「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」― 今日、私たちにとってキリストとは誰か ― (二)下村喜八
5 ディートリヒ・ボンヘッファー『抵抗と信従』
5Ⅰ1 ボンヘッファーと『獄中書簡集』
ボンヘッファー(1906‐1945)は、プロテスタントの牧師・神学者で、ナチスの時代、ユダヤ人グループを国外に逃れさせる行動に加わったこと、およびヒトラー暗殺計画に加わったという嫌疑で1943年4月に逮捕され、1945年4月に絞首刑によって命を奪われました。
『抵抗と信従(Widerstand und Ergebung)』は、彼が獄中から書き送った手紙を友人エバハルト・ベートゲが編集・出版した獄中書簡集です。1951年に刊行されて以来、世界的に大きな衝撃と反響を呼び起こしたことで知られています。カール・バルトは、記述が断片的であるため、神学のテキストとして取り扱うことを躊躇したと伝えられています。たしかに、この書物は神学的考察としては、断片であり、草案に過ぎません。「しかし、まさにそれゆえに、特別に強烈で直接的な説得力をもっていた」(ハインツ・ツァールント)と言えます。さらに第一次世界大戦、ナチスの独裁、第二次世界大戦という過酷な時代を生きた「慰めのない世代」(R ・シュナイダー)に属する人々、つまりボンヘッファー、ラインホルト・シュナイダー、ロマノ・グアルディーニ、シモーヌ・ヴェーユ、アルベール・カミュ等が、共通して「十字架についた苦しむ神」に出会っているという点にもわれわれは関心を寄せないといけないと思います。ツァールントも忠告しているように、「この書は内容がこれまでの彼の著作と衝撃的なほど異なるところがあるため、多様な解釈を可能にしている。これまでの著述と緊密に結びつけて読もうとすると、かえって解釈を誤る恐れが生じる」ことになります。そこで、敢えてこの書を単独で取り上げて紹介したいと思います。ボンヘッファーの信仰思想を筆者の貧しい言葉で翻案すると、この書簡集がもつ「特別に強烈で直接的な説得力」を削いでしまう恐れがあります。直に真意を汲み取っていただきたく思うゆえに作品からの引用が多くなりました。ご容赦ください。
5Ⅰ2 成人化
「およそ一三世紀に始まる人間の自律を目指す運動は、……私たちの時代においてある種の完成に達した。 ― 私がその運動として考えているのは、この世界が、科学、社会生活、国家生活、芸術、倫理、宗教において、みずから生き、そしてみずからを処理するための法則の発見のことである ― 人間はあらゆる重要な問題において、『神という作業仮説』の助けをかりずに自分自身を処理することを学んだ。科学と芸術、そして倫理の問題においてもこれは自明のこととなり、もうほとんどそれを揺るがそうとする人はいない。そしてこのことは、およそ百年前から宗教的な問題にも加速度的にあてはまるようになった。いっさいは『神』がいなくてもやってゆけるし、しかも以前とまったく同じようにうまくやってゆけることが分かった。ちょうど科学の領域におけるのと同じように、一般の人間的領域においても、『神』はどんどん生活から追い払われ、地盤を失っている」。(1944年6月8日付。以下44.6.8 と略記)(私訳)
作業仮説(Arbeitshypothese)とは何を意味しているのでしょうか。身近なところから考えてみます。たとえば英語やドイツ語では、自然現象を表す場合に、特定の人や事物を表さないit やes を用いす。「雨が降る(英語it rains、独語es regnet)」。このitやes は元来、神を表しているという説があります。昔の人は雨が降っても、それがどのようにして起こるのかは分かりませんでした。そこで神が雨を降らせていると考えました。また身の上に大きな不幸が起きたり、不幸がつづいたりすると人々は神のたたり、あるいは神罰だと考えました。このように人々は何か理解できないことがあると神をもちだして説明しました。作業仮説とはそのような神を意味します。この言葉は、「機械仕掛けの神(deus ex machina)」、「埋め草(補充物)」あるいは「後見人」と言い換えられています。ちなみに、「機械仕掛けの神」という比喩は、ギリシアの古典劇において、解決困難な急場に突然神を登場させて解決したことからとられています。