寄稿 青年の夕べ

愛すること、信じること 千葉 雄

今年の10月に「青年の夕べ」で感話を述べる機会が与えられました。この原稿は、その感話の内容を、この会を取り仕切ってくださる飯島牧師の「良きサマリア人」のメッセージと皆さんとのディスカッションから得たことによって少し書き換えたものです。

キリスト教のいう意味での「愛」とは、何なのだろうかとよく考えることがあります。相手の立場に立って他者を理解する想像力も、相手と同じ気持ちになって共に苦しむ共感力も乏しい自分に、キリスト教の言う意味での「愛」を実現することは不可能にも思えます。ひとり相撲のように自己満足的に他者を愛しても、相手の本当に必要とするものを察して相手の苦しんでいることを理解しなければ、愛は空想的で観念的なもので終わるでしょう。愛は自分だけで完結するものではなく、相手との関係の中で成り立つものです。また、仲良くなり親しくなることによってその間に愛や信頼が醸成されることはありますが、仲良くてもその人を愛することとなると別のことになると思います。それが如実に現れるのが、仲良くしている相手が悶え苦しむほどの苦難を負ったときです。

内村鑑三は、ヨブ記の講演で、苦難を負ったヨブに対して、慰めるのではなく因果応報の教義によってヨブに非があるとして責め立てる友人三人を評して、知識を持ってヨブに対するがそこに愛のないことを論じます。その中で、その一人であるビルダデについて次のように述べています。

彼はその真理と信ずる所を、場合も考えず相手の感情をも顧慮せずして、頭から平気で述べ立てたのである。あたかも一ひとつの学説を主張するが如くにその論理を運ばするのみであって、実際問題に携わるに当って必要なる気転や分別はその影すら無い。最初にヨブの子らの死を以て罪の結果のみと一挙に論断し去る如きは、相手の心を少しも察せざる無分別の言(ことば)といわねばならない。その神学思想の幼稚なるは時代の罪としてやむを得ずとするも、その信条を確定不変の金科玉条となし、これを以てあらゆる場合を説明し去り、これがためには相手の感情の如きは勿論、何を犠牲に供するも厭いとわぬというその心持、その態度そのものが全く神学者のそれである。

そして教義を知っても愛を知らない三人の友人について「愛ありてこそ教義も知識も生きるのである。愛ありてこそ人を救い得るのである。愛なき知識は無効である。この事をヨブ記は文字の裡に暗示しておるのである」と述べています。自分の小さな研究からでも、知識が必ずしも他者を救う生きた真実とはならないことを感じます。社会や世界にいる他者を理解するには知識が必要です。しかし、内村の言うように、「愛なき知識」の傲慢さというものが愛とはかけ離れていくことを知りました。研究の理論的な枠組みによって知的高みから人間のあらゆるものを当てはめていったときに、生身の人間への想像力を欠如させた傲慢な知識となり、愛とは無縁になり、その知識は生きた真実とはならないのだと思います。

また、ホロコーストによって何百万人ものユダヤ人たちを虐殺したナチスの歯車となって収容所にユダヤ人を送ったアイヒマンについてユダヤ人女性の哲学者ハンナ・アーレントは論じています。その中で、アーレントは、アイヒマンがユダヤ人のいる裁判の中で何の躊躇もなくナチスで出世できなかった無念を「一貫して一言一句たがわず同じ極り文句や自作の型にはまった文句をくりかえした」として、次のように述べています。彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が考える能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることがますます明白になって来る。アイヒマンとは意志の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、従って現実そのものに対する最も確実な防衛機構〔すなわち想像力の完全な欠如という防衛機構(独)〕で身を鎧っているからである。

アイヒマンのユダヤ人や周りの人間への想像力の欠如にはゾッとするものがありますが、自分にはこのアイヒマンの姿と酷似したものがあり他人事ではありません。相手の状況や気持ちや自分自身の気持ちすら自分の言葉で置き換えて思考するということが苦手で、想像力が働かず、よく会話の中で自分の言葉が決まり文句になってしまう経験をします。言葉を紡ぎ出す能力の不足が、相手の気持ちを咀嚼し、相手の立場をおもんぱかる想像力を欠如させ、対話することを困難にします。内村鑑三の指摘する通り、その場の融通の利かない決まり文句の知識の言葉として相手の立場やその会話の文脈に沿わずに使った場合、どんなに真実で論理的に正しい言葉でも、相手を傷つけるだけの傲慢な言葉となり、数式や理論をそのまま生身の人間に当てはめるような血の通わない言葉になるでしょう。ナチスこそは、まさにこの人間への想像力が欠如した知を人間に当てはめ組織的な殺戮を行ったのであろうと思います。自分を理解する大事な友人の苦しみを前にした時に、共に苦しむどころか相手を追い詰める自分の姿に気づいた時に、ナチスのように血の通わない自分の心に絶望しました。これがきっかけとなり、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で描かれていた神の愛に救いと希望を感じ、信仰と大学院への入り口となりました。

愛するためにはどうすればいいのかということは今なお続く自分の信仰生活の課題です。信仰が与えられたときに大きな回心を経験して自分の生活が以前の堕落と切り離され新しい生活が始まりました。しかし、神の愛を受けた感動と感謝から他者へと開かれていった回心の経験の効力は、半年もすると薄れていきました。以前の堕落に戻ることはできないが、以前の自分のものが舞い戻ってくるように思われました。そこから、信仰生活というものが罪との戦いの戦場と化しました。与えられた仕事を必死で働くのでもなく、嘘や虚栄や情欲や傲慢な心が復活していく中で、回心の時の信仰や心に戻りたい、罪から解放されたいと霊が呻吟しながら生活を送っていました。その中でも、神様に心を向ける時には新たな心と力が与えられるように感じました。しかし、それが長続きせずに、生活の罪の中に埋没し、虚無的になり、与えられた仕事をする推進力が失われていく。祈りや礼拝や聖書を読む中で、力が与えられるがやがて失われる。この繰り返しの信仰生活を常に呻吟し、やがて自分の罪だけに眼が行き自己に閉塞し本質的な意味で他者へ眼を向けることがなくなっていきました。

