荒川先生の原稿を読んで 杉山 歩

 【応答:第2号 荒川朋子氏発題(元原稿)に対して】

今回、飯島先生から頂いたメールにて、荒川先生の原稿を拝読し、応答させていただく機会に恵まれたことを感謝いたします。「共助会に生きた女性が歩んだ道を、女性の視点で考えてみたい」という趣旨のため、女性と自認するわたしが、宗教と切り離した一般社会やキリスト教(会/世界)をどう見ているかについて共感します。

なお、わたしから荒川先生への応答というよりは、原稿を読んだ上で考えたこと、気が付いたこと、感じることが主な内容になっています。ご了承ください。

また、一般的に、「男女」について語る時は、基本的には男性社会/男性中心、あるいは女性差別という文脈で語られると思います。本文書も、日常の中に潜む男性中心主義や女性の「低められた価値」に光を当てる試みであり、それをいかに克服していくかについての私見であることを前置きしておきます。

[一般社会における男女について]

男女平等や女性の権利が叫ばれる現代においては、過去よりもずっと男女ともに様々な選択肢が増え、「男性だから」あるいは「女性だから」という理由で制限されることは少なくなっていると思います。特に10代・20代・30代前半の若い世代の中では、性別に基づく役割分担の意識や、理想像というものが、薄くなっていると思います。もっとも、わたしが恵まれた環境に身を置いてきた、という背景もありますが。

それでも、子どもが成長していく過程で、子どもやその家族が置かれている環境やコミュニティー内で、男女の「らしさ」や「~だから」に触れないことは、残念ながらありません。生まれたときから、男の子は青色、女の子はピンク、保育園・幼稚園では、チャンバラごっことおままごと。見るテレビは仮面ライダーとプリキュア。学校に上がった後は、言葉遣いに対する大人からの注意のされ方に男女の違いが大きく表れると思います。大人になっても、就活の時は女性にスカートの着用を求めるのは一体なぜでしょう。あるいは、職場でお客様が来たら、若い女性にお茶出しを依頼してくるのは一体なぜでしょう(この件に関しては、荒川先生の原稿でも、婦人会の話に関連して出てきました)。若い女性がお茶を淹れようが、定年の近い男性が淹れようが大して味は変わらないと思います。

上述したことは、全てわたしが経験してきた「男性だから」

あるいは「女性だから」、の違いです。「大したことない」、「この程度」のことかもしれません。でも、わたしが声を大にして言いたいことは、「大したことなく」ても、「この程度」のことでも、小さなことが少しずつ積み重なって、女性に窮屈さを感じさせているということです。そして、小さなことは、疑問に思いづらく、気が付けば、男女の「らしさ」や「~だから」が、男性だけでなく、女性の中でも内在化されてしまっていると思います。

では、キリスト教(会/世界)において、女性はどのように描かれ、扱われているでしょうか。

[キリスト教(会/世界)における男女について]

最初に申し上げておきたいことは、わたしは教会に通っているわけではないということです。教会には行っていませんが、クリスチャンの友人や、洗礼を受けていないけれど教会に通う友人が周りに多くいます。キリスト教の名前を冠した大学に通い、キリスト教の歴史や聖書についても授業でいくつか履修し、また、ほそぼそと聖書も読むわたしが、キリスト教(会/世界)の中の男女をどう見ているか、と考えていただければ幸いです。

キリスト教にとって最も大切と言える聖書での女性の描かれ方は、わたしにとって違和感の連続です。そもそも男性中心に描かれていますし、女性は「弱い者」か「忌み避けるべき者」のように描かれることが多いように感じます。女性の「不当な」描かれ方の例は枚挙にいとまがありませんが、以下にいくつか例を挙げてみます。

[女性の象徴としてのエバ]

わたしは、聖書の中のエバという存在は、人類最初の女性であり、そして聖書に限らずキリスト教世界において、もっとも女性を象徴する人物の1人として描かれているように考えています。その女性の象徴としてエバがどのように描かれているかは、言い換えれば、聖書がどのように女性を描いているか、ということだと思います。

まず、聖書の中では、神が人(男)を造り、その助け手として、人のあばら骨から女が造られています(創世記2章)。ここから、キリスト教世界において男女が一緒に/同じ土から生まれていることはまず否定されます。先に男があり、また、男から女が造られた、というのは、男性優位である象徴のように思えます。それだけでなく、女は人の助け手として造られていることが明記されているので、そもそも女性の誕生は男性の補完的役割とも言える気がします。