ところで、科学の進歩にともない、作業仮説の神をもちださなくとも説明がつくようになりました。降雨は自然現象として科学的に説明がつきます。これは自然科学の領域だけにとどまりません。倫理、経済、社会、宗教等の諸領域においても同じであるとボンヘッファーは考えています。以前は神をもちだして説明していたものが、自然法則、倫理的自然法、進化論といった、それ自体に内在する固有法則性が見出されることによって、もはや神が必要でなくなったのです。少なくとも神の領域はどんどん狭くなりました。それをボンヘッファーは人間の神からの「自律」として捉えています。親の教えや指図に従って生きていた子供が、次第に親の後見から独立して自律的になるように、人類も全体として成人してきました。そのような不可逆的な人類の歴史の歩みを彼は成人化と呼びます。
5Ⅰ3 宗教的人間と宗教性
「宗教的人間が神について語るのは、人間の認識が行きづまったときか、……人間の諸能力が機能しなくなったときである。しかしその神は、元来いつも急場を救う機械仕掛けの神である。宗教的人間は、解決できない問題の見せかけの解決のため、もしくは万事休すの状態になったときの力として、そのような神を登場させる。したがって常に人間の弱さを食い物にしていて、人間が限界に突き当たったときにそうするのである」。(44.4.30)(私訳)
われわれは何らかの困難に遭遇したとき、神ならきっとここから救ってくださるはずだと考えます。それもまたボンヘッファーのいう作業仮説としての神です。自分の困窮、自分の問題が先にあって、そこから神を創造します。そのようなところから全知・全能の神という最も都合のよい作業仮説が生まれてきます。そうであるとすれば、作業仮説としての神は、われわれの認識の限界および能力の限界においてわれわれの願望が創りだした神でもあると言えます。どれほど深遠に見えても、この世の自然的生の延長にある神です。いわゆるご利益信仰の神と変わるところがありません。したがって、ボンヘッファーにおいては、神について、私たちが考えることができる最高・最善なる存在、絶対的なるもの、無限なるもの、そして全能者といった観念はすべて作業仮説として否定されます。そして彼は、作業仮説としての神を信じそれを宣教することを宗教、そしてそのような神を信じる人間を宗教的人間と定義します。両方は完全に否定的な意味で用いられています。それに対し、彼は作業仮説でない、真の聖書の神を次のように表現します。
「神はご自身をこの世から十字架へと追いやられる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのかたわらにおり、またわれわれを助けるのである。キリストは彼の全能によってではなく、彼の弱さによって、彼の苦難によってわれわれを助ける。……この点が、あらゆる宗教との決定的な相違である。……聖書は人間を神の無力と苦難とに向かわせる。苦しむ神のみが人間を助けることができる」。(44.7.16)(村上伸訳、一部私訳)
5Ⅰ4 真の超越 ― 「他者のための存在」
作業仮説としての神をボンヘッファーは形而上的、超越的、あるいは彼岸的と呼んでいます。確かにそれは、この世を超え「神は私たちの生のただ中で認識されなければならない。神が知られることを望まれるのは、生においてであり、死において初めてではない」(44.5.25)。「神は私たちの生のただ中において彼岸的である」(44.4.30) と。では、生のただ中における超越とはどのようなものでしょうか。それはイエス・キリストとの出会いによる神経験であると彼は言います。「イエス・キリストとの出会い。それは人間の全存在の転換が起こったという経験であり、イエスはただ〈他者のために存在する〉ということの中で与えられる経験である。イエスの〈他者のための存在(Für-andere-da-sein)〉が超越経験なのである」(44.7.28)。イエスとの出会いは、弟子たちにとって、「人間のいっさいの価値評価が転倒したことを意味した」(44.6.30)。他方、「人間の心は内へと歪曲している」とボンヘッファーは考えています。そして作業仮説としての神は、すべて人間の自己の内へと向いた心が創りだしたものです。そういう意味で神の全能も、この世の延長線上にあり、決して超越ではないと。
