追悼

あなたの庭にいる一日―野々口吉和さんの召天を悼む 井川 満

詩編84編

奨励 2021年2月7日北白川教会小礼拝

一、野々口 吉和さんの召天

先週3日の未明に、神様は野々口 吉和さんをみ許に召されました。康子夫人に伺ったところでは、前日2日の真夜中過ぎまで野々口さんは新聞や本などを開いていたようです。3日の朝食前、起きて来られないのを訝いぶかって、夫人が寝床を覗きに行くと、鼻から血を流しており、すぐに救急車を呼び病院に運んでもらいましたが、既に亡くなっておられたとのことです。野々口さんの死は本当に突然というほかありません。

葬儀は、緊急事態宣言発出中ゆえ、ご家族と少数の親族、教会役員のみに限り、北白川教会で片柳榮一代表代行が執り行うこと、また野々口さんの御遺体が警察での検死を終えて帰られる際は教会に行っていただき、一晩をご長男の義也さんと教会で過ごすことになりました。

4日当日は幕などの飾りは一切なく、棺の両側に会堂の天井に届きそうな大変大きな美しい生け花のみの式場でした。讃美歌片柳さんの心からなる葬送の辞、あと祈祷2人だけの簡素な葬儀でしたが、私には野々口さんの生涯と相まって大変心打たれる式でありました。

ご遺体を焼窯に入れるとき、そして焼きあがったお骨を拾うとき、これほど「人間は塵より作られ、塵に帰る」ことをハッキリと突きつけられるときはありません。否が応でも人間は有限な存在であることを余すところなく実感させられます。同時に目を天に向けしめられ、救い主なるキリストの十字架を仰がされます。

二、野々口吉和さんを偲ぶ

二・一 真っ先に思い浮かんだこと

野々口さんというと真っ先に私に思い浮かぶのは、聖日に会堂で礼拝の開始を待っておられる姿です。定位置に座っておられました。私が会堂に入ると、大抵目があってお互いに目礼を交わしていました。私が講壇を担当する日は、必ず少し身体を私のほうに向けて「今日は宜しくお願いいたします」と小さく声を掛けてくださいました。極最近知ったことですが、野々口さんは日曜日に教会に来るのは大変早く、会堂が開くとともに決まった座席につくという風であったようです。

野々口さんが天に召されたと知らされたとき、私の心に浮かんだのは、教会にいることを殊のほか喜んでくれた方、との思いでした。同時に、詩編84篇11節あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりはわたしの神の家の門口に立っているのを選びます。なる言葉でした。最近は認知症の症状が時に出て、教会でも小さなトラブルを起こしたこともありましたが、変わらずに聖日礼拝を本当に喜んで守っておられました。詩人と同じく「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」と告白されていたように思います。

余談になりますが、昨年12月中旬に、NHKの「クローズアップ現代」という番組で、認知症の人が認知症の人の相談役を果たすという取り組みが紹介されました。その番組のまとめとして専門家が「認知症が進むと多くの機能が失われはするが、残されている機能も沢山あるのだ。特にその人の中心的なもの、他人への思いやりの心などはずっと後まで残るのだ。だからそれを生かす場を作ることは、当人にも周囲にも大事になるのだ」ということを語りました。

認知症となって色んな機能が失われていって最後に残るのはその人の最も中心的なものだということに、私は恐れを感じました。私に最後まで残るものは果たして何なのだろう、これはもう私の手を離れたことです。認知症になると、その人の一生の中心部分が露あらわになり、それはもう自分では繕つくろいようはないと言うことです。

その観点からすれば、野々口さんに最後まで残ったものは、「あなたの庭で過ごすこと」であったと言わざるを得ません。最近では聖日礼拝を休んだのは、亡くなる直前3回くらいであったように思います。丁度新型コロナウイルス感染症予防のための緊急事態宣言が出たとき位からでしたので、私はそのための欠席かと思っておりました。康子夫人によると、この3回は「教会に行くのがしんどい」といって休まれたようです。この頃から体力の衰えが進んだと推測されます。本当に生涯の最後の最後まで喜んで教会にこられた方、古いにしえの詩人と同じく「あなたの庭で過ごすのを喜ぶ」ことが野々口さんに最後まで残されたものであったのは事実です。そして、これが野々口さんの人格の中心でありました。

