはずもありません。
このアッシリアの隆盛に何とか対抗しようと周辺国は同盟を模索します。イザヤ書第7章によれば、先に述べた今のシリアにあったアラム人王国はライバルの北イスラエル王国と連合し、さらに南のユダ王国にもこの連合に加わることを要求し、これに躊躇する南のユダ王国の国王アハズは、クーデターですげかえることもできると脅されます。イザヤはこの連合を批判する活動を展開します。そのことが8章11―15節に語られています。読んでみます。「主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」。
アハズはこの疑わしい連合には加わらなかったのですが、反対にアッシリアにすがって、いわばその属国になることを決断して行きます。これもイザヤにとっては耐えがたい選択でした。そのような政治指導者の決断の前に、彼は深い挫折感を覚えて、活動を停止することを選びます。そのことが先ほど読んでいただいた8章16―18節です。
先ほど言いましたように、彼は自らの主張が容れられず、弾圧の恐れが強まる中で、活動を中止し、教えを封じておこうと決断します。しかしそれは単に弾圧に対する恐れだけから出ているのではないように思われます。そのことを17節の後半が語っているように思われます。彼は言います。「主は御顔をヤコブの家に隠しておられる」。イザヤは、出口の見えない、途方に暮れた状態にあります。望みを抱き得ない、深い暗がりのうちにあることを感じています。そしてこの暗がりを、自らの信ずる神が、御顔を隠しておられることと見ています。この暗がりは、単に自分個人が為政者によって弾圧されて、苦しんでいるというだけではないと感じているのだと思います。祖国そのものが滅亡の危機に瀕しているかのような暗がりなのだと思います。そしてイザヤはその危機を単に他の国々が祖国を蹂躙しようとしている危機だと見ているだけでなく、その根底には、主なる神自身が、自分たちに対して、顔を背けている、顔を隠しているとの、深い恐れの感情があるように思われます。敵が自分を滅ぼそうとしている時に感ずる恐怖は、戦慄を呼び起こすものがあるでしょうが、すべてを支配している主なる神ご自身が、自分たちを見捨てようとされているという戦慄は測り知れないものがあるでしょう。
しかし預言者イザヤは語ります。「なおわたしは、彼に望みをかける」(17節)。暗がりを貫くこのイザヤの言葉は、17節の冒頭から続いています。「わたしは主を待ち望む」。つまり「主は御顔をヤコブの家に隠しておられる」というそれだけを読むと、途方に暮れた、絶望の叫びとも解し得る言葉は、この暗がりを貫く「なおわたしは主を待ち望む」という言葉の重ね合わせで包まれています。暗がりの中にしっかりと立っていることを思わせられます。
そしてこの決意、希望が何処からくるのかを示唆するのが次の18節の言葉です。「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」。主がわたしにゆだねられた子というのは、先の16節で語られた弟子たちのことでしょう。しかし私と私の弟子が、しるしと奇跡であるというのが、いかなることなのかはすぐにはわかりにくいことです。この「しるしと奇跡」という言葉は、これを語り掛けられたイスラエルの人々には、なじみある言い回しであったのだと思われます。旧約聖書のなかで最も古い資料の一つと言われるのは、申命記第26章の5節以下のいわゆる「農民告白」と言われるものです。これは収穫感謝のお祝いの祭りにおいて唱えられたものであると言われます。収穫感謝のお祭りには、人々がこれを皆で唱えたのでしょう。この5節から10節までの短い「告白文」が出エジプトの解放を叙述するモーセ五書の骨格をなしていると言われます。「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。……あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し」(申命記26章1―8節)と述べています。つまり「しるしと奇跡」とはかつての出エジプトの解放の原動力となったものなのです。イザヤは出口の見えない暗がり、神が御顔を隠しておられる暗がりの中で、なお神に望みを託すと語り、自分と自分の弟子たちは、これからなされる新たな解放の原動力となる「しるしと奇跡」なのだと言います。イザヤは途方もない言葉を語っています。八方塞がりで教えを封じざるをえない暗がりのなかで、イザヤはなお自分たちは「万軍の主が与えられたイスラエルの『しるしと奇跡』である」との確信を述べています。イザヤが抱いている主への揺るぎない信頼から発する確信と、そこから開かれた未来への希望、それは不思議なほど静かに暗がりを照らしているように思われます。
私たちは今、これまで生きてきた世界の秩序が揺さぶられるような事態の中で右往左往しています。何がこれから起こるかへの恐れと不安だけでなく、自分たちが依るべき、また守るべき理念を揺さぶられています。そのような中で浮かぶ、このイザヤの姿は驚くべきものです。どこにも出口が見えない中で、自分たちが新たな出エジプトの解放の起点になると確信しているのです。この驚くべき確信が何処から来るのかをいうことはそう簡単ではありません。ただ一つ言えるのは、それが先ほど読んだ8章13節の「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」と言われる、深い主に対する畏れに由来することだけは確かです。私のうちにある不安、この暴虐な世界に対する恐れを越えた、深い畏怖がイザヤの内にあることを思わされます。そのことを思いめぐらし、あらためて私のうちにある、この世界への恐れと不安そのものが変えられることを願います。そして御顔を隠される神への畏怖のうちで、この暴虐の世界とその暗がり自身を一つの問いかけとして、お前はこれにどう応じようとしているかとの問いかけとして受けとめ得るような者とされたいと願います。どう応え得るかはともかく、少なくともこの暗がりそのものを問い掛けの言葉として聞き得るものとされたく思います。そのようにして主に対する深い畏れの只中に立つよう招き入れられたく願います。
(日本基督教団 北白川教会員)