「自己自身から自由であること、死にいたるまで『他者のための存在』であること。ここから初めて全能・全知・遍在が生じてくる。信仰は、このイエスの存在にあずかることである。……神に対するわれわれの関係は、考えうる最高・最強・最善の存在といったもの――これは真の超越ではない――に対する「宗教的な」関係ではない。神に対するわれわれの関係は、『他者のための存在』の中で、すなわちイエスの存在に参与することによって、新しい生を生きることである」。(44.8.3)(私訳)
5Ⅰ5 此岸性とキリスト像
ボンヘッファーはシュナイダーと同じように、現実がどれほど苛酷であっても、彼岸の救いによって希望を抱かせたり、慰めたりすることは誤りであると言います。二人の信仰は極めて此岸的です。先にシュナイダーについて述べますが、彼はこう書いています。「地上的なものと天上的なものとの分離は許されない。なぜなら、重要なのは、神によって命じられたことが地上で、歴史の中で、全人と全存在によって果たされることだからである」。
前篇で、シュナイダーにおいては、キリストは栄光に輝く王的支配者の姿をとってではなく、さながら十字架についたままの姿で復活しているかのようであると述べました。ボンヘッファーにおいても、酷似したキリスト像と此岸性が認められます。
「人々は言います。キリスト教においては復活の希望が宣教されること、そしてそのことによって真の救済信仰が成立したことが決定的に重要なことであると。この場合、重点は死の限界の向こう側に置かれる。まさにこの点に私は誤りと危険を見るのである。救いとはこの場合、さまざまな心配、困窮、不安、憧れからの救い、より良き彼岸における罪と死からの救いを意味している。しかしこれが本当に福音書記者とパウロのキリスト宣教の本質であろうか。私はそれに異議をとなえる。キリスト教的な復活の希望は、それがまったく新しい仕方で、……地上における生へと向かうことを人間に指示する。この点で神話論的復活の希望とは区別される。
キリスト者は、この地上の課題と困難とから、あいかわらず永遠へと究極的に逃亡することをせず、『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫ぶキリストのようにこの地上の生を味わいつくさなければならない。そしてそうすることによって初めて、十字架についた方、復活した方が彼のもとにいるのであるし、また彼はキリストと共に十字架につけられ、甦らされたのである。此岸を前もって捨て去ることは許されない」。(44.6.27)(私訳、傍線筆者)
このようにキリスト教的な復活の希望は、今、この地上で、まったく新しい形で生きることを人間に指示しています。ボンヘッファーは明らかに、死後の復活、彼岸における復活を、ここでは視野の外に置いているように思われます。「人間は、神を失ったこの世界で神の苦しみに共にあずかるように、呼び出されているのである」(44.7.18)。そして神の呼び出しに応えて、キリストの苦しみにあずかるならば、彼はキリストと共に十字架につけられ、甦らされたのである。そのときわれわれの生は「内に向いた、自己のための生」から「他者のための生」に変えられます。そこに新生と復活があるとボンヘッファーは考えます。傍線線部分は、既刊の二つの邦訳では「彼はキリストと共に十字架につけられ、甦らされる」と現在時制で訳されています。そのように訳すと復活は現在のこととも未来のこととも読み取れます。しかし原文テキストでは、前半は状態受動形(「今、十字架につけられた状態にある」)、後半は現在完了時制(「甦らされた」)で書かれています。にもかかわらず、なぜ現在時制で訳するのか、理解に苦しみます。おそらく、復活は死後のことであるという前理解がそう訳させたのだと思われます。しかし『抵抗と信従』におけるボンヘッファーにとってキリスト者の復活は未来のことではなく、すでに起こったことです。
5Ⅰ6 神なしに生きる
