学校とイエスと国家 奥野泰孝
主の導き
私は、大阪府の教員として働いてきた41年間に、神の導きを覚えます。
1982年、初任の学校の生徒はほとんどが筋ジストロフィーの患者であり、私は命について、自己実現について考えないではいられなかった。また自己中心である自分自身を自覚。社会人2年目に受洗。教会で中・高校生会のリーダーになり聖書の学びを導き(自分も学びながら)唯一の神への信仰を強める。初任校3年で普通高校に転勤。同和教育推進校で人権について学ぶ。1995年の阪神淡路大震災で被災し、人権と国家について考える。1999年国旗国歌法が成立し、学校での「国旗・国歌」の強制が強まる。2001年2月の卒業式で、「君が代」のテープが流れると私は前に出てマイクで次のように訴えた。「式での君が代斉唱は『思想及び良心の自由』の侵害です。強制です。君が代を歌うこと自体に抵抗はないと言われる方も着席してください。国会の開会式でも、実行が難しいことを学校現場の話し合いを無視して、なぜ押しつけるのか。大人は責任ある行動をすべきです」と。このことで口頭厳重注意を受ける。2006年、養護学校に転勤。同年教育基本法改悪。2011年1月東日本大震災。同年6月大阪府「国旗国歌条例」成立。2012年3月卒業式で「不起立」、戒告処分。2013年3月「不起立」で減給処分。この2回の懲戒処分取消で2回、最高裁で敗訴確定。結論は、国歌の「起立斉唱」を命じることは「間接的制約」であるから憲法19条「思想・良心の自由」に反しないということで、このこともおかしいが、「信教の自由」を侵害することについてはまともに審議されていない。このことが「間接的制約」でなく「直接的制約」であるということはより明白なことだと私は考える。
偶像崇拝は神との関係を断つことと捉える私は、「君が代」で立てない。体が立てない。そのことを二つの裁判で最高裁でも無視されたのが残念でならない。
2015年「不起立」で「免職警告」付き戒告処分。
支援学校の卒業式
2006年転勤し新しい環境は新鮮でした。美術教員として美術をすること自体の喜びを生徒と共に味わいました。支援学校の卒業式は対面式で舞台は卒業生の背後で生徒の美術作品で飾られていました。一応3脚で「国旗」は立てられますが、装飾物に圧倒されて目立ちません。生徒中心なのが明確です。「国歌斉唱」をしたくないという保護者や生徒は「国歌斉唱」が済んでから、もう一度「入場」というプログラムでした。「校歌」時の起立では、車いすや移動ベッド使用で立てない生徒の担任は座って生徒と同じ目の高さに居ました。そういう状況が一変したのは2011年6月、大阪府で「国旗国歌条例」が成立してからです。
合理的配慮の不起立
2015年の処分取り消しを求めて、提訴した「『合理的配慮』無視の戒告処分取消裁判」の判決が今年5月17日に大阪地裁で出ます。私が「国歌斉唱」の強制が違憲であり、とりわけ「信教の自由」を侵害するものである、と訴えて闘って来たので、今回の訴訟で「信教の自由」の侵害を訴えないのかと疑問に思う人もいました。訴状では、「この強制」は私にとって「信教の自由」の侵害であると述べています。しかし重要な争点は「障がいを持つ生徒が卒業式に最後まで主体的に参加するために担任が国歌斉唱時も横で座ることは合理的配慮であって処分は間違っている」ということです。
「起立斉唱」の職務命令が出るまでは、立てない生徒の横で座っているということは多くの教員にとって「合理的配慮」というより普通の判断でした。
私が担任をしていたA君は車いすを使っていました。また会話はなく顔や身体全体の表現・声の雰囲気などでコミュニケーションしていました。彼はてんかん発作をよく起こしましたが、環境等を整えることによってある程度発作を起こりにくくすることができました。卒業式の喜ばしい空気の中、拍手で入場し気持ちは高揚します。そして「開式」で会場は静かになり、すぐに「起立」「国歌斉唱」が始まります。この騒と静の変化、周りが立って自分は孤立する不安の中、いつも隣りに居て支援してくれる担任も立って顔が見えなくなる状況は発作を起こしやすくします。発作の後はぐったりして、介助による歩行も難しくなります。そうなると歩いて卒業証書を受け取りに行くことも歩いて退場することもできなくなります。そのための合理的配慮が「A君の横で座っている」ということと私は判断したのです。「合理的配慮」とは、障がいのある人の人権が障がいのない人と同じように保障されるとともに、教育や就業、その他社会生活において平等に参加できるよう、それぞれの障がい特性や困りごとに合わせておこなわれる配慮のことと言われています。横で座ることは、発作を起こしにくくし、また体調の変化に素早く対応できる体勢だったのです。
