発題と応答

沢崎堅造が見据えていたもの」   片柳 榮一

発題1 

私たちは「和解 ― キリストの十字架による赦しに押し出されて」と題して、今年も基督教共助会夏期信仰修養会を持っています。私がお話するのは澤崎堅造についてです。日本軍国主義が大陸に侵攻する中で、澤崎が何を見据えて、蒙古伝道に踏み出し、消えていったかを探ることです。まず澤崎についてご存じない方もおられると思いますので、簡単な紹介をします。

澤崎堅造は1 9 0 7 年東京に生まれました。1925年東京外国語学校(英語部貿易科)入学。翌1926年フレンド派の礼拝に出席、受洗。1927年京都大学経済学部に入学。そして京都共助会の交わりに加わり、1930年京大を卒業し、東京市役所統計課に就職します。1934年東京市役所を辞し、京大大学院に戻り、北白川教会創立委員の一人となります。1937年、今西良子と結婚。1940年京大の支那慣行調査会から中国視察旅行に派遣され、熱河の承徳に福井二郎師を訪ねます。1941年京大人文研助手。1942年助手を辞し、嘱託となり、単身大陸伝道に向かい、家族(夫人、長男望さん)は同年秋、後を追います。1943年赤峰から林西に、さらに奥地の大板上に移ります。1944年6月次男新(あらた)さん死亡。1945年8月3日退去命令により、家族は大板上を去りますが、残務整理のため残った堅造は、侵攻したソ連軍により、死に至らしめられたことが後に明らかとなりました。

澤崎を蒙古伝道に駆り立てていたものが何であったかを窺わせる文章があります。「私も亦私ながらに主の後を随いて往きたい、主の路を歩んで往きたいと心から願った。それは何時頃から特に強く私の心に起こったのであろう。確かとはわからないが、先年中国旅行に出たとき、その途次熱河にいられる福井先生を訪ねた。そして共に毎朝早く山に祈りに往った。山に於いて確かに一種の霊感を受けた。再び此処へ祈りのために来るべきであると感じた。…… 私の友が、漢口陥落の日に、それを知らないで大別山の山奥で戦死した。その友は大学の最終学年にあった。卒業後は伝道に身を献げる積りであった。それが御召を受け勇躍戦線に向かったのであるが、彼の日夜の祈りは、東亜永遠の平和のためにと云うのであったであろう。それを聞く由もないが、私はこの友の名誉の戦死を聞いて、実際愕然とし、悄然としたのである。彼の志を継がねばならないと、私は心に期したのであった。それは私をして中支の旅行に駆り立てたのであった。私は何か、死ぬ程満足した働き場を得たいとも感じた。併しそうした思いは、一切かかって主の道を懸命に追い往くことであると覚ったのである。それから後は、ただ主の路を尋ね求めることに務めた。イエスは今東亜の一角を歩みつつあり給うと云うことは明らかである。イエスの路は、苦しんでいる淋しい人々へと向うのである。死の蔭の谷を往くのである。多くの人に顧みられない捨てられたような処にこそ、主は進み給うのである。かくて私は主の路を何処に求めようとしたのであるか。初め大陸と思ったが、また南洋とも思った。併し南洋は何か物が豊かな感じがする。住民は貧しいとしても、兎も角ものが豊富だと云う感じがする。これに対して北の方はどうであるか。まず寒い。寒いと云うは不毛を意味し、多くのものを逆に費消しなければならないところである。私は躊躇なく、南を捨てて北の方を見ることにした。北と云っても満州を見るより外はないが、その中でも人の心の最も苦悩なる地を求めた。長い歴史の変遷を見ても如何に多くの民族が混交し葛藤し幾つかの国家が興亡した西南国境方面に特に眼を向けざるを得ない」(「曠野へ」『新の墓にて』176― 177頁)。

死と真向かうことを迫られた戦時下の緊迫した精神状況の中にあり、そして親友を失うという衝撃もあったでしょうが、澤崎を荒涼たる蒙古の地へ駆り立てていた根本にある求めは、「私ながらに主の後を随いて往きたい、主の路を歩んで往きたい」という願いであったことが知られます。「主の後を随いて往きたい」という澤崎の願いは、具体的には「苦しんでいる人、淋しい人々へ向かう」ということです。澤崎にとって主イエスは、単に客観的真理として、神の子であったという教義に尽きるものではありません。澤崎にとって主は今も生きていたもう方です。それならその主は今、何処を目指して歩みたもうか、自分はその主を何処に見出し、その主に従うかを、ひたすら尋ね求めたのでした。