『われわれは ― 〈タトエ神ガイナクトモ〉 ― この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そしてまさにこのことを神の前で認識する! 神ご自身がわれわれに強いてこの認識に至らせる。このように、われわれは成人となることによって、神の前における自分たちの状況を正しく認識できるようになる。神は、われわれが神なしに生きてゆくことができる者に成らなければならないことをわれわれに知らしめる。われわれと共におられる神はわれわれを見捨てる神である(マルコ15・34)。この世でわれわれを、作業仮説なしに生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っている神なのである。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる』」。(44.7.16)(村上伸訳、一部私訳)
〈タトエ神ガイナクトモ〉は、オランダの法学者フゴー・グローティウス(1583‐1645)の言葉です。彼は〈タトエ神ガイナクトモ〉法(自然法)は成り立つとし、普遍妥当性をもつ国際法を提示しました。
〈たとえ神がいなくても、この世のただ中で生きてゆかなければならない〉ということは、従来の神、つまり人間の認識と能力の限界が創りだした神が存在しなくなったこの世のなかで生きてゆかなければならないということを意味しています。したがって、近代および現代の精神的状況を記述したに過ぎないとも言えます。ボンヘッファーによると、作業仮説としての神に固執しようとすることは、知的誠実さを欠くことであり、自分たちの状況を正しく認識できていないことでもあります。ところで、引用文の中の「神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」という謎めいた文章の「神なしに生きる」の神を「作業仮説としての神」と考えると、引用文全体は平易に理解することができます。一般的にはそのように読まれているようです。しかし、作業仮説としての神を創り出す人間の宗教性を否定的に洞察しえた人間が、たとえそのような神を失っても、「私たちと共にいる神は私たちを見捨てる神である(マルコ15:34)」といって、十字架上で神に捨てられたイエス・キリストが苦しまれたのと同質の遺棄感をいだくでしょうか。「神なしに」は明らかに、「作業仮説としての神」を失う以上の喪失感を推測させます。彼は「成人した世界はいっそう無神的だが、おそらくそれゆえに成人していない世界よりも、いっそう神に近い」(44.7.18)と言っていますので、作業仮説でない神は生きていることになります。宮田光雄氏のように成人した世界は神なき時代であると、両者を安易にイコールで結ぶことはできないと思います。(宮田光雄『ボンヘッファーを読む』参照)
5Ⅰ7 神による遺棄
私たちが抱く思想は、それぞれの生活経験および歴史的状況と深い関わりをもっています。したがって、生活経験および歴史的状況を異にする私たちには、ボンヘッファーを理解するには限界があります。そのようななかで、敢えて、彼の神による遺棄感あるいは神の喪失感を探りたいと思います。ただ『抵抗と信従』に詳しい記述がないため推測の域を出ません。
シュナイダーはナチスの時代の状況について次のように書いています。ドイツ国民は「自分が行動しても、行動しなくとも罪を犯すことになることを知りながら個人的にはどちらかを選ばなければならない」状況に置かれていたと。そして、「不可解な摂理のもとに天が閉ざされているように見えた」とも。その場合、共苦の愛が深ければ深いほど、心の傷は深くなります。ある研究者はこう指摘しています。シュナイダーは今生じている事態に何の責任もない子供や母親、老人やユダヤ人、若い兵士たちが殺されていった理不尽な経験を生涯克服することができず、それが晩年の、隠れたる不可解な神に苦しむキリスト教につながっていると。それは正しい推測であると思われます。
エリ・ヴィーゼル(1928‐2016)の『夜』というドキュメンタリー小説があります。彼は15歳のときに、父と共にユダヤ人強制収容所に入れられますが、偶然が重なり生き延びます。その収容所体験を書いた本です。そこに、二人の男性囚人と一人の12歳ほどのほっそりとした美しい少年が絞首刑に処せられる場面が描かれています。数千人の囚人の面前で処刑が行われます。見せしめのためです。その囚人の中に一五歳のヴィーゼルもいました。大人の二人は体重が重いためにすぐに息を引き取りましたが、少年は30 分あまり、臨死の苦しみをなめます。それをヴィーゼルは真正面から見つめなければなりませんでした。背後から「いったい神はどこにおられるのか」という声が聞こえました。ヴィーセルは他人の声とも自分の声とも判別できない声が答えるのを感じました。「どこだって? ここにおられる― ここに、この絞首台に吊るされておられる……」と。
