【主の祈り 第六回】罪の赦しの道を歩む 朴大信
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイによる福音書6:12)
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。(ルカによる福音書11:4)
はじめに
前回(2023年第5号)の最後の文章の一部を、引用します。「主の祈りは、『私のあり余る糧』を願うのではなく、どこまでも『我らの日用の糧』を今日も与えたまえと願う……この願いは、神の前では個人の事柄だけに還元縮小することはできません。そしてこの後に続く『我らの罪をも赦したまえ』との祈りに悔い改めを重ねながら、私たちは『我ら』と呼ぶべき自らの隣人を発見してゆくのです」。
この関連で、一つ思い起こす祈りがあります。ドイツの家庭でしばしば祈られるという食卓の祈りです。「主よ、私たちにどうしてもなくてはならないものが二つあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日毎のパンと、罪の赦しを。アーメン」。
「主の祈り」において、「日毎のパン」と「罪の赦し」が相並んで求められていることは偶然でしょうか。この祈りから、主イエスは私たちが何を本当に求めねばならないかを教えてくださいます。それを求めなければ、私たちは本当には生きてゆかれない存在であること。否、私たちは本来そう祈らずにはおられない存在であることにさえ気づかせてくれる祈り。それが主の祈りです。私たちの体は、日毎のパンが無ければ生きられません。しかしまた私たちの魂も、罪の赦しを頂かなければ真に生きてゆけない程に切実なものです。
聖書テキストの検討
ところで、冒頭に掲げた聖書テキスト(新共同訳)を基にすると、教会で今も広く親しまれている文語訳の定型文「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」には、ある種の違和感を覚えるかもしれません。この伝統的な祈りを口にする度に少なからぬ戸惑いを覚えてしまうのは、率直に、人を赦せないでいる己の姿をそこで認めざるを得なくなるからではないでしょうか。自分が全く人を赦せてもいないのに、「我らに罪をおかす者を 我らが赦すごとく」と祈ることには、どうしても後ろめたさが伴うのです。こうした事情から、新共同訳(聖書協会共同訳も)の苦心は、マタイもルカも、まず原文通り、主文から訳出・強調し(~赦してください)、かつ後続の従属文の先頭にある接続詞を最後に訳出することで(マタイ=赦しましたように[ホース]、ルカ=赦しますから[ガル])、あたかも私たちが人を赦すことが、私たち自身が神に赦されるための先行条件であるかのような誤解を少しでも避けるところにあったのかもしれません(新改訳に至ってはこの接続詞すら訳出されません)。
この問題と関係して、今度はマタイとルカを比較すると、前者は「赦しましたように=過去形/現在完了型」、後者は「赦しますから=現在形/意志未来型」となっています。要するに、先行する赦しの主体は誰かという問いが、やはりここにも絡んできます。マタイに沿って、我らに罪を犯す者をまず「我らが」赦したように、神もまた我らの罪をお赦しくださいという意味にとれば、そこには積極的で自律的な信仰の姿が見出される反面、しかしまた人間中心的な神との取り引き、あるいは人間主体の〝行為義認〟の優位性が助長されかねません。反対に、ルカのように赦しの主体をどこまでも神に置くならば、その神によってまず我らが赦されている恵みが先行し、その応答として「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦します」との決断が表明されることになります。これは、福音の光に照らされて初めて律法がその真の生命を得て、人を愛(赦し)の業へと押し出すという、(所謂〝律法の第三用法〟としての)信仰者の生き生きとした姿を映し出すことでしょう。
「赦せない私」と「赦せる私」との狭間で
以上のルカ的理解には、好意的な見方が多く集まる反面、一つの落とし穴があることにも留意しなければならないでしょう。どこまでも神の主権によって先行するはずの罪の赦しが、いつしか安価な恵みに堕してしまう皮肉をよく弁えておく必要があるからです。
言うまでもなく、神は私たちの赦しの出来・不出来を基準に、ご自身の赦しを決定されるような方ではありません。神は愛なり。ただご自身が愛そのものとしてあられる故に、無条件に、一方的に、その愛を注がれます。しかしまさにそうであればこそ、神は真剣に我々に変化を求められます。古い自分を脱ぎ捨てるように迫ります。神に赦しを請い、その恩恵を受けながら、未だ隣人を赦さずにいるこの自分。赦されることばかりを願い、自らは赦しの人として生きることを求めず、ただ相手の非ばかりを責めては、己の正義を振りかざして裁くことに躍起になる自分(ここでマタイ18:21~35「仲間を赦さない家来のたとえ」を想起する読者もおられるでしょう)。そんな古い自分から新しい人に生まれ変わることを誰よりも願っておられるのは、神です。赦すことは損であり馬鹿馬鹿しいことだと決め込んでしまっている私たちに、もう一度赦しに生きる決意と希望を得させる。それが神の御心であり、主イエスの祈りの心ではないでしょうか。
