「応 答」 高橋伸明
“Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.” Ludwig J. J. Wittgenstein
1 はじめに
応答を始める前に、一言お断りしておかなければならないことがあります。それは、この「応答」は主題講演に対する応答、ではないということ、より正確に言えば、主題講演を受けての応答ではない、ということです。私は夏期信仰修養会実行委員の方から「エレミヤの主題講演に対する応答者の一人になって欲しい」とのご依頼を受けお引き受けした次第ですが、先ほどの主題講演をお聞きして、それを咀嚼⇨消化⇨吸収のプロセスを経て、自分の言葉として「即応答!」というのは、私の貧しい能力では(率直に言って)無理なのです(勿論、それは私の理解力の乏しさが主な原因であることは言うまでもありませんが……)。クイズ番組での早押し問題の回答者のごとく、反射神経が試されるかのような短時間での回答(応答)は、真の意味での応答とはなり得ないと考えているからなのです。周知のように、「応答response」の派生語には「責任responsibility」があります(((注。責任の伴わない応答は存在せず、無責任に回答するがごとき応答は、語義的に自己矛盾を冒すことになります(主題講演の片柳榮一さんの言葉をお借りすれば「この「呼びかけ―応答」の流れの中へ踏み出すこと」は、「傍観者」としてこの流れの全体を、ながめ鑑賞することは究極的にはできないでしょうし、許されない」ことなのです)。それ故、応答には熟慮が必要であり、それ相当の時間を要すべきはずのものなのです(もう一度言葉をお借りするならば「自分自身の一回限りの生として生きてゆくことを引き受けること」、「それが「呼びかけ」を聞くことであり、それに「応答する」こと」なのです)(((注。
2 釈義
まずそのことをお断りした上で、これから私の応答を―とりわけ召命に特化した形で―述べたいと思います。この修養会の前情報として、以下の主題聖句がありました。エレミヤ書 20章9節です。「もしわたしが、(民に対し)『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語ることはしない』と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押さえるのに疲れはてて、耐えることができません。」「それを押さえるのに疲れはてて、耐えることができません。」(口語訳)「押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(新共同訳)「押さえつけるのに私は疲れ果てました。私は耐えられません。」(聖書協会共同訳)「私の内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」(新改訳2017)「私のうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(新改訳 第三版)「押さえつけるのに、わたしは 疲れ果てました。わたしにはもうできません。」(フランシスコ会訳)「忍し のぶ 耐につかれて堪たえ難がたし」(文語 訳)「I try my best to hold it in, but can no longer keep it back.」(Today’s English Version=TEV)「and I am weary with holding it in, and I cannot.」(English Standard Version=ESV)ここではヘブライ語ヴェローウハル(そして私は勝たない)を どの文脈の中に置いて、どのように訳すかによってその翻訳の 相違が生じているようです。ここは新共同訳=聖書協会共同訳で〝エレミヤの告白〟との小見出し(フランシスコ会訳では〝エレミヤの不平〟と付されており、その注で「エレミヤの五番目の『告白』で最後のものであ」り、「これ らの〔五つの〕『告白』はその内容からみると、エレミヤの預言に端を 発する迫害について彼が主に披瀝する、個人的な訴えである」と解説さ れています)の付いている聖書箇所(エレ 20 :7〜 18 )の一部ですが、神(ヤハウェ)の言葉を民に対して語り伝えることを命じら れたエレミヤの躊躇・困惑する姿勢が如実に表れているところ です。エレミヤの預言を聞き入れようとしない民の頑迷さの中 で、躊躇・困惑しつつも、神の言葉を語ることを「押さえ(つ け)るのに」「疲れ果て(て)」、「耐えることができ」ないでいる のです。「わたしの負けです」(新共同訳)は、神の脅迫にも似た 迫りに対してのエレミヤ自身の敗北・全面的な降伏に聞こえま す。