ボンヘッファーは、国家があるべき姿から逸脱して暴虐を働いたとき、キリスト者の為すべきことの最後の可能性として、「車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるだけでなく、車そのものを止める」(選集6)行動に出ることがあり得るとし、ヒトラー暗殺計画に加わりました。殺人は、十戒の第六戒を破ることです。彼はその罪を負う決断をしました。「行動しても行動しなくても罪を犯すことになる」という状況の中での、ぎりぎりの選択であったと推測できます。そして、苦しむものと共に苦しむ愛がそうさせたと思われます。キリストに従う行為でありました。彼岸へと逃亡することをせず、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶキリストのようにこの地上の生を味わいつくす行為であったと言えるかもしれません。彼は殺人の罪を犯すことに加担し、逮捕され、独房にあり、死刑を待っています。私たちの罪を負って十字架につかれたイエス・キリストとどこか二重写しになって見えます。
シュナイダーは「キリスト教への招きは苦悩への招きである」と言います。ボンヘッファーも同様です。「キリストは、この世に代わって苦しみを負った。この苦しみだけが、救いをもたらす苦しみなのである。……キリストに従う者も『重荷を負うように』との招きを受けている。重荷を負うことの中に、キリスト者であることの意味があるのである。キリストが重荷を負うことによって、父との交わりが保たれたように、キリストに従う者も重荷を負うことによって、キリストとの交わりがたもたれるのである」(『キリストに従う』村椿嘉信訳)。この部分は『抵抗と信従』よりも以前の1937年に出版された書物からの引用です。そして今、重荷を負うことが殉教を意味するものとして彼の身に生じています。
「神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」という謎のような言葉の最後「神なしに生きる」について再度考えたいと思います。作業仮説とする解釈を除いて二つの解釈が可能です。(一)文字通り神なしに、神を喪失した罪人として、罪人のままで、罪人に過ぎない人間として生きること。このあるがままの人間が神に受け入れられ、共苦の神に伴われながら生きることである。この解釈の裏付けとなるものを一つあげておきます。「人間は、神によってくだされた『死の判決』を身に負う。すなわち人間は、〈罪のために、神の前に、日々死ななければならない〉という死の判決を身に負うのである。そして人間は、自分の生活そのものによって、〈神の裁きと恵みによって立つ以外には、決して神の前に立つことはできない〉ということを証しする」(『倫理』、村椿訳)。(二)近代人の神なしの況を、十字架上で神なしに生きられたキリストと共に担いつつ生きること。ところで、キリスト者の内面では、信仰が深まれば深まるほど、罪意識も深まってゆきます。罪の誘惑との闘いの中で、信仰が崩壊するぎりぎりのところまで追い詰められることもあるかもしれません。シュナイダーにあっては、キリストとの一体化が深まってゆくと、まるで天も閉ざされているかのような様相を呈し、神に見捨てられたキリストに近づく経験をします。それがキリストと共に他者の苦悩、時代の苦悩を担うキリスト者の究極の姿であると言えるかもしれません。
他方、「他者のための存在」であるキリストと出会うことによって、全存在の転換を経験し、キリストと共に他者の苦悩、時代の苦悩を担おうとしたボンヘッファーにも、神に見捨てられる遺棄感はあったことが十分に推測できます。
人々は、困窮の中にある神のもとに行き、
貧しく、罵られ、宿るところもパンもない神を見いだし、
罪と、弱さと、死に飲み込まれている神を見る。
キリスト者は苦しむ神のかたわらに立つ。
(44.7.18「キリスト者と異教徒」)(私訳)
良き力にすばらしく守られて、
何が来ようとも、われわれは心安らかにそれを待とう。
神は、夜も昼もわれわれのかたわらにあり、
そしてどの新しい日も必ず共にいまし給う。
(44.12.28「良き力に」)(村上 伸訳)
(日本基督教団 御所教会員)