ただ一人ではなかった 北中 晶子
2023年キリスト教共助会 クリスマス礼拝説教
マタイ福音書1章18 ―23節
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日はこうして、皆さんと共にクリスマスの礼拝を持てますことをとても嬉しく思います。
教会だけでなく、キリスト教世界では様々な場所や組織で、クリスマスまでの間、様々な準備をいたします。アドベント、待降節に入ると、聖書に描かれたクリスマスの物語、いにしえの預言者たちの言葉をもとに、様々の備えをいたします。
何の前触れもなく生まれる赤ちゃんはいないように、クリスマスは、備えをもって迎える喜びの時です。藪から棒に起こる出来事としてではなく、その意味を考え、思い巡らし、期待に満ちて待ち望む、来るべき時として訪れます。ただし赤ん坊の誕生と違うことは、これが「すでに起きている」という点です。毎年クリスマスはやってきます。毎年、私たちは備えをします。まだ起きていないこと、これからやって来ること、すでに起こったこと、成し遂げられていること。これらが神のご計画の中で、バラバラではなく、わかちがたく繋がっていることを、私たちは繰り返し知らされます。
私は今日、皆さんと「喜び」を分かち合いたいと思って来ました。けれどもそれは、決して簡単なことではありません。全世界の救い主、イエス・キリストのご降誕を、喜び祝うクリスマスです。……けれども、今、世界を見渡して、何の痛みも躊躇もなく、喜べる人など、いるでしょうか。もしそんなことが可能なら、それは人類に対する恐ろしい欺瞞と、冒瀆であると言わざるを得ません。迫害と戦争、貧困、飢餓。恐ろしい不正義が、あちらにもこちらにも見つかります。現代ならではの新しい問題もありますが、自分が生まれるよりもはるか前からずっと続いているような問題もあります。
何という世界を、わたし達は作って来てしまったのでしょうか。どんな世界を、若者達は、これから作っていくのでしょうか。
最近、ある学生がこんな話をしてくれました。社会の中で、身近に貧困家庭があり、食事の十分でない子どもがいることは、頭では知って、わかっていた。けれどもある団体の活動を手伝うようになり、実際にいつも空腹でいる子どもと出会うようになって初めて、本当にその問題の深刻さを知った。自分には見えないところで、すぐ近くで、お腹一杯食べられない子どもがいることが、ショックだった。……彼女はそんな風に話してくれました。
目の前の一人と本当に出会う時、私たちには初めて、「全世界」という言葉の重みがほんの少しわかるようになるのかも知れません。
全世界の救い主と聖書はイエス・キリストを呼んでいます。何年、何十年、何百年も続いて来た問題、解決できずにいる宿題が、この世界にいくつもあります。解決できない問題の核心にあるのは、他でもない人間の姿であると、私たちはしばしば知らされます。
人間とは、一体何者でしょうか。助け合うこともできれば、殺し合うこともできます。ゆるすこともできれば、憎むこともできます。分かち合うこともできれば、奪い取ることもできます。愛することもできれば、石のように冷たい心で見ないふりをすることもできます。
人間とは、一体、何者でしょうか。
信仰者の視点から、この問いに自分なりの答えを出した人がいます。第二次世界大戦中、ナチスドイツへの抵抗運動を理由に捕えられ、解放軍が到着するわずか数週間前に処刑されてしまった人です。ディートリヒ・ボンヘッファーというその人は、いつか戦争が終わったら、戦後ヨーロッパの教会を率いていく有力な指導者として国内外から期待された牧師であり、神学者でした。
39歳という若さで死んでしまった彼は、2年間の獄中生活でさまざまな文章を残しましたが、死の少し前に書いたといわれる一つの詩があります。「私は一体何者か」と繰り返すその詩は、最初、獄中にとらえられた自分に対する周囲の評価を綴ります。「悠然と、晴れやかに、自信に満ちた足どりで、/領主が自分のやかたから出て来るように/私は独房から出て来ると、人は言う」……「自由に、親しげに、はっきりと、指示を下すのは私の方であるかのように、/看守たちと話をしていると、人は言う」……「平然とほほえみを浮かべ、誇りに満ちて、/勝利を知っているかのように、不幸の日々を耐えていると/人は言う」。人々はボンヘッファーを、厳しい状況の中ですぐれた人間性を発揮する、頼もしい人として見ていたようです。けれども途中からこの詩は、私は本当に人の言うような私なのか、と自問を始めます。それとも、私自身が知っている私こそ、本当の自分なのか。「カゴの中の鳥のように」、不安で息が詰まりそうになりながら、ほんの小さなことに苛立ち、動揺し、怒りをぶつけてしまう。外の空気に恋焦がれ、温かい人間関係を懐かしみ、祈ることに疲れ、考えることに疲れ、すべて投げ出してしまいたくなる……。どっちが本当の自分なのかと悶々と考えながら、けれどもこの詩の最後に、ボンヘッファーは書いています。「私は一体何者か。/孤独な問いが私をあざ笑う。/私が何者であるにせよ、/神よ、あなたは私を知っている。/私は、あなたのもの。」
