追悼:山田玲子氏マリアとマルタを生きたひと 川田殖

追悼 山田玲子氏

2021年11月5日、山田玲子さんが亡くなった。享年97歳。中渋谷教会本城仰太牧師による意を尽した葬儀があった。

小学校入学以来、戦前戦中戦後の厳しい時代、信仰を貫いて生きた玲子さんを敬愛する人は多い。私が知るのはそのごく一部なので、まず略歴を掲げておこう。

1924(大13)年3月29日、父西村弥輔、母信の長女として東京に生まれる。

渋谷区猿楽小学校入学。父の知合いの紹介で小学一年から、兄一之(のち遠州栄光教会牧師、共助会員)、妹(木村)洋子、弟千秋とともに、中渋谷教会日曜学校に出席。精勤。

1941年3月、常ときわまつ葉松女学校卒業。卒後一年間、高等女学校に通うが、戦争の影響で、大洋漁業のち三菱銀行に就職。

1942年4月5日に受洗(司式山本茂男牧師)。

1947年、山田美三男と結婚。長女(上原)惠、次女(奥村)緑を授かる。

1954年、三崎町教会に転入(在籍三年)。のち阿佐ヶ谷東教会に転入(在籍十年)。

1969年、中渋谷教会に戻り、以後同教会一筋の信仰生活

―山田玲子さんを偲んで―

を送る。1977年以後長老(24年)。この間1969年以降、基督教共助会の事務担当。79年、同会入会。

2021年11月5日、逝去。享年97歳。

山田さんと共助会との関わりについては、『共助』誌四〇五号「導かれて」によれば、初めはアンビヴァレント(両面価値的)な評価から次第に共同して神の愛に答えようとする歩みが記されている。正直でひたむきな熱意に心を打たれる。一九六九年、初対面の私に対してもこれは同じで、その熱心さに私は深い印象を受けたのであった。

その熱心さは私の想像を超える。当時私が非常勤講師であった学校でのプラトン『国家』篇の講義出席数年に及んだ。しかもそこでは学生諸君とも親しくなり、中には洗礼を受け、さらに共助会に入会する人さえ出てきた。そのひとりの入会の辞にいわく。

(前略)初めて共助会に参加したのは、八年前、芦ノ湖で行

われた夏の修養会でした。当時(一九八八年)僕は立教大の三年生で将来の目的や希望を失って無気力な状態でした。ただ、大学の一般教育の授業で出会った川田先生の人格の中に、自分を変えてくれる何かがあるような気がして、この人について行こうと思いました。また、この授業で山田玲子さんとも知り合い、彼女の自由で無邪気な人柄によって、信仰に対する偏見や恐れが薄れ、安心感さえ感じられました。彼らへの興味から、共助会へ行くようになったのです。

僕は、以前から、宗教は弱い者の自己満足とか、狂気というイメージを持っていて、自分は信仰によらずに立派な人間になりたいと願っていました。けれども自分自身の現実を見れば、立派になることは幻想でしかなく、背後には、悩める人を見下し、自己を神格化しようとする傲慢さがあることを知らされました。神は人間的な思い、自己の近視眼的欲求を、時に痛みを感じる程厳しく排除される方であると少ない経験の中から思います。しかしその根底には、やはり、自分の思いを超える神の愛がありそれを信じることにより、希望が与えられ、新しく生きることが可能になるのだと思います。

共助会の交わりを通して、本当の神の愛・キリストの姿に出会って生きたいです。(『共助』五〇六号)

この人こそのちの小児科医師、小高 学さんである。人の思いを超えた神の働きの何と絶大なことか。この時期が長女惠さんによれば「母の青春時代」だったという。他は推して知るべし。

私はここでもう一つのことをつけ加えずにはおられない。

1990年、はからずも共助会の委員長に指名された折、粗雑かつ軽率ゆえに失敗を繰り返す私の致命的欠陥を熟知していた山田さんは、それまで20年続けた事務の仕事を、さらに10年、延長担当してくださった。彼女の正確にして慎重、かつ献身的な奉仕がなければ私は挫折しただろう。今さら何をか言わん。思うたびごとに胸に熱いものが込み上げる。 

山田さんはおのれを語ること少ない方だった。その「学び」も「奉仕」も、神のみぞ知る部分が多いだろう。しかしたとえば『中渋谷教会九十年史』所収の「戦前の日曜学校」「婦人会」の二文と、『目で見る中渋谷教会の歴史』(中でも五五、一三九、一九六の各頁)のそこかしこを合わせ見るだけでも、その面影は髣髴として私たちの心に甦る。

新約聖書原典は彼女の座右の書であった。ここに思いを致す時、山田さんにとっては、熱心な「学び」も「奉仕」も、つきつめれば、よき師よき友に育まれての、み言葉への聴従であり応答であり、その意味で、かのマリアとマルタの姿そのもの(ルカ一〇38― 42、マルコ一四3―9、ヨハネ一一1―44)を今に生きることだったと思えてならない。しかしあの自由で無邪気な人柄の陰にある涙を拭ったのは、愛唱讃美歌(旧)290番(よろずを治し らす愛のみ手)だったろう。これをも熟読玩味しつつその信仰にあやかりたい。(2022・2) 

(哲学者 日本基督教団 岩村田教会員)