また、エバは、蛇の言葉に惑わされ、知恵の実を最初に食べる人間として描かれます。なぜ、人が造られた時は、男性が先だったのに、知恵の実を食べるのは女性が先なのでしょう。神が「命の息をその鼻に吹きいれられた」人が惑わされやすい存在では困るので、「助け手」の女性にその役割を担わせたのでしょうか。現在に至るまではびこる「女は愚かで惑わされやすいから」というレッテルが、必ずしもクリスチャン男性の方々の間で主流な考えだとは思っていませんが、女性は「男が治める」存在だと思われているような気がしてしまいます。

[「弱い者」としての女性と「快楽」の象徴としての女]

聖書の中において、女性の象徴としてのエバの描かれ方について述べましたが、他の女性の描かれ方はどうでしょう。まず思いつくのは「やもめ」の女性たちです。やもめは身寄りのない者、助けが必要な者として数え切れないほど登場し、その多くが女性たちを想定されていると思います。彼女たちは紛れもなく「弱い者」の象徴としての女性たちです。

他にはどのように描かれているでしょう。守られるべき弱い存在とは全く別の角度から考えてみると、女性は快楽の象徴としても描かれているように思います。例えば、第二サムエル記11章

は、ダビデがウリヤの妻バテ・シェバを無理矢理自分の妻とし、神を怒らせたことが書かれていますが、バテ・シェバの美貌に惑わされたことは自明です。実際、2節には、彼女が「からだを洗っている」という記述があるので、からだも含めた「美しさ」にダビデが心を奪われている、つまり身体的/性的魅力を感じている、と言い換えても良いかもしれません。

他にも伝道者の書7章は強烈だと思いました。23節から29節は伝道者(コヘレト)が知恵を求めようと試みる場面ですが、「愚かさの悪」と「狂気の愚かさ」を知る場面でもあります。26節には、「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠あり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」とあります。ここでの女は、性愛としての女、つまり快楽の象徴とし

ての女です。ソロモンにはかなりの側女(そばめ) がいたので、自分の生々しい経験に基づいた戒めかもしれません。

第二サムエル記と伝道者の書に共通しているのは、ダビデやソロモンでさえ陥った、肉の欲の誘惑への警告かもしれませんが、女性が快楽へ誘い、男性を惑わすような存在の「女」として描かれているようにも感じられます。

以上の例に見てきたような聖書の中での女性は、男性の「助け手」だったり、あるいは「弱い者」だったり、はたまた「罠」であったりします。このような描かれ方は、現在を生きるわたしたち女性を指しているわけではないと思っています。ですが、これだけのことが「キリスト教の聖典」である聖書に書かれていれば、自分が「女」に生まれているだけで、女性や自分の存在が穢れているような気がしてしまうのはわたしだけでしょうか。ましてや、聖書に則って生きようとする女性、あるいは、そのような人に囲まれている女性にとっては、自分が神の前に低いだけでなく、他の男性の前でも低い存在だと知らないうちに考えてしまっているのではないか、と思います。

[おわりに]

女性が「自分は劣っている存在だ」と何度も思わされ、結果的に自分自身の中で「男性より価値の低い存在だ」とどこかで思っているケースが多いことは問題だとわたしは考えています。特にキリスト教では、聖書の中でそのように読める箇所が多い上に、聖典の中身は変わらないので、余計厄介だとは思いますが、問題の本質は変わらないと思っています(もっとも、聖書が今の形として成立した時代では、政治や宗教は男性のものであり、聖書自体がそもそも男性向けに書かれていることも考慮しなければなりませんが)。そして、この問題を抱える女性はかなりいるのではないか、と推測しています。

では、多くの女性の中で内在化されてしまった「低められた女性」の価値観を克服するためにはどうすればいいのでしょうか。正直なところ、わたしが解答を持っているわけではありません。ですが、わたしが最近考えているのは、「自分の中での女性」を高めるために必要なことは、「男性と同じようになる」ことではなく、「人として自分を律し、治める」ということです。わたしの親世代は社会に出て、男性と同じように働き、稼ぐ、ということで女性の地位向上を図ってきたように思います。そして、それはある程度成功したと思います。ですが、それは結局「男性に擬態できる女性」が成功するということに他ならないと思ったのです。むしろ、「女性」や「成功」といった価値観を問い直すことに意味があるのではないでしょうか。

重要なのは、「女性だから劣っている」や「男性だから優れている」、あるいは「女性も優れている」ではなく、「自分自身の価値」や「自分が自分をどう表現するか」だと思います。そこでは、女性であるか男性であるかはあまり意味を持たず、「1人の人間として、どうありたいのか」が大切です。この時、「人として自分を律し、治める」ことで、「貶められた」という意識から、「これからの生き方」へ焦点が向けられるのだと考えています。       [引用:聖書 新改訳2017] (公益法人職員)