人から見えている自分と、自分の知っている自分との間で苦しんだことのある人は、皆さんの中にもいらっしゃるかも知れません。自分を見つめる問いは、時に際限なく広がり、終わりのない自問自答が自分を苦しめる時もあります。けれども、自分がただ一人ではなく、神に知られているとボンヘッファーは知っていました。人がどう思うか、あるいは自分がどう思うかによって自分自身を知ることをやめ、神がご存知である自分こそ本当の自分であるという、新しい自己理解がここにはあります。手放せない自我を超えたところで、神が私をご覧になっている。この確信に立ってみる時、自分は何者か、という問いは、もはや孤独な問いではありません。
本当の自分は、神さまが知っている。皆さんはこの考え方について、どう思われるでしょうか。神にまかせ過ぎだと思う方もいるかも知れませんし、少し無責任じゃないかと思う方も、いるかも知れません。けれども今日、クリスマスの礼拝においてこそ、私は、このことを皆さんと分かち合いたいと思いました。人間とは何者かという問いに対して、その答えは私たちではなく、神にあるということこそ、クリスマスの出来事が教える内容だからです。
時は、紀元1世紀、地中海沿岸の一帯は、手も脚も出ないほど強大な力を持つローマ帝国によって支配されていました。負けに負けて、ユダヤの人々は暮らしていました。土地を追われ、資源を奪われ、税金によって搾取され、……これ以上、説明する必要はないかも知れません。現代世界にも、たくさん見つかる状況です。救い主は、天地をひっくり返すような仕方で助けてくれる有力な指導者と期待されたかも知れません。そのくらい途方も無い仕方でしか、ローマの権力や軍事力に対抗することはできなかったからです。奇跡のように、番狂わせが起こって、事態が予想外の展開を見せて、社会構造がひっくり返るような、そんなことを期待する人々もきっといたかも知れません。
けれどもそうではなかった。クリスマスの出来事の描かれ方に、私たちはイエス・キリストがどのような救い主であったかを表す大切なポイントがすでに隠れていることに気づきます。イエスは、私たちの一人です。「神は我々と共におられる」というのは、神が我々の側につく、という意味ではありませんでした。神は、どこまでも、私たちと共に歩こうとしておられます。負けても、失っても、奪われても。その負けをひっくり返すのではなく、共に負けようというのです。失ったものを奪い返すのでなく、共に失おうというのです。悲しみ・苦しみをなかったことにするのではなく、共に悲しみ、共に苦しもうというのです。
そこに、どんな意味があるというのでしょうか。
人間とは、一体何者でしょうか。
「神よ、私たちはあなたに背きました、思いと言葉と行いとによって、すべきでなかったのにしてしまったことによって、すべきであったのにしなかったことによって」。これはある定められた祈りの文言の一部です。神への祈りは、すでに神がすべてをご存知であることが前提です。その上で、自分自身が神の前で自分の言葉で語り直します。すべきでなかったのにしてしまったこと、すべきであったのにしなかったこと。この二つは対になって、この祈りの言葉に登場します。しなかったことは、他人からは、全く知りようのないことかも知れません。側から見れば、しなかった行いは、はじめから存在しないのと同じかも知れません。けれどもだからこそ自分にだけは、よくわかります。しなかったこと、できなかったことが、いつまでも胸の中でキリキリと残ります。それを知っているのは、確かに、私と神だけです。
クリスマスに生まれたイエス・キリストの生涯は、最後、十字架の死で終わります。それは、しなかったこと、できなかったことの塊です。イエスを裏切ったのは、イスカリオテのユダばかりではありませんでした。弟子たちは皆、イエスを裏切って逃げたと聖書は伝えます。全員です。
イエスの十字架の死は、尋常でない仕方で描かれます。たった一晩のうちに、わずか12時間くらいのうちに、捕えられ、裁判にかけられ、朝にはもう処刑されてしまうなんて、古代世界でも決して普通のことではありませんでした。何が起きているというのか。自分たちもイエスの仲間であると知れたら、同じ目にあうのではないか。イエスを裏切った弟子たちの心は混乱と恐怖でいっぱいだったに違いありません。その一方で、すべて終わってしまった時、つまり、イエスが死んでしまった時、弟子たちにはまざまざとこのことが感じられたのではないでしょうか。取り返しのつかない仕方で、逃げてしまった。ここぞという場面で、裏切ってしまった。この悲惨な結末に自分達も、加担してしまった。無力だった。卑怯だった。止められなかった。やめ方のわからない争いがあります。止め方のわからない暴走が起こります。現代世界においても、それらの行き着く先は、敵も味方もない滅びであることを、私たちは知っています。イエスの死は、その誕生と同じように、全く私たちの一人としてありました。人間の愚かさと弱さの引き起こす結果として、無名の一人として、世界の片隅でその生涯を終えました。
