【感話】「弱い私を生きる」 J.Y.
「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。
考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓かすとされています。
こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」
(コリントの信徒への手紙一4:8―16)
みなさん、こんにちは。Yです。「自由になんでも話していい」と言われてから1ヶ月と1週間、毎日毎日、「何を話せばいいんだ」とあわあわ考え続けた結果、今日、私がみなさんに聞いてほしいと思ったのは、ICUを離れてからの3年間のことです。
私は、ICUで、日々のんきに、「いのちは尊いな」、「あの先生の授業楽しいな」、「テスト嫌だな」と思いながら、本当にのんきに過ごしていました。おひさまたっぷりぽかぽかお花畑でのどかに息をしているかのような日々を過ごしていました。のんきに過ごしていたころ、大学4年生の春から本格的なコロナ型社会が始まりました。今までには感じたことのないようなストレスを感じ、いろいろな要因が重なり、摂食障害になりました。頭の中は漠然とした不安と自分の容姿と食べ物のことばかりで、何かを食べては吐いたり、動けなくなるまで毎日何時間も走り続けたり、とうてい正気と言えない日々でした。私は摂食障害から脱することに精一杯で、卒業研究には全く取り組めず、将来についてまともに考えることなく、それでもその時の私が選びたかったことを選び、それでもなんとか形だけの卒論を提出し、ICUを無事に? 卒業しました。
卒業した後は大学院に進学しました。が、わりとすぐに退学することを決め、次の年には山形に行って働くことにしました。新しい環境でひいひい働いていたのですが、ある日すってんころりんと転んで膝を怪我し、手術を受けねば前のようには歩けないと言われ、山形に移り住んでから8ヶ月がたった頃に、実家がある山梨へ戻ってくることになりました。そこからすぐに手術をし、リハビリもし、怪我をした日から約6ヶ月ほどで無事に歩けるようになり、また職探しを始め、10月から今働いている会社で働き始め、今に至る、という感じです。
今日の題である「弱い私を生きる」とは、おひさまたっぷりぽかぽかお花畑のようなICUを離れ、この「綺麗な経歴」ではない日々の中で出会った自分の脆弱さや愚かさと共に生きる、ということについてです。お花畑のようなICUを離れてからの3年間は、私にとっては非常に辛く、ずーんとした時期でした。去年の10月に就職するまで、安定した働き方ではなく収入も安定していなかったため、公的に払わなくてはいけないお金を払えなかったり、「就職もできずに」なんて馬鹿にされたり、「働いていないこと」への劣等感が大きくなりました。友人と比べては、「なんで私は」という言葉を自分に向けることが増え、次第に、「なんであの時」とか、「もっとこうしてたら」とかぐちゃぐちゃの感情と言葉で、自分を憎むようになりました。ICUでは自分のものだと信じきっていた「いのちは尊い」「私は尊い」という言葉すら、嘘だったのか、と、疑ってしまうほどに。
働けなかった時期、お金がなかったとき、楽しそうに遊んでいる友人を見て、本当に羨ましくなりました。すごく俗物的ではあるのですが、私も好きなものを買って、遊びたかったのです。「なんであの人は、なんで私は」という気持ちが芽生えました。「なんであの人は、なんで私は」というあの気持ちは、すごく小さく見えて、すごく危ない、暴力の種でした。
「なんであの人は」と思った瞬間、あの人は私より恵まれているんだし、ちょっとくらい僻ひがまれたっていいじゃないの、という考えが浮かびました。「あの人は恵まれているんだから、ちょっとくらい傷ついたっていい。私の方がかわいそうなんだから」と。
最初は小さかったはずの暴力の種を、「これくらいならいいか、私の方がまだかわいそうだし」と思い込んでしまううちに、というか、むしろ暴力の種だということにも気付かずに、思うがままに、友人に対する嫌悪感を募らせたり、身近な人へ八つ当たりをするようになったり、私は自分の体の中でとても立派な悪意と暴力を育てていました。