二・二 斎場で

野々口さんの棺は東山花山の斎場に運ばれましたが、片柳さんについて私も行かせていただきました。ご長男の義也さんの車に二人は乗せてもらいました。途中私は「お父さんから、中国での子ども時代の話は聞いたことがありますか」と訊くと、「父は語らなかったですね、中国でのことは語らなかったけれども、日本に帰ってから事毎に、中国引揚者ということで酷い扱いを受けたということは語っていました」との事でした。野々口さんが小学生であったときにお父様をなくされ、加えて敗戦とそれに伴う引揚げが野々口さんに過酷とも言える苦労を負わせたのだと思います。

小笠原亮一先生の追悼文集に寄せられた野々口さんの文章に、結婚されても安定した職に就けずに、止むなく自営業の道を選び、住まいを仁王門に移されたことが書かれております。仁王門に住んでいたときのことについて康子夫人が、「奥田先生が川田さんたちと一緒に訪ねてきてくださったことがある、そのとき千代子さんもおられた」と語られました。実はそのとき私も一緒させていただいたのです。これは私には決して忘れられないことです。奥田先生が川田さんと一緒に行かれることは既に予定されていたことだったと思います。先生がお出になられる直前であったと思うのですが、まだ教会に残っていた若者に教会のおばさん、恒子夫人が「先生と一緒に野々口さんのお宅へ行ってらっしゃい」と同道を勧められました。私はそのときは野々口さんを知らなかったせいもあり、あまり気乗りのしない返事をしたのでしょう、恒子夫人が厳しい調子で「野々口さんの住んでおられるところを見て来なさい」と強い口調で言われました。後にも先にもおばさんが私にあのような強い口調で語られたのは無かったと思います。その頃の私は、自分は一番貧しく育った人間だと思っておりましたが、先生と一緒に仁王門のお住まいに行ったとき、おばさんが強く言われたことを一瞬で理解するとともに、私の知らなかった貧しさのあることが分かり、私は大きく変えられたと思います。奥田先生が野々口さんのお住まいを訪ねられたのは、礼拝の後ですから日曜日であったのです。たぶん野々口さんご夫妻が礼拝に見えられないので、気遣っての訪問であったと思います。極く短い時間であったように記憶しております。

野々口さんご夫妻のご苦労を私のようなものが軽々しく口にすることは、ご遺族に不快の思いを与えるのではとの懸念を覚えますが、私は野々口さんご夫妻の凄さは、過酷なほどのご苦労の中にも変わることなく信仰生活を貫き通した点にあると思っています。追悼文集の記事の中に、納期に追われて聖日礼拝に出席できないことが続いていたときに、小笠原先生が訪ねてこられたときのことも記されております。野々口さんは正直に「神様を度外視したくなる」と口にした後、こんなことを言うと小笠原先生からお叱りを受けるだろうと思われたようです。神様を知らなければ、納期に追われて日曜日に仕事をしても何の疚やましさも感じなかったのに、との思いが表に出たのでしょう。小笠原先生はにっこりされて「仕事の時は神様は忘れて仕事に熱中する様にと言うような話をされました」と書き残しておられます。

蛇足ですが、奥田先生や小笠原先生がなされたことを、単純に仕事があれば聖日礼拝を休んでも良いと言っておられると受け取っていただくと私は大変困ります。ある教会員がNHKの番組で自分の研究を三〇分間語ることになり、その収録が日曜日となったので次週の礼拝を休むと断りを述べたとき、奥田先生は厳しく「礼拝が大切だと思うなら、あなたは出演を断ることも出来たのですよ」と言われた事も併せて覚えておきたく思います。

二・三 小笠原亮一先生とのこと

小笠原先生が被差別部落に住むに至る直接的きっかけは、先生が、放課後に行き場の無い子ども達の世話をしたいと思われて、そのような場所を探されたことに始まるかと思います。先生の本を少しばかり引用します。(『ある被差別部落にて』10頁)(夏休みを東京の下町で伝道している石居英一郎先生のところで過ごし)秋になって京都の生活に帰った私は、京都にもあのような子どもたちがたくさんいるのではないか、日曜日の午後を用いてなにかできることがあるのではないかと思い、その頃あちこちにできかけていた「チビッ子広場」をみてまわった。

小笠原先生が「チビッ子広場」を見て回るときの足の役割を野々口さんが果たされたのでした。私は被差別部落に住んでおられた小笠原先生から、「野々口さんのバイクに乗せてもらってあちこちと探した」と聞きました。小笠原先生と野々口さんはこのようなことが自然に出来る関係であったと思います。野々口さんも小笠原先生からこのような仕事を頼まれるのを喜んでおられたと勝手に推測しております。お二人は同い年ではありましたが、小笠原先生は兄きで、野々口さんが弟のような関係にあったかと思います。小笠原先生から、野々口さんの受洗に至る道のりを少しだけ聞いたことがあります。家族を養うために必死になって仕事をしなければならない野々口さんが、受洗に向けて聖書の勉強をすることは大変な努力を要したでしょう。私にそれを話されたのは、小笠原先生にとっても野々口さんの歩みが印象深かったからだと思います。

