「私にとっての『和田 正』」 安積 力也
シンポジウム 発題2
一
あれは、教師になって15年目、新潟の敬和学園高校の現場を夢中で生きていた1988年の晩秋の夜だった。川田 殖先生からの一本の電話。「日本聾話学校の大嶋 功校長の後継者として立ってくれないか。この背後には、大嶋先生はじめ共助会の何人かの方々の数か月にわたる祈りがあります。」
一瞬、名状しがたい痛みが全身を走った。大地に深く張っていた根っこが一気に引き抜かれたような、アッという間に宙ぶらりんになった私。どこにも踏ん張りどころがない。「人生の質が変わってしまった」と思った。
「この問いかけから逃げてはいけないのだ、それだけは分かります」とギリギリお応えして、電話を切った。
この日以降、早朝の祈りは、この受け入れがたい招きに秘められた「御心」を問うことに集中せざるを得なくなった。「自分に嘘をつくまい」とだけ思った。「体を捧げる」しかない求めであることは直観的に分かっていた。でも「体を捧げる」ということを私はしたことがないと気づいて、ひどく苦しくなった。それ以上に、何かとんでもない不当な事態に投げ込まれたような不安を覚えた。これは「神の招き」なのか、それとも「人の招き」に過ぎないのか、分からなくなった。そして、こんな残酷な求めをされる共助会の方々を恨まざるを得ない思いに苛まれた。大切な信仰の群れからも離れていこうとする暗い深淵が、足元にぽっかりと空いていた。ぞっとした。
こうした事態の中で私を支えたものが一つある。ボンヘッファーの『主に従う』。濃霧の中で唯一頼りになる地図を見るように、毎日毎日読み返した。特に次の一句。「この招き、この恵みは、抵抗できないものである。」 これが本当にキリストの招きならば私は抵抗できないはずだ、と信じた。だから、やっぱり自分に嘘をつかないで神様の前に立とう、招いてくださる方々の前に立とう、と思った。
二
次の年(一九八九年)の冬休み―あの電話を受けてから既に一年以上経っていた―、私は、日本聾話学校にいる共助会メンバー数名と会うために上京し、和田健彦さん(日聾の美術教師)のお宅に伺った。その時偶然にも、父君の和田正先生が泊まっておられた。私は、おずおずと、でもどうしても問わずにおれない思いで、こうお聞きした。「これが主の招きだとわかる時というのは、いったい、どういう時なのでしょうか」。先生は、即座にこう答えられた。「主の召しとわかる時は、疑う余地無く、そうわかります。」そしてあの戦争末期、熱河伝道に出でたつ前の苦しい祈りの経験をお話しくださった。その時、ある恩師から次のような英語の格言を示されたという。
“Stand still, till God impels you.” 「じっと立っていなさい、神があなたを押し出すまで」。
先生は、毎朝毎朝瓜生山(祈りの山)に登り、独り、主と向き合われた。そして1945年(昭和20年・敗戦の年)一月のある朝、「主よ、勤めている学校に残るのと、中国の人々に仕えるべく出立するのと、どちらがあなたのお喜びになる道なのですか」と祈った時、「スーッと心が定まったのです」と言われた。「中国伝道こそ、主が私に求めておられる道だ。これが疑う余地のない主の御心だ、とわかりました」。
“Stand still, till God impels you.”― 今いる場所に立ち続けて「祈って、待て」。主ご自身がお前を押し出す時が、必ず来るから ―。私はそう信じて、弱い腰をかろうじて据え直した。
同席していた千野満佐子さん(日聾の中学部教師)が、そのあと手紙をくださった。「人の熱心でなく神の熱心が、初めて安積さんを動かすのだということが、ほんとうによく分かりました。そのことを祈り求めてまいります……」。
その後私は、さらに一年有余の祈りの苦闘を経て、これを主の招きと確信する地平へと導かれた。1991年3月、19年間愛しぬいた新潟の敬和学園高校を辞し、聾教育を何一つ知らぬまま、4月、体一つで東京・町田の日本聾話学校に赴任した。主に委ねきって歩むしかない未開の地平が、眼前に広がって見えた。
三
「ただ一人の中国人にだけでも仕えて、死んで生きたい」。