また、7節の「あなたの勝ちです」との言語的(文学的?) な対比関係にあるのかも知れません。何れにせよ、そこではエレミヤの人間としての弱さとそれを凌駕する神の迫りが対比さ れているようにも見えるのです。「耐えることができません」(口 語訳)〔「私は耐えられません」(聖書協会共同訳)、「もうできません」(新改訳2017)、「わたしにはもうできません」(フランシスコ会訳)、「I cannot」(ESV)もほぼ同じ〕では、神の迫りの力と それを押し留めておくことへの彼の人間的な限界を表現してい るようです。 彼(エレミヤ)の人間的な思惑は、それを凌駕する神の力に よって破綻し、その行動は、もはや神の意志に従わざるを得な くなったのでした。 「彼(エレミヤ)は到底自らの力において立つことはできなかっ た。彼をして立たしめた者は彼の力ではなく神の励ましであ」 り、「神の現前に引き出されたエレミヤにとって、ただ命これに 従うのほかに途はなかったので」(注2)す。 また「人間エレミヤは倒れて彼は神の言葉のために遣わされ、 その僕となった自己自身を見いだし」ます。それは「人を欺き えても、神を欺くことは不可能」なことだったからです。「エレ ミヤにとって選ぶべき途は、ただ神の僕となるか否かにあ」り ました(((注。
3 黙想
さて、当修養会実行委員より私に与えられたテーマは「召命」です。「召命」([英]Vocation、Calling、[独]Beruf)とは、神(の恵み)によって伝道者として召される・呼び出されること、(伝道者としての)使命を与えられること、と一先ず定義しておきましょう。預言者イザヤは「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって(聖書協会共同訳は「私たちのために」)行くだろうか。」との神の呼び掛けに対して、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と答え、積極的に召命に応じます(イザ6:8)。しかしこれに対し、エレミヤは「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレ1:5)との神の召命に対して「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(同1:6)と一旦は拒否しています。このエレミヤの拒みに私(髙橋)は親近感を覚えるものです。
ここで少し召命を巡る私の個人的な体験をお話しすることをお許し頂きたいと思います。 (ここだけの話ですが)私はキリスト教の信仰を持つことに積極的ではありませんでした。むしろ、忌避、あるいは拒否していたと言った方が適切であるかも知れません。私は縁あってキリスト教主義の大学で学びました。専攻は「哲学」でした。とりわけ無神論の哲学―卒論はF.W. Nietzsche でした―に興味を持ちました。キリスト教主義の学校でしたので、1限目と2限目の間に「チャペル・アワー」(20分程度の小礼拝)がありました。知的好奇心から積極的に参加し、それで満足していたのです。また、必修科目として「キリスト教概論」がありました―講師は、後に解放の神学を部落問題の視点から捉え直した著書『荊冠の神学』で被差別部落解放と聖書的解放を結びつけた神学者の栗林輝夫さんでした―が、あまり良き学生ではなく、必修なのでとりあえず履修する、といった感じでした。
大学4年生の時のことです。大学の友人が突然「神学校に行きたい。神学校に行くには洗礼を受けなければならない。そのためには教会に通う必要がある。自分一人で教会に通うのは不安なので一緒について行って欲しい」と言い出したのです。日曜日は特に用事がなかったので「一度だけ」と念を押した上で引き受けました。その教会には大学関係者が多く会員として在籍していたため、大学の延長のような雰囲気がありました。知り合いも多く出席していました(当時、大学にはクリスチャン・コードがあり、教職員は皆キリスト者だったのです)。そこで、知り合いもいるので「もう一度」「もう一度」ということになり、気が付くと教会には彼の姿はありませんでした。私は「教会には(真面目に)通うが洗礼は受けない」と固く心に決め、良き求道者足らんと欲したのです。
そのうち、私がお世話になっていた牧師が都合により教会を辞任することになりました。ごく内輪で細やかな送別会が開かれました。その折、私が何故洗礼を受けないのかという話になり、返答に窮した私は「では、先生の最後の礼拝―その日は次々週に迫っていました―で洗礼を受けます」と咄嗟に応えてしまったのです―後日、その送別会に同席した方と牧師から「本当に良いのか?」と確認の話がありました―。受洗した私は「教会役員にはならない。平信徒のままでいる」と誓いを立てました。しかし、やがて教会員の転出や異動・減少により役員を引き受けざるを得なくなりました。「信徒のままで教会を支える。牧師や伝道師などの教師にはならない」ことを次の目標としました。しかし…。その後の展開は皆さんご覧の通りです。