二・四 献金のこと

私がまだ若かった頃、役員に選ばれるより遥かに前のことですが、奥田先生から献金について教えられたことがあります。個々の献金は、会計と牧師以外には知らせてはいけない、牧師は牧会の責任上会員の献金を知っておかねばならない、それは献金にその会員の信仰状態が表れるからだ、ということ、これが教えられたことの一つでした。私は現在会計を仰せつかっておりますが、奥田先生の言われた「献金のなかに会員の信仰状態が表れる」を身に沁みて感じております。ご献金を通して、野々口さんは何にも増して教会生活を第一としてきたことが分かります。私は会計の特権で、このような励ましを野々口さんからいただき続けてきました。

三、終わりに

鮮明に残っている野々口さんとの思い出に、次のものがあります。私の20代の時ですが、京都共助会でイスラエル建国に関わる話をしたことがあります。後日奥田先生が、「君の話を野々口君が大変に面白がっていた」と伝えてくださいました。野々口さんが私の話に興味を持って聞いてくださったことを知って嬉しかったのを今も鮮明に思い出します。

私が話したことで唯一覚えていることは、ユダヤ人が2000年にわたって国家を持たない民族として存在し続け得た訳は「律法がユダヤ民族をずっと守ってきた故である」という告白です。「私たちがずっと守ってきた律法」ではなく「私たちをずっと守ってきた律法」という言葉に驚きを感じたことを述べたことです。その当時の私は、律法は私たちが力を尽くして守るべきものと思っていました。もちろんその面が厳然とあることを今も否定はしません。しかし年齢を重ねて現在に至ってみると「私たちをずっと守ってきた律法」という言葉、「律法が私たちを守り続けてくれている」との思いがいたします。ユダヤ民族が2000年間に経験してきた苦難は当時の私は殆ど知りませんでした。

北白川教会五〇年史に野々口さんの文章が収録されています(486頁)。そこにサルトルの本に触れた箇所があり、中世の教会はある特定の人種を追い出したことに触れ、今はそれがなくなっていることについて「特定の人種と共に感謝しています」と書かれております。教会から差別されたユダヤ人にご自身を重ねておられるのは間違いないことと思われます。ご自身が社会から謂れ無き差別を受け続けてきた故に私の話に興味を持ってくださったのかと思います。

野々口さんは中国で生まれ、お父様を亡くされ、日本の敗戦のため生活基盤を全て捨てて、お母さんや兄弟と共に日本に引揚げてこられました。引き揚げてきた日本で中国引揚者として様々の差別を受け、生活の苦労を嫌と言うほど味わったことが、書かれた文章から窺えます。野々口さんのご苦労の原因は、野々口さんに無いことは明らかです。しかし、戦争とその結果としての引揚げによって負い切れないほどの苦労を負わせられました。しかも、「神様のことを度外視したくなる」と小笠原先生に言うほどの生活をしながら、信仰を守り通したご生涯でありました。苦労の中でも信仰を守り通したのは事実です。しかし、あれほどのご苦労、苦労がさらなる苦労を生み出すような生活に置かれながら、信仰から離れることなく一生を終えられたことに、「信仰が野々口さんを守った」との感を私は禁じ得ないのです。野々口さんの信仰に応えられる神様との恵みの関係と言うべきでしょうか、そして神の恵みに勝ち取られたご生涯であったと思います。私のような苦労らしい苦労をしたことのない者が、軽々しく語るべき言葉でないことを重々承知しつつも、最初に述べた如くやはり私は「信仰が野々口さんを守った」と言わざるを得ないのです。晩年の「神の庭にいることの喜び」を毎日曜日に私たちに示しておられた姿がそれを教えていると思います。ユダヤ人が苦難の中で「律法によって守られてきた」ことを見出したように、野々口さんは苦労の連続の生活の中で「キリストの十字架による救いによって守られてきた」ことを段々と知って行かれ、そして野々口さんは、古いにしえの詩人と声を合わせて神様への褒め歌を歌いつつ天に帰られたと思います。

詩編84篇6〜8節

いかに幸いなことでしょう

あなたによって勇気を出し

心に広い道を見ている人は。

嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。

雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

彼らはいよいよ力を増して進み

ついにシオンで神にまみえるでしょう。(日本基督教団 北白川教会員)