神が介入したのは、その後です ― いえ、正確には、そのまっただなかです。もうすべて終わってしまったという絶望。最悪の結果になってしまったという落胆。それらに自分自身が加担したという自責の念。その苦しみの只中に、神が介入して、全く別の角度から、世界の語り直しを始めます。私があなたたちを知っている。どんな悲惨な現実でも、あなたたちの本当の価値を知っている。あなたは決して失われてはならない。あなたは決して滅び去ってはならない。神の愛はすべてにまさり、罪よりも、死よりも強く私たちをとらえて離しません。
救い主のご降誕は、神がこの現実世界に介入して、どこまでも私たちと共に歩こうとしておられることのしるしです。「人間とは、一体何者か」。神はこの問いに対して、驚くべき仕方で答えをくださいます。神が、人となりたもう。人間とは、御子イエス・キリストに値する。思い切って言いますが、それはつまり、人間とは、神ご自身に値するということです。弱く、愚かで、どうしようもなく孤独であるそのままに、ただ神の愛と赦しによって可能な人間理解です。
ここに、一人の人物がいます。聖書は彼について多くを語りません。彼は、婚約中であったいいなずけのマリアが、自分のあずかり知らない仕方でお腹に子を宿したと知って、愕然とします。なぜこんなことが起こったのか。事態が公になれば、マリアは社会から罰を受けます。最悪の場合は、石打ちです。この時ヨセフには、自分のすべきことがわかりました。ただ立ち去るだけではなく、マリアと子どもの命が助かるように、立ち去らなくてはならない。彼は、ひそかにそれを決め、実行するつもりでした。天使が彼にあらわれるのは、その時です。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリヤを迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った」。
お腹に子どもを抱えて、逃げも隠れもできないマリアに比べて、ヨセフには、実は選ぶ余地がありました。縁を切るのか、切らないのか。マリアを助けるのか、助けないのか。ヨセフは「正しい人」であったと聖書は語ります。マリアのお腹の子が本当に聖霊によるのであれば、自分が今、彼女を見捨てて良いはずがない。このことが彼には、よくわかりました。彼がこの時引き受けたのは、マリアとお腹の子だけではありません。ヨセフの尊い決断を、周囲は知るよしもありません。心ない人が彼らを非難し、あるいはヨセフを笑うかも知れません。彼はこの時、すべての可能性を含めて、覚悟を決めました。誰にも理解されなくても、神だけは知っていてくださる。笑われても良いではないか。誤解されても、良いではないか。神よ、あなたは、私を知っている。私は、あなたのもの。
救い主のご降誕は、このような、はたからは見えないような、人の本当の思いと共にあると聖書は伝えます。それは、私たちの日々経験する人間世界そのものです。救い主は、私たちの一人としてお生まれになりました。それによって私たちは、この人生をただ一人歩むのではないことを知りました。
だから、私たちはクリスマスに喜びます。それは、すべての問題が解決したような爆発的な喜びとは違います。暗い海でかなたに目標を見つけて進む船のように、静かな、小さな喜びです。人間とは、一体何者か。この問いに神がただ一度、永遠に、答えを出してくださいました。あなたは無限に尊い。私があなたを知っている。
あらゆる困難の中で、なお、消えることのない希望であり、喜びです。
皆さん、クリスマスおめでとうございます。
お祈りいたします。
恵みと慈しみに満ちた神、あなたの愛は私たちの思いをはるかに超え、私たちはそれを完全に知ることはできません。降誕祭の今日、大いなるあなたの愛のほんの少しを私たちにもわけてください。一人ひとりの心の中に、小さな愛の火を灯してください。私たちの思いではなく、神さま、あなたの思いによって、私たちが自分を知り、他者を知り、この世界を知るものとなりますように。あなたが私たちを大切にしてくださるように、私たちも、互いに大切にすることができますように。地に、平和が来ますように。あなたの御心がなりますように。
全世界の救い主、御子イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン
〔12月25日(月)於:久我山教会〕
(ICU教会牧師)