そう祈って、戦争末期―1945年の5月―、和田 正先生は、満州・熱河宣教の地に出立していかれた。私にとってこの先達は、私の弱い腰に二つの「確かな思い」をくさびを打ってくださった共助会の先達である。
一つ。安んじて「狭さ」に徹していいのだ、という思い。
今立っている大地に穴を空けてその奥の奥の地下水脈を掘り当てるように、どこに行っても、「狭さ」の底の底で出会う「広さ」の世界が在る。世人に知られない場所でもいい、そこに「人間」(他者)がいる限り、「ここで生きよ」と主に命じられ置かしめられた群れの中で神の御前にくずおれるしかない「私」をさらして生きていくと、最後には、「私」という「個別」に徹することで初めて至る「普遍の世界」が在った。それを自分の言葉に結晶化させると、不思議と立場を超えて他者の心に届いた。
二つ。目の前にいる「この一人」のために己が生涯を捧げて悔いない人生があるのだ、という思い。
私たちの間に起こってくる出来事は、すべて、この地上の「特定の時・特定の場所」で生起し、変転し、消え去っていく。しかし聖書は、人間が為すこうした営みと歴史を深い所で支配し導く「歴史の主」がおられることを、さやかに証しする。私たち人間が為す数限りない業の只中に、一筋、神ご自身が為したもう「神の業」が展開している。出来事を通して自らを語る神。
歴史に残る「本当のこと」は、たぶん「ひとり」から始まるのだ。「歴史の主」の御業は、一人の人格を立たしめるところから始まる。和解の業も然り。教育の業も然り。目の前にいる「この生徒」の救いは、50年先の「この国」の救いに通じる。
四
なぜか私はずっと「辺境」という言葉にあこがれてきた。都会育ちゆえの反動かもしれない。
それは「中央から遠く離れた国ざかい」を指す。
margin という英語も、これに近い言葉だ。原義は「水辺」。ヘリとかふちを指す。要するに、中心から遠く離れた場所のことであり、転じて「あまり重要でない」「取るに足りない」という含意を持つ。中央集権志向に呪縛された者にとっては、「辺境」はこのような意味しか持たない。
もう一つ近い言葉がある。Frontier という米語。これは「開拓地と未開拓地の境界地帯」を指す。この意味での「辺境」は、「中央」(この世)の力の限界が否応なく露呈する場所であり、さらには、その限界や行き詰りを越えゆく可能性をたたえた「未開の地」に直接する場所でもある。
思いがけずも私は、極めて「辺境性」の高いキリスト教学校から強い招きを4度も受けて、黙して従うしかない人生を生きた。私を待っていた現実は、弱い私にはあまりにも過酷だった。その度に「主の為さる業」としか理解しようのない思いがけない現実が、与えられた。「主に従う」道には、「一歩」だけ前に進む道が必ず備えられていた。
遣わされる場所がこの国の「内」か「外」かは、たぶん、「主に従う」生の本質ではない。
私が召された場所は、いつも、その時の私が最も行きたくない場所であった。私の偏狭さと限界と無力が露呈するしかない場所……。できれば関わらないまま、きれいに残しておきたかった遥かな「辺境」の地……。しかし今振り返ると、そここそが、神の為さる確かな歴史形成の「最前線」だった。主の憐れみに拠って、私のような者も十全に用いていただける「自己解放と自由」の地であった。
五
最後に李仁夏(イインハ) 先生と和田正先生に導かれて生涯を韓国との和解に捧げ、若くして逝った共助会の先達「沢 正彦」(1939~1989)の次の言葉を、心からの「アーメン」を唱えつつ紹介して、発題のまとめとしたい。
「共助会には、常識的な人間、型破りな人間を含めて、キリストに捉えられ、引きずられ、自分の人生をキリストによって正されるか、あるいは、ひん曲げられていった人々の、別々の生きざまがあるだけであって、私たちは、共助会の人々のこのようなライフ・ストーリーを知るだけで充分であります。……死ぬとき、この人間は、キリストを信じ、生きた、その信じ方 生き方を、共助会に、多く見出していた者だ、と言われたら、本望です。」
(『共助』1980年10・11月号「韓国と私」)
*当日配った発題レジュメにそって、当日語り得なかったことを中心に加筆した。 (元 基督教独立学園高校校長)