寄稿

満州國黒竜江省チチハル 大谷 偕子

満州國黒竜江省チチハル市泰民街15番地偕子 昭和18年8月

満州國黒竜江省チチハル市龍幸区天斉街64番地義子 昭和19年9月


これは、私たち姉妹の住民票に記載された番地です。

私たちの母は、子どもの時代に、兄夫婦を頼って、「満州」へ行き、成人したあと、「満鉄」という会社の「タイピスト」として働きました。そこで「矢田文一郎」という牧師と出会い、教会生活を送りました。

夫とは矢田牧師の紹介で結婚し、その結婚式の写真が残っていて、皆さんにお見せしたいくらいです。会場には、日の丸と満州国の国旗が飾られ、教会関係の参列者は、50名以上。一組の宣教師らしいご夫婦の姿もありました。昭和20年の敗戦までの、恵まれた時代だったと思います。夫(父親)は召集で不在のため、母と私たち(2歳と3歳)3人の引き揚げが始まりました。

令和の今の時代でも、引き揚げ経験者として存命の方もいらしているので、その悲惨な出来事を語って下さっています。私も、母の手記や語りで「我が恵み汝に足れり」という、母の手記を子どもたちや孫たちに残しています。

一つだけ、母の手記から引用し、お伝えしようと思います。「中国残留孤児」のことです。以下は母の手記を記します。『チチハルからコロ島までの長い旅が始まりました。引き揚げ列車といいましても、貨物列車の屋根のない無蓋車というものです。途中勿論、雨が降ります。子ども二人を抱いて傘をさします。列車の中に水が入ってきます。着替えはびしょびしょになり、なすすべもありません。鉄橋に差しかかりました。新京(今の長春)まで鉄橋が壊されていて、ハルピンまで徒歩となりました。(壊したのは日本軍)

熱のある私と子どもは、列の一番前を歩いていたのに、とうとう最後になってしまいました。その姿は まるで幽霊のようだったそうです。みかねて 若い人たちが背中の長女をタンカで運んでくれるというので、お願いしました。小休止というのがあります。皆で一休みします。また歩き始めてどの位たったのでしょう。長女のタンカが見えないのに気がつきました。そのうち、あちらの家族、こちらの家族と四家族ほど見当たらないことがわかりました。

団長の耳に届き、牧師はタンカを運べそうな人、四・五人を連れて引き返して下さいました。先ほど小休止したその場所に四台のタンカが置き去りにされて、その中に長女も泣いて立っていたそうです。タンカを運んでくれた人は疲れたのか、面倒になったのか、そういう時代で、自分のことで精一杯だったのです。矢田牧師が引き返してくれたおかげです。これからはどんなことがあっても、人に頼らず手放してはいけないと堅く決心しました。先ほど、中国残留孤児のことにちょっと触れましたが、途中まで頑張って連れてきても、こうしてはぐれてしまうこともあるのです。「よく、年子を二人も連れて帰ってきたわね」と当時の事情を知る人から言われるのもうなづけます。』

私たちは無事帰国して日本の地で、大きくなりました。母たちが満州国の存在の意味をほんとうに知っていくのには、どの位、時間がかかったのでしょうか。中国人の土地を奪って日本の国にしてしまうという国策に関わったことなどについてです。

私の友人は、現在も「大田区中国帰国者センター」で、中国残留婦人の方々が「日本に帰ってきて良かった」と思える日々が送れるように実情に合わせた様々な支援を行っています。

私の乏しい歴史の知識ですが、「何故日本はあのような無謀な戦争をしたのか。」と思います。キリスト教界も応援 、協力していたことも、後に知らされています。今までの歴史から、①日清戦争、日露戦争、大東亜共栄圏、キリシタンへの迫害、琉球王国の滅亡、アイヌ民族への迫害、ハンセン病への迫害、水俣、足尾銅山、被爆者、福島の事故など、いずれも、迫害といじめのセットです。

そして、これらと戦う人々も、苦しい目にあっていくのです。潰されて行くのです。私は自分は罪人であり、日本人も罪人だと思います。無関係ではないと思います。イエス様の十字架を通して、罪許されていることの感謝を忘れません。

残り少ない日々を、残留孤児にもならず、82歳まで、過ごさせていただいていることを覚えて大事に生きていきたいと思います。

(日本バプテスト連盟 花野井バプテスト教会員)