追悼

田辺明子さんの思い出  林 貞子

もう30年にもなろうか、明子さんがドイツへ留学なさった時、関西国際空港へ見送りに行ったのが親しくなるきっかけとなった。それも奥田成孝先生ご夫妻は本当によく京都駅まで教会員の見送りに出かけられていたことが心にあったので、見送りが困難であられた先生に代わってという思いが心をかすめてのことであった。

奥田成孝先生に接したもののみんなが自分は特別に愛されていると思う例にもれず、明子さんもそうであった。一身上の大切な問題で非常に悩んでおられた時に、教会の友が「奥田先生に相談なさっては」と勧められたので、思い切って先生にすべてを打ち明けられたという。じっと聞いておられた先生が、「そこには希望がないね」と言われたので明子さんは決断が出来たとしみじみと話してくださったことを私は忘れがたい。他教会から北白川教会へ来られたが、奥田先生を生涯の師として深く尊敬されていた。

明子さんは絵を描かれる方であった。明子さんの絵もまた先生は高く評価されていた。

話の節々からとても母上孝行な方だと思うことが多かった。阪神大震災でご実家が大きな被害を受けられて以来、弱っておられるお母様のことを案じて、定年を待たずに退職して、西宮市夙川でご一緒に暮らすようになられ、遠路北白川教会の礼拝に出席されていた。体調が悪くなり始められたけれども頑張って教会役員の務めを果たされていた。

飯島 信先生は、高松から船に乗ってゆく大島の青松園での礼拝ご奉仕のために、第五聖日には当時牧師をされていた立川から出てこられていた。明子さんが西宮におられ外出困難であることを知られ、青松園の翌日に、明子さん宅での共助会の集会を提案された。先生と明子さんと私ども夫婦で阪神共助会として発足した。外出が困難になっておられた明子さんは、飯島先生が時間をとって来て下さり礼拝できることを喜ばれていたが、体調悪化とコロナ禍が重なって、2~3回で終わってしまっている。私は明子さんと話しながらお茶の準備をして、共助会のひと時をご一緒出来た日のことが懐かしく思い出される。

お宅には自然な木が茂る庭があり、そこに来る小鳥のことなどうれしそうに語られていた。お訪ねする度に一本の梅の木に案内された。それは浅野澄子さんが手に乗る盆栽の形で贈られたもので、地に下ろされここまで大きくなったということを嬉しそうに必ず話されていた。またお母様が楽しみに手入れをされて育っているシンビジュームの鉢が沢山あってうれしそうであった。こんな細やかなことに心の行く方なのだと改めて思う。最後になったメールにもお庭のことが書かれていた。

「浅野さんからいただいた梅は大変元気で、春には白い花を咲かせてくれています。実もなります。毎朝『浅野さん、おはようございます』と挨拶しています。シンビジュームの鉢は増えました。父母のこと、祖父母のこと、叔父たち、従兄妹たちについてはいつも感謝しています。(中略)教会籍は北白川教会に戻ることが出来、毎週ファイルを送信していただいて、一週間遅れですが、我が家で礼拝に参加させていただいています。」

亡くなる2年位前であろうか、再び北白川教会へ籍を戻された。北白川教会の山本精一先生司式のもとご葬儀が行われたのは、明子さんの切なる願いがかなってよかったと思う。

私はかねてから、明子さんは笑顔がとてもかわいくて素敵だと思っている。思いつめたような真面目な表情が多いので、一層値打ちがある笑顔なのかもしれない。今思い浮かぶのは、天父の下にあるあの笑顔である。

(日本キリスト改革派 千里摂理教会員)