去年の夏、私は精神的な危機を迎えました。そのような中で、私を心配してくれた友人たちの誘いによって、「青年の夕べ」に導かれました。私が参加した会での感話者によるお話の内容は、一回目は人と人との営みの職場で信仰を持ちながらいかに愛によって対話するかということについて、二回目はガザの人々への腸はらわたの引きちぎられるような共苦についてでした。この二つの感話はその時の自分にとって大きく、この感話を通して自分の信仰生活がいかに間違っているかということに気づかされました。自己の愛のなさや罪に眼を向けるあまりに、「愛は律法を全うする」というパウロの「愛」の意味にある「他者」が抜け落ちていました。

精神的な危機を迎えた時に様々な人の善意に触れたことから気づいたことは、自分はとことんまでどうしようもない存在ですが、神や周りの人間は見捨てないでいてくれたという事実です。神は自分がいつまでも罪深いことに対して愛想を尽かすような方ではなく、そのことを折り込み済みで、ダメなお前のそのままを私に委ねよと常に言ってくださっていたように思います。それに対して、罪の生活の中で溺れそうになった自分は、藁をも掴む思いで、回心の経験や罪を解決する意志などを担保として神の救いを求めていたのだと思います。自己への不信から何らかの見えやすい担保で神の救いに与かろうとして、神の前に罪ある姿のまま投げ出して神に委ねて救ってもらおうとしなかったのです。いや、自分がダメだと思って全身を神に投げ出した時に新しい力と恵みをいただきながらも、また罪が戻ってくるとこのような偶像にすがったのです。それは人間関係においても同じでした。自己不信から自己を曝け出すことを恐れ、心と心が直に向き合うのではなく、演出された自己や言葉を相手との間に置きながらそれを担保として相手への信頼を勝ち取ろうとしていました。根底には自己への不信があり、これが神や他者を信じることを妨げていました。たとえ自分を信頼することができなくても、神や他者を信頼すれば良かったのだと思います。

こういったことに気づかされた時に、ふと過去のある体験を思い起こしました。それは体調を崩して入院してしまった時のあるささやかな体験です。夕食後、病院のホールみたいなところがあり、そこで何人かの人が集まって、トランプゲームをしたのです。そこには、身体に障がいを持った車椅子の人、脳梗塞で頭の回転が遅れて舌足らずな人、発達障がいの自閉症で変

な言い回しをする人などがたまたま自然に集まりました。ひと時でしたが、その場で、障がいやコミュニケーション能力などの有無や違いを超えて、心の交流が生まれたのです。そこでは、トランプのルールが破られ、障がいがあっても楽しめるように融通のあるルールへと自然に変わっていきました。ルールに本質があるのではなく、人間が人間らしく互いに楽しむためにあるのであり、ルールがその場にいる人間に合わせるようになったのです。そこには、できるものができないものを支援するような上下関係も、コミュニケーションの能力によってその場の主導権が決まることもなく、変な発言や行為の間違えも温かく笑ってもらえる場でした。作業療法のプログラムのような型通りの形式もなく、ただトランプを通して和らいで自由に交わる場が自然発生的に生まれたのです。どんなに話す人が朴訥であっても、何を言っても、どんな立場であっても自由。それぞれの人間に与えられた神からの賜物に応じてそれぞれの役割が発揮され、それぞれの能力や障がいや境遇などを超えた本質的な人格の交流の場となったのです。自分の中で一つのヒントになる体験でした。

人間への共感力や理解力の乏しい自分の性質も、神が授けた一つの特性であり、その貧しい精神の中で、神と他者を信じていかに勇気をもって心と心が直に向き合うかという課題が人生に与えられていると思います。人生での人と人との営みは、神がそれぞれの人間に働きかけ、神によって全てが用意され取り仕切られる場であると感じます。私の乏しい人生でも、思わぬ人の思わぬ善意や言動を通して、自分が救われたり導かれていったりしてきたことを思い起こします。その営みの場には、神が用意したあらゆる人間が必要なのだと思います。それぞれ神から与えられた使命と能力の中でそれぞれの役割が発揮されたのは、原始キリスト教のエクレシアの姿であったと思います。人と人の営みの場が神の取り仕切る場であると信じて全知全能の神に委ねることによって、自分の足りない部分を神や誰か他の人がその場にあって補ってもらえると考えられます。だから神に祈り目の前の人に誠心誠意を傾ければ、自分の能力の不足をそんなに恐れなくていいのだと思います。この病院でのささやかな体験は、愛を共感力や理解力による能力として考えていた自分に反省を迫りました。

愛するということの答えは自分の中で見えていません。ウクライナやガザなど世界の戦争で想像を絶する苦しみを負う人々を見て、本当に彼らに寄り添っているかと言われれば、寄り添えきれない自分がいます。しかし、自分の本当に狭い心の中で精一杯に共に苦しむ、狭い頭で精一杯彼ら彼女らの状況を理解する、それしかできないように思います。そして、その範囲で何らかの行動をしていく。共感力や理解力が伴うかどうかの前に、目の前の人や世界の人々を神から与えられた人間だと思って精神を尽くし知力を尽くし心を尽くして向き合う。当たり前のことかもしれませんが、未熟な自分にとって愛の実践とはここが出発点のような気がしています。

(家庭集会・東京外国語大学特別研究員)