私たちは、赦せる人に生まれ変われるはずです。そのために、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と命じられた主イエスの真剣さに、私たちも真剣に応えなければならない。七の七十倍。いちいち数え上げていられない数です。否、もう数えるのはやめよう、ということでしょう。「これだけ自分は赦したのに」という打算からさえも解き放たれ、どこまでも赦しに生きるようにと教えられるのです。血眼になって人を裁きながら、しかし実のところ赦せないままの自分自身に困窮している、その霊的窒息状態をも主は見抜き、憐れみ、救い出そうとされる。だからこそキリストは弟子たちに主の祈りを教えられた後、すぐに次の厳しい戒めを付け加えられるのです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14~ 15)。
これを裁きと受けとるでしょうか。それとも私たちに対する揺るぎない信頼、そして恵みの約束と受け取るでしょうか。私事で恐縮ですが、学生時代、この箇所を扱ったある聖書研究会で、主のこの厳しい言葉に私は躓き、講師にぶつけてみました。
「先生、どうしても引っかかります。私が人を赦すかどうかで、神が私を赦すかどうかが決まるのですか。まず神が赦してくださる限りにおいて、私もようやく人を赦せるようになれると思うのですが……」。的を得た質問をしたつもりでした。しかし返って来た答えは意外でした。「君、それはね、甘ったれた信仰だね。神の赦しが何であるかよく分かっていないからそんな問いが生まれる。信仰の外からの質問だね。もっと内側に入ってごらん。真剣に人を赦すという決意に立って生きてごらん。そして祈ってごらん。その時、自分の罪深さが見えて来るから。キリストの十字架が近づいて見えるはずだから」。以来、この言葉は剣のように私の心に突き刺さったままです。しかしそれは少しずつ、痛みを引き起こす裁きの剣から、赦しに生きる決意と希望を取り戻すための、恵みの棘となっていきました。
負債に目を閉ざす私たち
いったい、私たちが真の意味で赦しに生きる決意と希望を取り戻すために、今一度心に刻むべき神の赦しとは何でしょうか。またその恵みが、決して安価なものに堕してしまうことがないための立脚点とはどこでしょうか。
もし神の高価な恵みが何がしかの理由で損なわれているのだとすれば、それはこの世界、また私たちの日常における圧倒的な現実によるものなのかもしれません。そこに潜む苦しみは、もはや聞き取り不能な超音波のようであるか、それとも鼓膜を打ち破る程の大爆撃音のようであるかもしれません。そうした計り知れない未曽有の現実によって、神の赦しの恵みとか、それによって赦されている人間の罪や負債の深刻さといったものが、どれだけ麻痺し、軽く遠ざけられ、陳腐なものに成り下がってしまっているかということに心を痛めます。
ところで、冒頭の新共同訳でも訳出されているように、「罪」とは「負い目」のことであり、負債を意味します。この負債について、神学者のティーリケは次のように述べました。「わたしたちはすべて、今の自分たちとは違ったさまで、あなたの御手から出てまいりました。わたしたちはもう、あなたの御手から出てきた時のように、あなたのところに参ることができません。わたしたちはみな、あなたに対して負い目を負ったままであるほかはないのです。わたしたちはみな、自分たちの生を大変な抵当に入れているのです。これが『負債』なのである」(H・ティーリケ著・大崎節郎訳『主の祈り―世界を包む祈り』、新教出版社、1962年、126頁)。
しばらく彼の言葉を引用しながら、さらに思索を深めたいと思います。彼は言います。「一般に、福音書では、『負債』や『負い目』という時、神の戒めに対する能動的な違反ではなく、むしろ、ほんとうになすべきことをしないままになっているもの、おろそかにしたもの、怠ったものなどを指している」(127頁)。その例として、王(最後の審判における主イエス)の次の言葉を引きます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」(マタイ25:42~43)。