澤崎の蒙古伝道は、彼の深いキリスト信仰から湧き出で、押し出されているのが分りますが、その展望をひらいているのは、彼の長年の学問的研究に支えられた歴史認識に由来していると言えます。そして澤崎も明治維新以来の日本近代化の課題、欧米列強に伍する富国強兵国家を建設するという課題の渦中に巻き込まれて生きざるをえなかったことが見えてきます。澤崎は1942(昭和17)年、大陸伝道に出発する年に『東亜政策と支那宗教問題』(長崎書店)と題する著書を著わしています。蒙古伝道に出発するに先立ち、これまでの学的研究に区切りをつけ、また彼の蒙古伝道のいわば、思想的根拠づけとも言えるものです(この書は、1996年に『アジア学叢書15』〔大空社〕として再刊され、アマゾンなどを介して古本店から購入可能です)。

澤崎はこの書の第九章「東亜政策の一基調」と題する章に於いて、自らの思想的立場を明確にしています。いわゆる「大東亜戦争」がその前の年に勃発した生々しい余韻を伝えながら、彼も「東亜」を問題にします。「東亜」(東アジア)は「西亜」(西アジア、中近東)や欧米に対するものとして、考えられています。当時の日本の思想界においては、欧米列強に対して、アジアの、そしてその盟主としての「日本」の独自性、世界史における独自の意義などが、偏狭なナショナリズムに支えられて、声高に論じられていたと思われます。澤崎も一面この流れの中で考えています。東亜の主体性の主張です。その点は彼の思想の時代的制約として批判されねばならないでしょう。まずそうした問題点を示す文章を示しておきます。「日本の東亜政策の基調。東亜は自主的に主体性を取り戻させねばならない。その主体の中心性を担うものは現在のところ日本である。即ち一面に指導性を持つこと、他面には奉仕性をもつこととであらねばならない。日本は東亜のために親とならねばならない。主にして同時に僕とならねばならない。かゝる日本の現実的要請に直面して、そこに明確なる指導原理を持たねばならない。それは何か。それはまず日本的精神である。しかもこの特殊性は、支那と印度と欧米との精神に触発されて本来の精華を愈々挙げたのであった。しかしこれではまだ真の世界性の地盤を獲得したとは云へない。東亜が世界に於ける東亜となったとき、即ち世界の重荷を自らの肩に負ふに至ったとき、真の世界が開けるのである。それがためには、まだ東亜は摂取し参照しなければならない部分がある。それは即ち上来種々述べ来ったところの西亜文化圏とその精神である。つまり広義のヘブライズムである。具体的には猶太教や回教や基督教によって示された宗教的な世界精神である。これは従来殆ど顧みられなかった。或いは西欧の文化と精神とを介して窺われたに過ぎなかった。然るに現実は、先述のやうに、東亜の中には西亜は深く且つ交叉し浸潤しているのである」(『東亜政策と支那宗教問題』305― 306頁)。

澤崎は日本が東亜において指導性を持つためには、確かに日本は日本の独自性を示す日本精神を持たねばならないことを認めます。しかし彼は明らかにそれだけでは東亜を指導する普遍性を獲得してはいないと言います。自らの独自性(日本民族の優秀性)としての特殊性を強調するだけでは、様々な多様性の渦巻く現代世界の中で、指導的立場には立てないというのです。澤崎がヘブライズム(現代的に言えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教を含む「アブラハム的宗教」)を採り入れる必要を述べるのは、この思想が自らの特殊性を維持しつつ、普遍的世界的な立場に、血みどろの苦難を通して突き抜けている歴史をもっていると澤崎が認識しているからです。「ヘブライズムの特殊性と世界性。基督教にしても回教にしてもヘブライズムといふものは極めて強い特殊性をもっている。にも拘わらず今日多くの血と地とを越えて世界的に或いは国際的に行われているのは何故であるか。猶太人の選民意識と云ふものは根強く、而も血族に関係したものだから、その特殊性と云ふものは極めて強いにも拘わらず而も世界性或いは国際性を持っているのは何故であるか。その理由の第一は、猶太民族が選民とせられたのは自らが強大であったからではなく、却って弱小であったからであるとする。この点は普通の選民意識や特殊性の論理とは違ふ。下から救い上げる力がこゝから湧き出るのである。…… 更に基督教に就いては、之は初めから国際性または世界性というふものが強い。基督の福音は、一面確かにイスラエル選民意識の伝統を受け継いで、信仰といふものを条件として重んじている。併し他面それが持つ血族性の制限を超克して世界性にまで引き上げんとした。…… この福音の特質は、先ず第一に、神は義のみでなくより深く愛の神であるとした。即ち愛は、小なるもの、卑しきも、それを享けるに値ひしないものほど却って愛するのである。」(同書299 ―303頁)。

