戦後80年 1945年前後の私 和田 健彦
終戦の時私は5歳でした。1965年に『熱河宣教の記録』が発刊され、沢崎良子夫人や父の手記等から、終戦前後の状況を知りえて、感謝しています。
戦争末期、父は聖和女子学院に勤めていたが、『陛下をはじめ全同胞が血みどろになり、若き人々が特攻隊となって、いかに生命を捧げても、キリストの愛によって相手のために死ぬということなくしては、日本の理想は実現されない。クリスチャンとしてどうしたらいいのだろう』と毎朝近くの山で祈っていた。やがて福井二郎、沢崎堅造の中国伝道に続くことを示され、久山康氏に『教会の牧師になるようなことを考えているわけではない。私の根本方針は、生きるも死ぬるにも、わが身によってキリストのあがめられたまわんためであり、そのために最も適当な生活と仕事をしようと思う。伝道者になるのもよいし、学校の教師になることがよければそれでよい』と語っている。
1945年5月19日、神戸港から家族で赤峰の教会に向かった。後に私たちの前後の船は潜水艦に沈められ、満州に向かう最後の船だったことを知った。
渡満後、①赤峰で父は、福井先生に中国語を学びつつ、教会を訪ねるうち、赤紙が届いた。先生の配慮で、片言の中国語により、最初にして最後の説教をし、7月27日に②本渓湖の部隊に向かった。母はどんなに寂しかったことか……。
8月9日ソ連参戦が報じられ、赤峰の日本人は、日増しに事態が悪化していた。同時に赤峰より奥地の③大板上で伝道していた沢崎堅造牧師夫妻は、情勢の悪化により、赤峰の教会への移動を決めていた。8日朝、身重の夫人は、バスに乗り遅れた夫の安否を心配しつつ、望君(10歳)と赤峰の教会に移ってきた。共に北白川教会員なので、母もどんなに心強かったか。福井先生の薦めもあり、8月12日朝、赤峰在住日本人と共に、内地に向う避難民を乗せた長い列車に乗った。そして8月14日の深夜、満州と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江を渡り、翌8月15日正午頃、北朝鮮の④亀城で下車。私たちは40人位の老婦女子の集団にまとめられ、国民学校が当面の宿舎となった。翌日、敗戦を知らされ、北朝鮮は日本ではなくなり、ソ連の支配地域になったことを知った。そして17日、香さんが生まれた。
秋にかけ多くの子供が栄養失調や風土病などで亡くなった。私も11月半ば頃やせ細り大変心配された。しかし困難な避難生活の中で、香さんの存在は、二人の母に沢山の元気を与えていたことを今思う。
ある朝、宿舎の前で土いじり中、よほど空腹だったのか「この石をパンに変えてみよ……」の言葉が急に浮かび、土を口に入れた時の、強烈な違和感を覚えている。また母が卵の殻をつぶして食しているのを見ながら、骨や歯に必要な栄養だと感じたりしていた。
翌年8月、自力で南朝鮮への脱出が可能になった。野宿しながら、5日間、約150キロ歩いて38度線を越えた。南朝鮮の開城に入ると米軍キャンプがあり食べ物を与えられた。数日後、家畜を運ぶ貨車で釜山に向かい、9月博多港に引き揚げてきた。検疫のため停泊中、香さんは1歳で亡くなった。母は香さんにもしもの時は、幼児洗礼を授けてほしいと頼まれていた。牧師ではない母だが、心の準備の上、主にある友情の思いからであろうか、幼児洗礼を甲板で行った。
最後に赤峰で別れた父は、翌年10月に引き揚げてきた。後に、松本の本屋で偶然見つけた『私の満州物語』斎藤満男著に、父の難民姿の一こまが次のように描かれていた。
ある日のことホテル前の街角で顔一面、頬も顎、硬そうな真っ黒い長いひげに覆われた日本人が、きれいな造花を売っていた。カーキ色の訓練服を着た背の低い男である。色とりどりの造花を左手にひと抱え、右手に一本持っていた。その一本を通りかかり
の人に差し出し、「お花はいかがですか」と声をかけている。可愛らしい造花と髭面、それと思いもかけぬやさしいかけ声、この妙な取り合わせは周囲の注意を引くに十分だった。私は思わず、「あれっ」とつぶやいた。牧師の和田さんではないか。懐かしさがこみあげて、「和田さんじゃないですか。」と声をかけた。まさしくそれは和田さんの難民姿だったのである。和田さんは終戦間際まで、赤峰のキリスト教会の牧師さんを務めていた。在郷軍人の訓練で、ともに匍匐前進の砂塵にまみれた仲であった。
(日本基督教団 鶴川北教会員)