当然認められるべき判断を府教委が無視したのは、「起立斉唱」を徹底したいからとしか考えられません。教育で何が大事かの思考を停止しています。
私がA君の気持ちに共感できる理由の一つに私がクリスチャンであるということがあります。多くの人が起立している中で座っていることの居心地悪さと緊張、自分が理解されない苛立ち、クリスチャンという少数者であることによる摩擦など。A君の場合の障がいによってコミュニケーションがスムーズにできないこと、理解と配慮がないことによる寂しさ、苛立ち、孤立感というものを私は実感として共感できたのです。
裁判を続けているうちに、神に示されました。神は「わたしは決してあなたをひとりにはしない」と言われますが、私は「神は私のとなり人ではない、私は神を助けられないから」と思っていました。しかし「最も小さい者の一人にしたのは私にしてくれたこと」と言われる主は「となり人」だったのです。そしてA君の中にイエス様がいてくれたんだと。「となり人」のことをイエス様の「よきサマリア人のたとえ」から示されました。道に倒れていた人とサマリア人はお互いに「となり人」なんだと。サマリア人は迫害を受けて来たから、道に倒れている人の困難に共感できたのだと思います。サマリア人は人を助けると同時に自分も助けられたのです。「よきサマリア人の法」というのが欧米などにあります。「災難に遭ったり急病になったりした人などを救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗しても結果責任を問われない」という趣旨の法です。日本では立法化されていません。今回、私の裁判が負けると、多くの教員は、教育的に考えて座った方がよいと考えても処分を恐れてますます座らなくなるでしょう(立つのが当然とストレートに思う教員も増えていますが)。
戦争と教育
戦争する国家は、人間を奴隷とみなし、道具とみなします。その基準で人間を役に立つか立たないか分けます。その時、学校は「国の役に立つ人間」を作る工場と化してしまいます。国が役に立たないと見なした障がい者の人権が軽く扱われたのは、戦争中の日本やナチスドイツを見ても明らかです。そういうことをおかしいと思わない感性が「教育勅語」等で子どもの心にカルト宗教のように浸透して行きました。
私の父が尋常小学校3年生だった1933年、学級文集に担任が「よき日本人たれ」という文を載せました。《もつと大せつなことは、「人のためなら喜んで自分がぎせいになることのできる人」になることです。むつかしいことばでいふと、「無我の人」とか「没我の人」になることです。……人がこまつてゐる時、心からしんせつに助けてあげる人、こんな人を「無我の人」といふことが出来ます。こんな人が戦争に行けば、ばくだん三勇士のやうなりつぱなはたらきをして、天皇陛下ばんざいをとなへて死んで行く人です。……(中略)……はやく大きくなって神の國大日本帝國のために喜んで死ねる人になろうではありませんか。》人の命が天皇のために犠牲にされることが当然とされる社会です。
当時の日本のキリスト教会は、天皇制を偶像崇拝の押し付けととらえ抵抗する人もいましたが、多くが国家の暴力と民衆の忖度の圧力に負け、偶像に頭を下げました。妥協は信仰を抜け殻にしたと思います。日本のキリスト教指導者が朝鮮人牧師に向かって神社参拝を勧め、それは「基督教を捨て神道に改宗せよと迫っているのではない」と言い、神社参拝を拒否して無駄な殉教をするなと言ったということを知った時、私はクリスチャンとしての戦争責任を感じました。私は腹立たしいと共に、その時代に自分は抵抗できただろうかと苦しみを感じました。
天皇制は「となり人」の関係を破壊します。私は祈りながら続けてきた裁判を通して、たくさんの人との繋がりを得て、助けを得、また助けることもでき「となり人」の関係を育てて来られたと思います。また思考停止にならないことが神様との関係を深めてくれたと思います。神様がこの道を計画してくださったことに感謝します。
(元大阪府立支援学校・高校美術教員、「君が代」不起立被処分者・単立芦屋福音教会員)