ふと自分の中の悪意に気がついて悲しくなったのは、愛とか、ことばとか、いのちとか、そういうものが尊ばれながら過ごしていたICUでの大切な大な時間を、自分で踏み躙にじっているような気持ちになっていることに気づいたからです。
ICUで私は、多くの言葉に出会い、私という存在が肯定されていることをたくさん体感しました。この場所で自分の中にふと湧き出る新しい言葉であったり、寮での何気ない会話での言葉であったり、授業で先生がありったけの心を込めて紡いでくださった言葉であったり。しっかり目を見つめて時間をかけて真っ直ぐと恵んでくる、愛だとすぐにわかるような、ぬくぬくとした言葉であったり、やさしいだけではなく、その時はわからなかったけど、今ようやく愛だったのと気づくことができた言葉であったり。私は、そんな言葉に恵まれながら、自分という存在が肯定されていることを、何度も何度も体感しました。
身体中が悪意で満たされて、自分のことが全部嫌いになって、「私なんてなにも尊くないんだ」と思い、どうしてこんなところにいるんだろうと思う度、この場所で出会った言葉たちがふと頭の中で生き返っては、「それでも生きていくしかないんだ」という気持ちにさせました。
この場所で出会った言葉たちは、暴力を打ち消すものとしてではなく、私が、私の体の中に生まれる悪意や暴力から逃げずにしっかり向き合えるよう支えてくれるものとして、私の中にずっとずっと存在していました。そうやって向き合う中で、私は、尊くなくても、愚かでも、脆弱でも、それでも生きていかなくてはいけないということを自覚しました。ここに存在することを、何かはわからない、それでもきっと本当にある、その何かに許されているから。だから、いい人ではいられなかった私にも安心して、自分の中の愚かさや脆弱さと向き合いながら、生きていけばいいんだ。そう思いました。
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」、私は絶対無理だと思っていました。頬を叩かれたら痛いし、痛いのは嫌だし、なんで私ばっかりやられなきゃいけないんだと思ってしまうからです。でも、心のどこかで、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出さなくてはいけない」ということに、うっすら気付いてきているような気がします。聖書で意図されているものとは明らかに違う気はするのですが、右の頬を打つのは、自分ではない他者とは限らないと思います。私の中の、自分への嫌悪感や悪意に晒さらされる時、「痛い、なんで私ばっかり」とか「辛い、何で私だけ」とか言って僻むのではなく、「受け入れます、だって、(多分)、本当はみんなそうなんだから」と、私の中に湧き出る嫌悪感や悪意にも、愛と肯定をもって向き合って生きていたいと思いました。自分のことに精一杯で、世の中に起こる暴力について、自分よりももっともっと大事なことについて語ることはまだできない私ですが、でも、それでも、「なんであの人は、なんで私は」ではなく、「本当はあの人だって、本当は私だって」って思いながら、いろんなものを肯定しながら生きていけたらいいなと思います。
ICUを離れ、3年が経ちました。ICUを離れてからの3年間は、自分に対する肯定の眼差しがほぼない場所で、ICUで自分が身につけたと思っていたものが本物かどうか、試されているような時間でした。ICUで身につけたもの、それは、物事の真ん中について考えること、誰かと向き合って言葉を尽くして語り合うこと、いのちは尊いということ、愛され、肯定されることの幸せとぬくもり。自分に対する肯定の眼差しがない場所で生きるのは、本当に、思っていたよりも辛く、寂しくて、やはりまんまと、私は脆弱であり、愚かでした。それでも、脆弱で愚かだけど、それでもここに存在することが許されているということ、誰かが恵んでくれた言葉と肯定に守られながら生きていることを喜びたいです。
ICUを卒業したら、すごくビッグな人になって世界に羽ばたいているんじゃないかと思っていた入学式。想像していた未来とは全く違う今を歩きながら、「私こんなビッグな人間になれましたよ」ではなく、こんなに弱い私の中には、ICUで身につけたもの、この場所で出会った人、恵んでもらった言葉、愛、肯定によってつくられてきた背骨みたいなものがあるんだということを、今日、自慢したいです。
聞いてくださって、ありがとうございました。
(会社員2024・5)