そして澤崎はあらためて日本精神なるものを問います。おそらくこの時代に大手をふるっていた日本精神について、京都大学経済学部の石川興二の論文「大東亜戦争の世界史的意義」に拠りながら論じます。「日本の特殊性はその「大いなる家」の精神であると云る。家であるからには、親子の情を以て関係付けられるものである。親は子に対して権威と慈愛とを以て育む。…… かゝる家の構造が、日本に於ては重層的に国にまで成っている。家の原理が総ての領域に行き渡っている。之が日本の特殊性と云われている。…… 世界と云ふものが、開かれた家として見做されている「八紘為宇(はっこういう)」。しかしまだ日本は、歴史上かゝる真に開かれた家としての世界を、現実に体験したことはない。併し今や直面している問題なのである」(同書307―309頁)。澤崎は「大いなる家」という石川の議論を無碍に批判しているのではなく、澤崎自身も受け入れているように思えます。そこに澤崎も時代に制約された、時代の子という側面があります。しかし澤崎にはこの議論の基本的な問題点が見えています。一つの理論として「大いなる開かれた家」という考えは受け入れられるでしょう。しかし日本はその歴史において「開かれた家としての世界を現実に体験していない」とは痛烈な内側からの批判と言えます。

澤崎の「大いなる家」への批判はさらに続きます。

「日本の、東亜の、これまでの歴史と精神とでは即ち大いなる家の従来の内容付けだけでは、未だ西亜の人々を十分に納得させることはできないのである。あの自然と運命との中に生え出たところの宗教を越えることはできない。この深刻なる苦難を釈き明かし、解放することはできないのである。要するに、日本はまだ彼らの体験したやうな苦難を実際には知らないのである。それだけ幸福であったのである。比喩を以て云ふならば、西亜や欧米の人達は苦労人なのである。孤児が早く両親を失って、浮世の辛酸をなめ尽くし、下から耐へ忍び、生え抜いてきたところの砂漠の薊(あざみ)のやうなものである。これに比して日本はいわば貴族のお坊ちゃんである。穏健にして、調和、真卒にして潔癖、而も所謂浮世の荒波を知らないのである。温室に咲いた桜草のやうである。日本は勿論出来るだけ自己を空しうしてよく支那や印度から、また欧米から採るべきものを採り入れた。立派な花は摘んで見た。併しその花の根の培養の真の苦心は未だ十分に知ったとは云へないのである」(同書311―312頁)。

北の、貧しい淋しき処に踏み出し行く澤崎を駆り立てているものを、澤崎は次のように記します。「基督はいつも淋しき人の友である、淋しい処へ往き給う。基督の路は、だから此の様な淋しい処に在る路である。城外の灰捨所のある辺りに下り往く路である。基督に負われ、基督と共に往かざるを得ない光栄と苦しみとを同時に心に感ずる私たちは、今もこの路を歩まねばならない。私は基督の路をまず東蒙古(熱河)に求めた。そして先ず承徳に来た。そして山の祈りに基督の姿をあざやかに見た。併し主はやがてその路を北にとって歩み出し給うた。……かくて主は興安嶺近くに留まり給う。そこには淋しき人々の群が待っている。自然の酷烈もさることながら、世の人の鞭に苦しめられた処でもある。併し人の心は却って主の恵みを渇望している。貧しき人、心の清き者、義を求めるに熱心な者達、基督の言葉に耳を傾けているのである」(『新の墓にて』183頁)。

こうして澤崎は、淋しき処に向かう主イエスに従い、深い覚悟の上で蒙古の曠野の中に、人知れず消えて往きました。消息が途絶え、跡を辿ることのできない沈黙の空間そのものが、私たちに対する問いかけです。私たちを取り巻く世界は今、暴虐と死に脅かされ、呻きと叫びに満ちています。そしてまた世界中で、自国ファーストの狭隘なナショナリズムが高まりを見せています。そのような中で改めて、20世紀の半ば、狂信的軍国主義が吹き荒れる中、淋しく貧しき人々に仕える者として、自分自身は消えゆくものとして覚悟して主イエスの十字架の和解の路に従って歩んだ澤崎の姿勢に身震いさせられます。そのような中でなお主の眼差しを覚え、自らも歩み出したく思います。

(日本基督教団 北白川教会員)