ここに示されるのは、私たちが罪人であるという時、つまりそれはどこまでも主なる神に対する負債を負った者として宣告される時、その負債とは、実に、他者に愛を施すことを怠った姿として現れる、ということです。言い換えれば、罪とは、まさに私たちが隣人を前にして真の愛に生きることができない現実を指します。そしてティーリケは、この愛の真価についてさらに大切なことをこう説きます。「愛は、誰かが困っているのを知った時にはじめて、助けの手を差し伸べるのではなく、むしろ逆に、そうした困窮を見つけ出させるものだからである。人間は、……愛する者のみを理解することができるのである。……愛は、もしほんとうに愛があれば、ただ傷を癒すだけでなく、先ずもって、どんな傷をも見つけ出させる」(129― 130頁)。そう述べて、彼は特になぜ母親が、泣いている我が子がその理由を自分で言えない先から、あるいは泣き声をあげる前から既に深く子を理解できるのかに触れて、それは「理論の上でも実践の面でも、よく学んで知っているからではないのだ。そうではない。子どもを愛しているから」だと言うのです。
だからこそ、「福音書が、イエスが人の心にあるものを知り、その故にわれわれを理解し、心の底の底までも見通してい給う、と繰り返し繰り返し述べる時、それは、イエスがわれわれを愛してい給う、と言っているのだ」(130頁)との炯眼には感服させられます。同時に、上述の最後の審判で、罪人が交わす王(主イエス)との応酬がいかに的外れであるかを思い知らされます。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」(マタイ25:44)。ここに含意される言い訳はこうでしょう。「主よ、あなたが困窮される姿を見た時はいつでも手を差し伸べました。しかし主よ、いつあなたは、私たちが見ていたところでさらなる助けを必要としていたでしょうか。そんな姿など一度も見た覚えはありません。もし見たら、必ず手を伸ばし、喜んでお世話をたはずです」。
見えるものは決して見過ごしたわけではないでしょう。しかし、なお見るべきものには目を閉ざしていたのです。見えなかったのです。愛がなかったからです。愛に生き抜くことができなかったからです。
罪の赦しの道を歩む
ここに、いかに私たちが自らの負債に盲目であるかが否応なしに突きつけられます。さらには、この負債額がどれ程のものかを思う時、目も眩むような計り知れなさに私たちはたじろぎ、ただ圧倒されるに違いありません。生涯かけても返済しきれない借金を、私たちは今なお積み上げているのです。そうしながら、隣人となるべき友の前を素通りし、昨日も今日も哀しみを負わせたままでいます。
その哀しみは、しかし神ご自身のものでもなかったでしょうか。だからこそ、この哀しみのただ中に真の王が来てくださいました。そこに完全な終止符を打つためです。遠い天の高みから、地上の惨めな姿をただ眺めるのではなく、イエス・キリストは、これらの闇に光として降りて来られました。そしてそこで窒息状態のように生きる人々を自らの眼差しの内に捕え、その傍らに立って見つめ、愛し抜かれるのです。主は、真の人となられた故に、人々の裏切りに遭い、残酷な手に引き渡され、裸にされ、鞭打たれ、飢えに悶え苦しまれました。しかしそのようにして寄る辺なき者のあらゆる悲哀を担いながら、十字架の死へと身を献げ尽くしてくださったのでした。
ティーリケは言います。「このように、不幸のあらゆる道は、イエス・キリストに収斂し、あらゆる死の矢は、彼の胸を射る。爆弾の投下によってガタガタ音をたてて振動するどの地下防空壕の中でも、彼は、そこに、客としてい給う。如何なる避難の長い道程をも、救い主は共に歩み給う。―数千年の昔から、そして、終りの日に至るまで」(138頁)。これ程までの愛を、身代わりの犠牲を、他のどこに見出すことができるでしょうか。この愛なくして、世のあらゆる不義と苦悩が終わりを見ることはないでしょう。私たちの負債が帳消しになることもありません。神はこの愛をもって、この世界を新しく造り上げるのです。私たちを罪の縄目から解き放ち、愛に生かすために。そして赦しの恵みの中を歩ませるために。
「あぁ主よ、どうか私たちの罪をお赦しください!」
この言葉が神への誠実な祈りとして告白される時、私たちは自ら負うべき負債をキリストに負わせていた深刻さに憂いつつも、既に神に赦されている喜びに生きています。そしてこの喜びに生かされる限り、「私たちも人を赦しますから」とも、「私たちも人を赦しましたから」とも祈れるのです。なぜなら人を赦すとは、自分が受けた赦しの喜びに、この私の隣り人にもあずかってもらいたいと願ってすることに他ならないからです。
こうして神に赦される恵みは、単に内面の事柄に留まるものではなく、どこまでもこの世界と歴史の現実に結実しながら、和解の出来事、そしてパンの分かち合いをもたらします。基督教共助会が、『歴史に生きるキリスト者』(共助会編として1993年発刊)の群れであろうとすることは、この主の祈りの心に照らして、そして今なお朽ちぬ光を求めるこの闇の時代にあってこそ、真に御心に適った世の灯であると信じてやみません。(続)
(日本基督教団 松本東教会牧師)