4 おわりに
牧師・旧約学者の浅野順一さん(氏は共助会の先達のお一人でもありました)はあるエッセーでこのように語っています。「神の選びは何人に来るか。また何時来るか人の知るところではない。ただ神のみ永遠の昔から定め給うところである。人は神の定めに従って歩むほかはない。これを好むと好まざるとは人の考慮であって神の与り知らぬところである。神は土の器を起こしてその僕となし給う」。また、「エレミヤはその久しき苦難の生涯のうちに、この一事を繰り返し繰り返し経験した。彼がその生まれた日を呪った時も、ヤーウェの言葉を再び語らないと心に決した時も、ヤーウェは彼を捉えて凱旋することをその召命の最初から骨に徹して自覚せしめられた。『あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです』(20:7)。神に捉えられた者は災いである。しかし彼はこの世の何者も破り得ない力の上に立つ神の僕である」とも。
私たちは、預言者エレミヤを通してその召命について考えてきました。キリスト教界においては少子高齢化等に伴う教勢の低下と共に伝道献身者の減少が叫ばれてすでに久しく、喫緊の課題となっているのが現状です(『東京神學大學報』323号の「学長室から」によると、『教団新報』〔2023年4月22日号〕で今回〔2023年度〕の日本基督教団の春季教師検定試験の受験者数が初めて30名を下回ったことが紹介されていました)。召命=献身(司祭、牧師、伝道師、宣教師、修道士・修道女など、直接教会や宣教団体の働きに携わること。また、献身を決意してから、それを公に表明して、所属教会の推薦を受けて神学校に行くこと)ではないにしても、「神の選びは何人に来るか。また何時来るか人の知るところではない。ただ神のみ永遠の昔から定め給うところである。人は神の定めに従って歩むほかはない。これを好むと好まざるとは人の考慮であって神の与り知らぬところである」のは事実であり得ることでしょう(奇しくも東京神学大学の2024年度学生募集要項にはエレミヤ書20章9節「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。」が聖句として掲げられています)。召命Vocation は「天職(天から授かった職業。宗教改革者M. Lutherに由来しています)」とも訳される言葉です。献身とは本来自分自身を神に捧げる意味なので、すべてのキリスト者は献身しているということもできるのです(現にカトリック教会では全信徒はキリストから教会に託された使命である「使徒職」にあずかっているとされています)。
最後に、浅野順一さんの同エッセーより一文を引用し、拙い応答の結びといたします。「神の前に出る時、人は丸裸である。おののく良心をもって、しかり、しかり、いな、いな、と答えるのみである。エレミヤの神は、『正しき者を試み、人の心と思いを見られる万軍の主』である(20:12)」((注. (日本基督教団 土佐教会担任教師)
参照文献
聖書:『口語訳(日本聖書協会訳)』、日本聖書協会、1954年。
『新共同訳』、日本聖書協会、1987年。
『聖書協会共同訳』、日本聖書協会、2018年。
『新改訳2017』、新日本聖書刊行会、2017年。
『新改訳 第三版』、日本聖書刊行会、2003年。
『フランシスコ会訳(原文校訂による口語訳)』(合本版)、フランシスコ会聖書研究所訳、サンパウロ、2011年。
『文語訳(明治元訳)』、聖書翻訳委員社中訳、日本聖書協会、1888年。
“Today’s English Version(TEV)”, American Bible Society, 1979.
“English Standard Version(ESV)”, Crossway Books, 2001.
(注1:小林昭博「マルコ受難物語における応答:レヴィナス、デリダ、責任= 応答可能性」、『神學研究』第
59号、関西学院大学神学研究会、2012年、37―43頁(尚、原文は英語ではなく仏語「応答」reponse、「責任」responsabilite を使用している)。
(注2:当日配布されたレジュメによる。11頁。
(注3:浅野順一『予言者の研究』(講談社学術文庫)、講談社、2023年、176頁
(注4:浅野『予言者』、176―177頁
(注5:『東京神學大學報』第323号、東京神学大学広報委員会、2023年、2頁。
(注6:浅野『予言者』、176頁。